「さっむ…!」
車のドアを開けた途端、暖かかった車内に流れ込んできた冷気に、INORANは首をすくめた。
「そりゃ寒いでしょ、冬なんだから」
運転席側のドアを開けながら笑ってそう言ったRYUICHIも、さすがに小さく身震いする。
二人がいるのは海岸沿いだから、海からの風は幾分暖かいはず。けれど、真冬ではさすがに意味はない。
「まだ始まってないんだ?」
INORANはそう聞きながら、RYUICHIより風下に回って煙草に火をつけた。
それは、風邪気味で喉を痛めているというのに、今日しかないからとわざわざ自分を連れ出してくれたRYUICHIに対する、せめてもの気遣いで。
移動中も我慢して吸わなかった。RYUICHIの車だからということももちろんあるけれど。
「うん。もうちょっとで始まるかな。少し歩くけど、いい?」
言いながらもう歩き出しているRYUICHIに、INORANは黙ってついていく。
誘われたのがなぜ自分なのか、INORANはよくわかっていなかったけれど、RYUICHIの提案は悪くないと思えたから、誘われるままにRYUICHIの車に乗り込んだ。
そうして連れて来られたのがこの海岸で。
真冬だというのに、ここで打ち上げ花火をやるのだという。
真冬の、月のない晴れた夜を選んで開かれる花火大会。だから毎年、開かれる日が違うのだそうで。
RYUICHIは数日前にINORANにそのことを話して、一緒に行かないかと誘ってきた。
「そういうのって彼女と一緒に行くもんだと思うんだけど?」
からかい気味にINORANはそう言った。
「都合悪いって断られちゃってね」
残念そうに苦笑いするRYUICHIは、嘘をついているふうでもなく。
けれど、彼女の都合が悪いからと言って、それで次に誘われるのがなぜ自分なのかが、INORANにはわからなかった。
わからないけれど、わからないままでもいいか、とも思う。
二人とも、厚手のコートの下まで厚着して、それでも時折来る冷たい風に震えながら歩く。
RYUICHIの手には毛布まであって。波乗りに行く時、アイドリングしている車の中で温まるのは海の空気を汚しそうで嫌だからと、常備しているものだという。
海に入る前、波を待つ間に使うものと、海から上がってきて包まるものとは別なんだそうで、RYUICHIが今持っているのは前者。だからしょっぱくはならないよ、と笑ったRYUICHIにつられて、INORANも笑った。
「あ、始まった!」
不意に、嬉しそうなRYUICHIの声。
驚いて顔を上げたINORANの視線の先には、海と、空しかなくて。
火のついた火薬の塊が空へ駆け上がる、音と、その軌跡。
そして次の瞬間、真冬の空に大輪の花が、咲いた。
炎の花が開いた後、ほんのわずかなタイムラグを置いて足元から響く、不安感を煽るようなものとは正反対の、心地良い爆発音。
それを蹴散らすように駆け出したRYUICHIの後を、INORANはあわてて追った。
海岸沿いの国道のガードレールから身を乗り出すようにして、次の花が咲くのを待っているRYUICHIに並んで、INORANも同じ空を見上げる。月のない、濃い闇が広がる空。
少しの間、背後を車が走る音だけが聴こえて、そしてまた花が咲いた。
「ね? こっち側、穴場でしょ?」
鮮やかな残像を闇に焼き付けて消える花を背に、INORANの方を見て、RYUICHIは嬉しそうに笑いながら言う。
出かける前、見物客が多いところは嫌だと言ったINORANに、RYUICHIは人が多い辺りとは花火を挟んで反対側に行くから大丈夫、と答えた。
確かに、露店が出ているのは国道の緩いカーブの向こう側で、こちら側は路駐している車もほとんどいない。
「でも、その分寒いね」
皮手袋でガードした手を擦り合わせながらINORANが言うと、RYUICHIはまた笑った。
「冬なんだから人なんかいくら多くたって寒いでしょー?」
それはそうだとINORANも笑う。笑いながら見上げた空に、また一つ花が咲いた。
「RYUちゃんさ、去年…じゃなくて一昨年って言ったっけ? 前も来たって言ったよね。その時は彼女と一緒だったんだ?」
なんとなくそんなことを聞いてみた。
答えが返らないならそれはそれでかまわなかったし、RYUICHIの機嫌を損ねてしまうなら素直に謝ろうと思っていたけれど、RYUICHIはそのどちらとも違う反応を見せた。
INORANに向けていた視線を海へ流して、また一つ咲いた花に向けるのではなく、冬にしては穏やかな波を、ただ、見つめて。
