月のながめかた








「……ごめん、もっかい言ってくれる?」
 先に説明された内容を、もう一度聞き返すのは真矢の声。
「だからね…またいなくなっちゃって」
 マネージャーが繰り返した言葉に、真矢は盛大に溜息をついてみせる。
 また、なのだ。
 いつものことなのだ。
 突然「彼」がいなくなるのは。
 RYUICHIは苦笑い。INORANは特に表情の変化は見えず、反対にJが不機嫌そうなオーラをまとう。
 あり得ないわけじゃない、どころか、あって当たり前な事態。けれど、メンバーもスタッフも慣れているとは言え、面倒事であることに変わりはない。
「…あーったく、今度はどこ行っちまったんだろうねぇ、アイツは」
 少々大袈裟に嘆くフリをしてみせた真矢の正面で、Jが椅子を蹴り倒さんばかりの勢いで立ち上がった。
「知るか」
 吐き捨てるようにそれだけ呟いて、ミーティングルームを出て行ってしまう。
 マネージャーとINORANがその背中を見送った以外は、特に誰も反応しない。これもまたいつものこと。
 Jの方は、よく言えば割り切るのが早い、悪く言えば単純なので、明日まで放っておけば何事もなかったかのような顔でスタジオに来る。
 と言うより、ああいうふうに怒っているのがはっきりとわかる時は、内心で「なんでこうも大人気ない行動しかできないかな、俺は!」と自己嫌悪に陥ってたりするのだ、Jは。ここで帰ろうとするJを咎めたりすると、今度はJが落ち込んでしまうので、その意味でも放っておくに限るのだ。
 メンバーとスタッフがJを追いかけないのは、それを熟知しているからであって。
「さて。アレはいつも通り放っとくからいいとして、問題はアイツだよなぁ…」
 真矢の、今度はそれなりに真剣な声。
「どうしよっか…って言っても、捜すしかないんだけど」
 RYUICHIが一緒になって対策を練り始めるのを尻目に、INORANが立ち上がった。
「ごめん、俺も帰るね」
 スタッフにも片手を挙げて謝る素振りを見せる。
「おう、お疲れ」
 いつも通りの真矢の挨拶。RYUICHIがそれに合わせて、これもいつも通りの言葉をかける。
「気をつけてねー」
 真矢とRYUICHIに片手を挙げて応えて、INORANもミーティングルームを出た。



 地下の駐車場へ降りて、INORANは自分の車に乗り込んだ。隣のスペースに駐めてあったJの車は、当然姿を消している。
 地上へ滑り出て赤信号で停止してから、煙草をくわえて火をつけて。
 その次の交差点で、いつもの癖でつい右折斜線に入ろうとして、少しあわててハンドルを左に戻した。
 これから行くのは家じゃないから。反対方向の、あの場所だから。
 しばらく走って、路側帯が比較的広い所で車を停めて、ポケットから携帯を取り出す。
 ちゃんとメモリーに入れてある「彼」の自宅と携帯とホームスタジオへ順番にかけて、どれにも応答がないことを確認して、また車を走らせ始める。
 自宅にもホームスタジオにも「彼」がいないこと、携帯の電源を切ってしまっていること。
 それは予感じゃなくて、確信。だからわざわざ電話をかけてみたのは確認の意味でしかなくて。
 連絡がつかない状態になった時、「彼」がいるのは決まってあの場所。
 他のメンバーやスタッフは知らないはず。「彼」とは付き合いの長い真矢でさえ知らないかもしれない、あの場所。
 それは、「彼」が「INORANにだけ教えとくね」と耳打ちしてくれたから。
 だから、他の人にはわからない。
 だから、自分にしかわからない。
 INORANは迷うことなく目的地に向けてハンドルを切り、アクセルを踏み込んだ。
 行く先は、きっと「彼」がいるはずの、あの場所。



