◆ 第1話 ◆ ある日の櫻井係長
気持ち悪いほどよく晴れた平日の午後。そりゃ学生ならずとも眠い時間だが、社会人となるとさすがにそうもいかない。そんなわけでLSB社員のご面々は今日もだるだるお仕事中。
その中でも庶務課のデスクは、社内でもなかりだるだるなエリアである。
「係長〜……なんか回ってきたんでよろしくー」
ノータイでYシャツのボタンも上3つほど外してしまっている井上が、どこかへふらふらと行ったと思ったら、戻ってきたその手には書類らしきものが。
オーソドックスなスーツをぴしっと着こなした庶務課係長・櫻井敦司は、井上から書類を受け取り、首を傾げた。
そして。
「……どこから回ってきたの? このゴミ」
書類をゴミ呼ばわりである。しかも他の部署から回された書類で、一枚目に各部署の担当者のハンコが並んでいたりするのに、ゴミ呼ばわりである。
しかし言われた井上も慣れたもの。自分のデスクに戻りながら、ものすごく簡単に説明する。
「経理。SUGIZOに呼び出されてみたらこれだったんですよ」
ああ、あのメカオタクでフィギュアコレクターの彼ね……と、櫻井は経理部の杉原を思い出しながら、適当に書類をめくった。
眺めているのではない。本当にただめくっているだけ。
櫻井もこう見えて、かなりだるだるな状態なのだ。
「……これ、あとどっかに回すのかなあ……?」
「さあ……」
櫻井が言っても、井上は暇そうに首を傾げるだけ。
この二人、常にこの調子なのだが、仕事が終わらないとか間に合わないということが、ない。その理由は本人たちにも不明だが。
「あ、今井のハンコ見っけ。じゃあ俺も」
一枚目に製作部長・今井寿のハンコを見つけると、その隣にぽんと自分のハンコを押して、櫻井は手にしてから1分半しか経っていない書類を井上に差し出した。
「そしたら適当にユータのとこにでも回しといて」
他にハンコが見当たらないのが研究室長の藤井と営業部長の樋口くらいだったので、櫻井はそう言ったのだが。
「それでしたら僕がお預かりしますよ」
不意に横合いから差し出された手と声に、櫻井はゆっくりと首を傾げた。
横から出てきた手の主は、スーツの色からその上に乗っている笑顔、全身から漂う雰囲気に至るまでどこまでも爽やかな黒髪の男だった。
櫻井は間を置いてから、口を開いた。
「……………………………………………………誰だっけ?」
その言葉に、立ち上がろうともせずに櫻井から書類を受け取ろうとしていた井上が、上半身をごしゃっとデスクに落とした。
しかし、言われた本人である男は気にした風もなく、改めて笑顔を浮かべた。
「やだなあ、櫻井さん。僕、半年前から派遣で来てるんですよ? 営業の河村ですってば」
櫻井は首を反対側に傾げた。その首がまた元の方向へ戻って河村を見上げるまで、約2分。
「…………………………そうだっけ?」
まだ納得のいかないらしい櫻井は、記憶力が悪いのではなく、元から覚える気がないだけだったりする。
「そうですよ。じゃ、これお預かりしますね。失礼します」
河村はあくまでも爽やかな笑顔で、櫻井の手から書類を受け取り、営業部のデスクへと去っていった。
櫻井はまだ考え続けている。
その間に、井上は自販機で缶コーヒーを2本買ってきて、1本を比較的ゆっくり飲み干した。それでも櫻井はまだ考えている。
井上がなんとも眠そうな欠伸を3つ連発した後、櫻井はようやく顔を上げた。
「……ああ、思い出した。ユータが手が足りないって嘆くから、電話帳の派遣会社の名前であみだくじ作って……で、ユータが選んだとこに適当に電話したら、いい加減経ってから来たんだっけ」
その選び方もどうなんですか、とツッコミ入れた者は誰もいない。そんなことはこの会社では誰も気にしないのだ。