「彼女じゃなくてね……真ちゃんと一緒に来たんだ。真ちゃんが教えてくれたんだよ、この花火。去年は仕事抜けらんなくて見逃したけど」
そして、淋しそうに笑った。
「……真ちゃん、お祭男だからねぇ」
RYUICHIの淋しそうな微笑みの意味は読めなかった。だから、INORANにしては頑張って茶化そうとしてみたのに、RYUICHIは引っかかってこなくて。
淋しそうな微笑みのまま、空に咲く花ではなく、一つとして同じもののない波を、ただ見つめている。
「…一昨年だからさ…一昨年の今頃ってことは、真ちゃん、まだ彼女…奥さんと付き合ってなかったんだよね。だから、俺のこと誘ってくれて……俺、その頃ちょうど彼女とケンカしてて、真ちゃんに愚痴ってばっかいたんだけど」
淡々と言葉を紡ぎだすRYUICHIの視線は、やっぱり海に注がれている。
花火を見に来たのか海を見に来たのかわからないくらい、RYUICHIの視線は下向きで。
海岸にサイレンが鳴って、少しの間を置いて一際大きな花火が上がった。歓声がここまで聴こえてくる。
派手な色で飾るのではなく、シンプルな、一色だけの火花が幾千幾万と降り注ぐ大きな花火。
爆発音の残響も消えて、波の音が耳に戻って来た頃、RYUICHIはまたあの淋しそうな笑顔を見せた。
「ここへ来る車の中でもね、俺、散々愚痴ってて。真ちゃんは時々相槌打つだけで聞き役に徹してて……でも、車から降りたら、真ちゃん突然黙ってね」
また最初の方と同じくらいの大きさの花がいくつも咲いた。
逆光になって、INORANからはRYUICHIの表情が読めなくなる。
そのわずかな時間に、RYUICHIはなにかを押し殺したようで。
「…同じこの場所で、同じように花火見てて……それから結局俺の家まで送ってもらって、『じゃあね』って言うまで、俺も真ちゃんも一言もしゃべんなかった。俺、真ちゃんを怒らせたのかと思ったんだけど、なんか違ってね……なんだろう…花火を見に来たのに、真ちゃんも俺もずうっと海ばっかり見てて……帰る頃にはすごく気持ちが落ち着いてたんだ…なんにも言われてないのに」
感情を無理に心の奥深く押し込めたような、なにかをこらえているような、そんな声。
「……RYUちゃん…?」
名前を呼んだINORANの声は、遅れた爆発音にかき消された。
RYUICHIがなにを言いたいのか……それ以前に、なんのために自分をここへ誘ったのか。INORANにはやっぱりわからなかった。
わからないけれど、RYUICHIがきっとなにかを抱え込んでいること、そのなにかを話してしまいたいんだろうということ、それはなんとなくわかって。
だから、INORANは新しい煙草に火をつけて、RYUICHIがまた話し出すのを待った。
それをわかっているのかいないのか、RYUICHIは黙ったままじっと海を見つめるばかりで。
いくつもの花が咲いて散って、INORANが煙草を足元でもみ消した頃。
「…っくしゅっ」
隣から聴こえたくしゃみ。見れば、RYUICHIが寒そうに肩をすくめている。
「なんのために毛布持って来たの」
苦笑いしながらRYUICHIの手から毛布を取って、背中から包みこんでやった。
「ありがと…INORANは? 寒くない?」
いつもより少し張りのない、頼りなくさえ思えるような声で心配してくれるRYUICHIに、INORANは笑ってみせた。
「寒いことは寒いけど、大丈夫。それより煙草の匂いついちゃうの、ヤじゃない?」
これに、と毛布の端をつまみ上げて言ってやる。
RYUICHIは視線を海に戻して、ゆるく首を振った。
「べつに、いっつも周りの人みんな吸ってるんだし、今更気にはならないよ……一昨年、真ちゃんと来た時だって、真ちゃんと二人で包まってたんだから」
これに、と同じように毛布の端をつまみ上げて、RYUICHIは笑った。
けれどその笑顔は、やっぱりどこか淋しそうで。
その横顔を見つめながら、INORANはふと思い当たってしまう。
RYUICHIが淋しそうな笑顔を作るのは、真矢と一緒にここへ来た時の話をする時……と言うより、真矢の話をする時だ。
なぜそれに思い当たってしまったのか、自分でもわからない。
ただ、理屈抜きでなんとなく、わかってしまう。
RYUICHIにとって真矢は、なにか特別な意味を持つ存在なのだと。
淋しそうな笑みを消したRYUICHIは、ただ海を見つめている。
大好きだと、とても大切な場所だと日頃から言っている海を、なぜそんなに悲しそうな瞳で見つめるの?