 エンジンを黙らせた車から降りると、INORANはまた煙草をくわえて火をつけた。
 とうの昔に太陽が隠れて、西の空からその名残すら消えたこの時刻、人工の光が照らす場所だけ明るく浮かび上がる闇の中を、INORANはゆっくりと歩いていく。
 少し歩いて足を踏み入れたのは、公園だった。昼はデートスポット兼サラリーマンやOLの休憩所となるこの公園も、霊園が近いせいか夜のデートには使われず、なぜかホームレスもあまりいない。
 そんな人気のない公園の中を、INORANは変わらぬ足取りでゆっくりと歩いていく。
 途中、短くなった煙草をきちんとベンチの横の灰皿に捨てて、また歩く。
 そこかしこに植えられた木は落葉樹が多いようで、光が当たらない場所でも葉が枯れつつあるのが見て取れる。足元の土の上で、もう落ちてしまった枯葉が、微かに鳴った。
 枝葉の向こうには、丸い丸い綺麗な月。
 広い敷地の中心近くまで来ると、突然視界が開けた。目の前には夜間だからと水流が止められた、大きな噴水。
 その縁に、ぼんやりとしゃがみこんで水面を眺めている人影を認めて、INORANはほんの少し笑った。
 夜露にしっとりと湿った土が靴音を消してくれる。INORANは黙ってそっとその人影に近づいた。もっとも、背後から近づいている上に、物思いに深く沈んでいるようだから、たとえ足元がタイルで靴音が高く響いても、「彼」は気づかないだろうけれど。
「……やっぱりここだった」
 すぐ隣まで行っても自分に気づかない「彼」に、INORANは前触れもなく突然声をかけた。それが「彼」を驚かすことをわかっていながら。
 案の定、「彼」は弾かれたように振り返った。
「…INORANかぁ…脅かすなよ」
 ふてくされたような顔でまた下を向いてしまった「彼」の、振り向いた瞬間の瞳を見てしまったINORANは、黙って「彼」の隣にしゃがみこんだ。
 迷子になった子供が、知らない大人に声をかけられた時みたいな、そんな瞳。
 すがりつきたくて、けれど相手が誰だかわからないことに怯えているような。
「脅かすつもりはなかったんだけど。ごめんね」
 さして悪いとも思ってないけど。
 心の中で付け足して、INORANは煙草をくわえて火をつけた。
 横合いから無言で差し出された二本の指の間に、新しく取り出した煙草を挟めてやる。「彼」がそれをくわえるのを見計らって、ライターの火を差し出してやる。
 ゆっくりと煙を吸い込んで、同じようにゆっくりとそれを吐き出した「彼」に、INORANは視線を噴水に向けたままで口を開いた。
「…こんなとこでいい年した男二人でヤンキー座りしてるって、なんだろね?」
 INORANにすれば何気ない言葉だったのだろうけれど。
「…………………………」
 がっくりと首を落とした「彼」の心境が読めずに、INORANはいつもの癖で小首を傾げる。
 それがわからない辺りがなんともINORANらしいのだけれど。
「……………あのねぇ、INORAN?」
 うつむいた状態から視線だけ横に投げて、「彼」がそれだけ言って、笑った。
 もう迷子の子供の瞳じゃなくて。
 とても簡単な問題で引っかかっている子供を見る大人の瞳で、軽く苦笑いして。
「それだけ言って笑われてもねぇ……アナタがなに言いたいのかわかんないんですけど?」
 同じような苦笑いを返しつつ、INORANが言う。
「そうなんだけどさぁ……まぁいっか…INORANだし」
 最後は呟くように言って、「彼」は服が汚れるのも気にせずに地面に腰を下ろしてしまった。
「なにそれ」
 少しだけ、ほんの少しだけ「いじけてるんだぞ」という雰囲気を持たせた言葉を返して、INORANも地面に腰を下ろした。
 目の前には、腰を下ろすのにちょうどいい高さの噴水の縁があるというのに。