社長のヤガミトールやその実弟である営業部長の樋口、経理部長の星野などは、一般社会にも比較的適応できるタイプの、そうおかしくはない人である。だが、この会社ではそういったタイプの人間すら、いつの間にか感化されてしまい、どこかしらおかしくなっていくのだ。
無論、元からどこかおかしい人の方が圧倒的に多いが。
「ていうか隆ちゃんとは俺、同級生なんですよ。隣の高校だけど」
井上が2本目の缶コーヒーを開けながら櫻井に話を振ってきた。
井上が出身校の隣の高校の話をすること自体珍しい。それは櫻井も知っている。中学高校と同じ学校だったという製作部の小野瀬の話は、庶務課でもよく出るが、隣の高校の河村の話は初めてだった。
ということは河村は、井上でも知っているほどの有名人だったのかもしれない、と思って櫻井は聞いてみた。
「へえ……有名人?」
井上はあっさりうなずいた。
「俺やJの行動半径内では有名人でしたね」
井上や小野瀬の行動半径内。それは、かなりやんちゃな青春時代を過ごしたという意味である。言い換えれば、相当に喧嘩三昧だったということで。
櫻井はまた首を傾げた。
「……あんな爽やかさんが?」
井上がこっくりとうなずいたその瞬間、がっちりした身体をスーツに包んだ男が櫻井の背後に出現した。
「爽やかさんに見えてやんちゃさんなんだなあ、これが」
男が横から話に入り込むと、櫻井は一瞬びくっと身体を震わせたものの、直後に落ち着きを取り戻し、ゆっくりと男を振り返った。
視線の先には、社長秘書である真矢の姿。
ちなみに河村の過去を真矢が知っているのは、真矢もまた井上や小野瀬にとって近くの高校の有名人だったからに他ならない。
「あ」
真矢と目が合った途端、櫻井はかぱっと口を開けてたった一文字そう呟いた。真矢の顔を見て思い出したことがあったのだ。
無論、真矢はそれを思い出させるために来たのである。これもいつものことだった。
「あ、じゃないですよ櫻井さん。まーた会議があるの忘れてたでしょ」
「うん、忘れてた」
こういった櫻井のマイペースに、慣れてしまっている真矢も真矢だが、悪びれもせずあっさりうなずく櫻井も櫻井である。
そこへ、取り残されていた井上が首を突っ込んできた。
「いーなー。真ちゃん、今日のおやつ、なに?」
そうなのだ。ここの管理職クラスの会議は、必ずおやつが出るのだ。当然、お茶付きである。
管理職未満の社員には、余分にありつく者もいないわけではない。が、大半は経理の杉原がちゃっかりさらっていくため、井上などはほとんどありついたことがない。
「会長がどーしても一回は食べるんだっつってな、ごまたまご」
社長秘書である真矢の仕事には、会議のおやつの調達も含まれる。今日は会長も出席するため、会長の鶴の一声で決定されたらしい。
「あー東京にいると東京土産って食べないよね、意外と」
ぼんやりとそんなことを呟く櫻井の腕を、真矢は片手でよいしょと引っ張り上げ、ついでにデスクに放置されていた今日の会議で使う書類を持ってしまう。
社長秘書として社長の世話を焼く真矢は、社長以外に対しても世話焼きさんなのだ。
「そういうわけなんで櫻井さん、会議会議」
仕方ないとばかりに自力でまっすぐ立った櫻井は、首をこきんと鳴らしてから真矢について歩き出そうとして、上げかけた爪先を止めた。
「……今井は?」
「珍しいことに、もう来てますよ」
既に3歩ほど進んでいた真矢が、歩みを止めずに答えると、櫻井は途端に嬉々として歩き出した。
「ほんと? じゃあ行く」
まるで、今井がいなければ会議には出たくないと言わんばかりの口調だが、櫻井本人はまったく無意識だったりする。
「行ってらっしゃーい」
どうにも眠そうな井上の声に見送られて、櫻井は元気に会議室へと向かった。
……こんないい加減な会社なんです。
あったら嫌だなぁ……傍から見る分には楽しいけど。