「……RYUちゃん」
気がついた時には、INORANは後ろからRYUICHIをゆるく抱きしめていた。
考えるより先に身体が動くなんてJじゃあるまいし、と心の中で自分の行動に驚きながら。
「…なに…どうしたの?」
やっぱり驚いているRYUICHIが振り向いて、INORANとぴたりと視線を合わせてくる。
その瞳はいつもと同じように綺麗で、INORANは少し安心する。
「……やっぱ寒い。入れて」
なんとなくそう言ってみる。
今頃になって変なの、と笑いながら、RYUICHIは毛布の端をつまみ上げて、INORANの肩を包んでくれた。
またサイレンが鳴った。少しの間を置いて、それまでで一番大きな花が、闇色の空に咲いた。
最初から散るために作られ、夜空をほんの数秒間飾った炎が消えて、残響音も消えて。
二人はそれを黙って最後まで見守った。
毛布に包まって肩を寄せ合って、お互いに片手で相手の肩を抱いて、もう片方の手で毛布の前をかき合わせて。
「RYUちゃんさ……真ちゃんのこと、好き?」
RYUICHIの肩を抱いた腕にほんの少しだけ力を込めて、INORANは囁くように問いかけた。
「……うん。恋愛感情じゃないけど、好きだよ」
ためらったのはほんのわずかな時間。RYUICHIは穏やかに凪いだ声で、はっきりとそう言った。
「…取られたって思う?」
なにを、とも、なにに、とも言わない。それでRYUICHIには伝わるはず。
「……だって、真ちゃんは俺のものじゃない。取られたもなにも、最初から真ちゃんは誰のものでもないもん」
ちゃんとINORANの思ったことを読み取って、RYUICHIはやっぱり穏やかな声で囁くように答えた。
ただ、その声がわずかに震えていて。
RYUICHIの心は決して穏やかではないのだとわかる。
「…でも、傍にいて欲しいんでしょ?」
たぶんそういうことなんだろう。
RYUICHIはきっと、真矢になにかを期待しているわけじゃない。
RYUICHIにとって特別な存在である真矢はきっと、いつもの自然体の真矢だから。
RYUICHIにはきっと、いつも通りに笑顔で迎えてくれる真矢がいれば、それでいい。
ただ、傍にいてくれたら。
それだけで安らげる。
だから。
「……ワガママなんて言えるわけないんだ。わかってるんだ。真ちゃんには大事な奥さんがいて、子供も生まれたばっかりで大変で、でもその子供のこと話してる時の真ちゃんを、俺は知らないんだ。今まで知らなかったんだ。俺の知ってる真ちゃんがいなくなって、俺の知らない真ちゃんがいて、すごく不安で…!」
小さな声で、けれどどんな声より胸を突き刺すような声で。
RYUICHIは一気にそれだけ言い放って、それだけで上がった息をうつむいて整えようとした。
「……RYUちゃん」
INORANはそっと覆い被さるようにして、RYUICHIの背中に耳をつけた。
息と同じように速くなってしまっている鼓動。
けれど鼓動が速ければ熱くなるはずの身体が、冷えて震えていることを、INORANはなぜか感じ取ってしまう。
ステージではあんなにも大きく見える背中が、今はとても小さな子供のように思えて、INORANはRYUICHIをそっと抱きしめた。
「……真ちゃんは真ちゃんだよ。なんにも変わってないし……RYUちゃんも変わってない。俺から見たら、二人ともなんにも変わってないよ……頼りたかったら頼ればいいんだよ。傍にいてほしいなら傍にいてって言えばいいよ。真ちゃんは大変かも知れないけど、それを嫌だとは言わないよ、きっと……大丈夫だよ」
いつもの癖で、言葉を選びながら少しずつ紡ぐ。でも、今のRYUICHIにはその方が届くような気がした。
RYUICHIの、浅く繰り返されていた呼吸が次第に落ち着いてきて、強張っていた身体から力が抜けたのがわかる。
背中から抱きしめていた身体を少し離して、INORANは真横からRYUICHIの顔をのぞき込んだ。
「…大丈夫だよ」
もう一度、同じ言葉を囁いた。
ガードレールの上で組んだ腕に顔を伏せていたRYUICHIは、ゆっくりと視線を上げた。
なにも知らない子供が「本当?」と問うような瞳で。
すべて知っている大人が「嘘だろう?」と嘲笑うような瞳で。
その視線を穏やかに受け止めて、INORANはもう一度言う。
「……大丈夫だから」
次の瞬間、RYUICHIはほとんど身長の変わらないINORANにしがみついた。
INORANのコートの肩に顔を埋めて、うめくように、けれど不思議と落ち着いた声で、静かに言葉を紡ぎ出す。
「…忘れようと思ったんだ。もう真ちゃんを頼っちゃいけないって…真ちゃんに頼って甘えてた自分を忘れようって思って……だって、道は続いてるから。真ちゃんと俺の距離が少し離れても、道はずっと続いてるから。だから、忘れなきゃって、思って……」
しがみついてきた時の勢いで外れてしまった毛布を引いて、RYUICHIの肩を包んでやりながら、INORANは黙ってRYUICHIの言葉を聞いていた。
RYUICHIの声と波の音が、綺麗に混ざっているのに気づいて、秋にSUGIZOが言っていたことを思い出す。RYUICHIは海の人だと。
「…でも、忘れなくてもいいのかな……忘れないで…真ちゃんの傍にいても、いいのかな…」
忘れたら、どうやって一緒にバンドをやってくんだろう?