「ねぇ。なんでこっち向きでしゃがんでたの? アナタの大好きな宇宙が見えるのは反対方向なんですけど?」
 ふとそのことに思い当たって、INORANはそう聞いてみる。「彼」ならばきっと、この噴水の縁に座って、闇色の空を眺めているだろうと思っていたのに。
「今日はなんでそんなに丁寧な物言いをするのかな、INORANは?」
 質問には答えず、「彼」はごまかすように聞き返してくる。
「ん? なんとなく」
 あっさり返したINORANに、「彼」はまた少し苦笑いして、身体を前後にゆらゆらと揺らした。その動きに合わせて、うつむいていた顔を少しずつ空へ向けて。
「……いい、月だな…」
 見上げた空の途中に引っかかったような、綺麗な綺麗な月。霞のような雲が薄くかかって、とても綺麗な。
「……知ってる? 今日ってね、お月見の日」
 そう言いながら「彼」はふわりと視線を下ろして、噴水の中をのぞき込む。
「…チュウシュウの名月ってヤツ?」
 INORANが少し言いづらそうに言葉を紡ぐと、「彼」はまた苦笑い。
「…今、中秋ってカタカナで言ったでしょ。字わかんなくて」
 確かにその通りで、INORANはちょっと悔しくなる。こういう雑学的な問題で「彼」に勝てるはずもないのだけれど。
「いいじゃん…そんな習慣なしで育ったんだし、知らなくてもしょうがないでしょ」
 年の離れた弟でも見るような瞳でINORANを見て、「彼」はくすくすと笑っている。
「そりゃあね。言葉知ってるだけでも十分か」
 また月を見上げた「彼」に、INORANは軽い口調で言ってみる。
「コンビニでお団子買ってこよっか?」
 月見と言えばやはり月見団子。
「団子より酒がいいな。ワインがいい」
 予想通りの「彼」の答えに、やっぱりな、と笑う。INORANだって、花より月より団子か酒というクチだから、お互い様だけれど。
「月見っつったら日本酒じゃないの?」
 からかう口調で言うと、俄然「彼」の口調は強くなる。
「やだ。ワイン」
 駄々っ子のような言い方。こういうところが年齢不詳で。
「じゃあさ、この前友達からもらったワインあるから、うちで呑もうよ。うちのベランダから月見ながら」
 妥協案としてそんなことを提示してみる。
「…いいね」
 ふわりと「彼」が微笑んだ。
 INORANが一番好きな、滅多に見られない「彼」のその表情。
 すぐにその微笑みを消していつもの不敵な笑みを見せた「彼」を促して、INORANは公園を後にした。


「ねぇ。まだ答え聞いてないんだけど」
 グラスにワインを注ぎ足してやりながら、INORANは「彼」にもう一度聞く。
「なんの?」
 注がれたワインを一口呑んで、「彼」は呟くように問い返す。
「なんで噴水の方向いてしゃがんでたのか」
 自分のグラスにもワインを注いで、INORANは同じ質問を繰り返す。
「あぁ……月を、ね…見てた…」
 グラスに落としていた視線をふわりとガラス越しの月に投げて、「彼」は独り言のように呟いた。
 今夜はだいぶ冷えるからと、二人は結局ベランダには出ないで、リビングの床に座り込んで月を見ながらグラスを傾けている。
「…逆方向じゃん」
 あの噴水の縁、「彼」がいたあの位置からなら、噴水に背を向けてその縁に腰かけた方が、月を見上げるにはちょうどいいはず。
 首をひねるINORANに、「彼」はまた視線をグラスに落として、囁くように話し始めた。
「…あの噴水ね、外側はオフホワイトで、内側のタイルは黒いでしょ? 今みたいに暗いと、どこまでも深く深く続いてるように見えて…その水面にね、月が映ってて…時々、風が波を作るでしょ。そうすると、まぁるかった月が歪んで…どれだけ見てても飽きなくてさ…」
 いつもの早口とは違う、ゆったりした口調で、「彼」は静かに話す。
 いつもと違うから、なんだか不思議な気分で、INORANはそれを黙って聞く。
 色の濃い壜に残ったワインを分け合ってそれぞれのグラスに注いだ後、「彼」は軽く笑ってグラスを掲げてみせた。
「……INORANってほんとにさぁ…月の人だよねぇ…」
 なにを言われたのかがよくわからなくて、INORANは小首を傾げて「彼」を見る。
 柔らかく微笑んでいるのに、「彼」の笑顔はどこか儚くて。
「…Jがさぁ、太陽でしょ? で、真矢は大地って感じかな。RYUはねぇ、海でしょ、やっぱ。そんで俺は…」
 そこまで楽しげにメンバーの印象を並べ立てた「彼」は、そこで迷う素振りを見せた。
「アナタはねぇ、宇宙」
 INORANが同じように楽しげに言うと、「彼」は嬉しそうに笑った。
 そして、繰り返す。
「…そんでINORANは、月なの」
 INORANに向けて細めていた瞳を、また月に投げて。
「…水に映った月を見ててね……見てるのは月のはずなのに、INORANのこと考えてた…」
 微笑みは変わらずに儚げな印象だけを残す。
 まるで月がINORANだと思っているようなそんな口調に、INORANは少し不安になる。
「……俺は、あそこにはいないよ? ここにいるのが俺だよ?」
 思わず、そんな当たり前のことを言ってみる。
 今の「彼」は、そんな当たり前のことをどこかに忘れているようで。
「…うん……」
 上の空で生返事をする「彼」に、不安はいっそう募る。
「……ねぇ。どこにも行かないでよ」
 自分が「彼」から遠のいているんじゃなくて。
 自分から「彼」が遠のいてる。
 それは根拠のない確信。
 だからINORANは、「彼」の袖を引いた。
「ここに、いてよ」
 ここに。
 自分の隣に。左側に。
「……ここ、って…どこ?」
 なにも知らない子供のように問い返してくる「彼」の瞳に、INORANはどうしてか悲しくなる。
「俺の、こっち側」
 更に袖を引いて、自分の左側を強調して。
 それでも「彼」がわかってくれないような気がして、怖くて。
「…そこは、Jの場所でしょ?」
 ステージでの立ち位置の話だということは「彼」もわかったようで。
「ううん、Jは斜め後ろでしょ? 俺のこっち側、まっすぐ行ったらアナタだよ?」
 至極当たり前の話。
 間違えようもないこんな事実を、改めて言う必要が、今はある。今だけは。
 二人は、しばらくそのまま動かずにいた。
 月が二人を音もなく見守って。
「……俺、は……そこに、いて…いいの…?」
 長いような短いような時間が経って、「彼」がゆっくりと息を吐いて、呟いた。
「いなきゃダメ。いてくんなきゃやだ」
 INORANは引いていた袖を放して、「彼」の手をつかんで、強く握り締めた。
 ここに。
 ここにいてくれなければ。
 自分の左側に。
 冷えていたワインがすっかりぬるくなってしまった頃、ようやく「彼」はうなずいた。
 小さく。けれど、はっきりと。
「……20代のワカモノに言い諭されちゃった」
 ぬるくなったワインを一息に呑み干して「彼」は笑った。苦笑いではあるけれど、儚さはもう欠片もなくて。
「あと何日でもないじゃん」
 やっと安心して、けれど握った手はまだ放せないまま、INORANもワインを呑み干した。
「…ここに、いてね?」
 それでもまだ不安がぬぐいきれなくて、もう一度聞いた。
「…うん。どこにも行かない。ここにいる」
 はっきりと言葉にしてくれた「彼」に、INORANはやっと微笑みかけた。








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