そんな、少しずれた問題を考えついてしまって、けれどそれで揚げ足を取ることはしないで、INORANはRYUICHIの後ろ髪を軽く引いた。
つられて顔を上げたRYUICHIの瞳は、とても綺麗で。
「…RYUちゃんが真っ正面からいなくなったら、真ちゃんの方が落ち込むよ? ぜっっったい」
最後の一言に目一杯力を入れて言ってやったら、RYUICHIはそれがおかしいと、笑った。
いつも通りの笑顔で。
「…寒いね。帰ろっか」
INORANの腕からするりと抜け出て、もう炎の花の影すらない闇色の空を見上げて、RYUICHIが言う。
「そうだね。俺も風邪ひきそう」
返した言葉は冗談でもなんでもなくて、INORANは本気で身震いした。これ以上ここにいたら、本当に風邪をひいてしまう。
二人で車を駐めたところまで戻りながら、INORANは思う。
RYUICHIの胸の内で、きっと真矢という存在の意味は、少し変わったのだろう。
けれどそれは嘆くべきものじゃなくて、二人の新しい距離。
二人の今までの距離は、冬の花火とともに記憶に焼きついて、過去のものになったのだろう。
きっと大丈夫。
それは根拠のない確信。
RYUICHIに家まで送ってもらったら、真矢に電話しよう。いや、子供が起きてしまいかねないから、携帯にメールを送る方がいい。
真矢にはこう言っておかないと。
「RYUちゃん、もう大丈夫だよ」
人一倍心配性な真矢は、このところRYUICHIの様子がおかしいのをちゃんとわかっていて、随分と気にかけていながらも子供の世話に追われていた。SUGIZOやINORANに、それとなくRYUICHIの様子を見ててやって、と頼んできたのは十日ほど前のこと。
今度はその真矢を安心させてやらないと、真矢の場合は熱を出して倒れることも珍しくないから。
そんなことになったらまたRYUICHIが落ち込む。悪循環はスタッフの迷惑。
「板挟みってのも楽じゃないねぇ…」
助手席側のドアを開けながらINORANが呟いた言葉は、しっかりとRYUICHIの耳に入ったらしい。
「えー? なにー?」
花火見物を終えた見物客の車が増えてきていて、大声でないと相手には聞こえない。
「なんでもなーいー!」
わざと子供っぽい言い方をしてみせて、INORANはシートに身を沈めた。
家に着いたら真矢にメールを送る前に、SUGIZOに電話をしよう。SUGIZOにも、RYUICHIはたぶんもう心配ないということを伝えて、後のことを任せよう。
そこから先は、恋人たちの間でいろんな言葉が交わされるだけのこと。
「……RYUちゃん、ちょっとごめん。電話していい?」
「なに、突然改まっちゃって」
視線は前方に据えたまま、RYUICHIが笑った。
INORANはなにも答えずに、携帯の短縮ボタンを押した。
なんだか急に自分の親友兼恋人に逢いたくなったから、なんてことを、わざわざRYUICHIに教えてやる必要はないから。
RYUICHIから視線を外して、INORANはじっとコール音を聴いていた。
体調があまりよくないからと、早々に家に帰ったはずの恋人は、きっと半分眠っている。それを起こしてしまうのは少し気が引けたけれど、どうしても逢いたくなったから。
電話に出る恋人の不機嫌な声を想って、INORANはほんの少し笑った。
闇色の空と、闇色の海が、流れる車の列を穏やかに見送っていた。