DAWN






 午前3時。
 世界がまだ深い闇の支配を受けている時刻。闇の中でだけ生きられるモノはその動きを止めず、光と共に在るモノはまだ動き出さない時刻。
 闇が薄れ、鮮烈な光が世界を白く染めるのは、まだもう少し先のこと。
 スタジオからの帰り際に、しばらく会っていなかった友人から誘われて酒を酌み交わしていたJは、そんな時刻にようやく自宅に帰り着いた。
 一緒に帰ろうと思っていたINORANは、いいフレーズを思いついたから、と帰り支度をして一度出たスタジオにとんぼ返りした。
 それが日付が変わる前、11時半くらいだったから、もう帰ってきているかもしれない。
 親友兼恋人はこの部屋の合鍵を持っているし、約束もないのに勝手にこの部屋にいることもある。もちろん、約束しておけばよほどのことがない限りはちゃんとここへ帰ってくる。
 スタジオにとんぼ返りするINORANに、「部屋で待ってる」と言っておいたから、INORANはここへ来るはず。
 エントランスに入る前に見上げた自分の部屋に、灯りはついていなかった。
 まだスタジオでギターを抱えているのだろうか?
 確認のためにINORANの携帯を鳴らすのは気が引ける。
 音作りに時間がかかるのはいつものこと。たった3時間で終わるはずもない。
 それに、もしここで携帯を鳴らせば、ギターの音にだけ向けられた意識を散らしてしまいかねない。
 自分だって、ベースに集中している時に余計な音で邪魔されたくない。バイブになっていたって、振動音というのは実はけっこう耳障りなものだし。
 だから、INORANの携帯を鳴らすわけにはいかない。
 エレベーターで自室のフロアまで上がり、キーを取り出してドアを開ける。
 玄関に放り出してある靴は自分のものばかりで、INORANの靴はない。
 誰に気兼ねする必要もないとわかってはいるけれど、なんとなく足音を忍ばせてキッチンへまわり、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、一気に半分ほど喉に流し込む。
 ボトルを持ったままベッドルームへ移動して、ジャケットだけ脱ぎ捨てるとそのままベッドに倒れこむ。
 睡魔がいい具合に闇へと手招いてくれているのを一時的に無視して、Jは少し考えた。
 INORANはやはりいない。
 自宅に帰ったのかどうかだけでも確認したい気持ちはあるが、互いにプライバシー保護のために定期的に電話番号を変えているのがあだになる。
 また番号を変えたから後で教える、とINORANが言ってきたのは、今日スタジオで顔を合わせた時だった。その後、教えてもらう時間がなかったから、JはINORANの新しい電話番号をまだ知らない。つまり、携帯ではなく自宅に電話することができない。
「……いっか……」
 ボトルのキャップだけはしっかり閉めて、今度は素直に睡魔のご招待に応じる。
 穏やかな寝息が聞こえるまで、わずか5分。
 世界はまだ、新しい光を迎えていない。



 INORANがスタジオを出たのは、午前2時半過ぎだった。
 Jと帰ろうとした矢先に思いついたフレーズは、これからが俺の時間とばかりに元気いっぱいのSUGIZOに絶賛された。
 だが、INORANの頭に浮かんだ音色と現実に出せる音色が、あまりに違いすぎた。
 SUGIZOとギターテクニシャンが勧めてくれたエフェクターを使えば、頭に浮かんだ音色を再現できるかもしれない。しかし生憎とそのエフェクターは手元になく、使用できる状態のものをレンタルするにしても朝にならないと手の打ちようがないというので、INORANはあきらめて一度帰ることにした。
 今夜二度目の帰り支度をしながら、先に帰ったJはどうしてるだろう、と考えてみる。
 スタジオへとんぼ返りするINORANに「部屋で待ってる」とは言っていたけれど、どこかで呑んでいるかもしれない。あるいは部屋にいたとしても、眠ってしまっているだろう。
 昨夜はJが熱を出してしまって、そう大袈裟なレベルの風邪でもないのに妙に淋しがる癖のあるJに、結局ついていてやったのだ。
 その反動で今朝はやたらと眠かった。
 なのに、一晩ぐっすり休んですっかり元気になったJは、半分眠ったままのINORANを容赦なく叩き起こしてスタジオに連行してくれたのだ。
 だから、今夜こそは自宅に帰って猫と戯れながら惰眠を貪ろうと思ったのに、「部屋で待ってる」と言われたら……バンド内一背が高くてガタイもいいのに淋しがり屋な親友兼恋人の言葉とあっては、聞いてやらないわけにはいかない。
 少々腹を立てつつも、INORANはやっぱり、拾ったタクシーの運転手にJの自宅の住所を告げてしまう。
 ポケットから取り出した携帯を、INORANはしばらく迷ってから結局ポケットに戻した。
 Jの自宅にかけて、もしJが眠っていたら起こしてしまうことになる。この場合は携帯でも一緒。
 Jがどこかで呑んでいたら、それはそれで邪魔になりかねない。
 合鍵は持っているんだし、Jがいようといまいと部屋に入ってしまえばいい。
 そこにJがいるかどうかで自分の行動を決めればいい。
 だから、電話はかけなかった。
 車窓から見上げた街は、まだ深い闇に沈んでいた。
 新しい光に突き刺さるビルの群れを眺められるのは、まだもう少し先。



「……J……? いる?」
 INORANが真っ暗なリビングに足を踏み入れても、はっきりと人の気配を感じることはできなかった。
 闇に慣れてきた目で、そこに誰もいないことを改めて確認すると、INORANは慣れた足取りでベッドルームへ向かう。
 ドアを開けた瞬間に鼻につくアルコールと煙草の匂い。その向こうから聴こえてくる、一人分の穏やかな寝息。
 五歩進んだところで、放り出されていたジャケットを踏みつけた。
 特に気にすることもなく、さらに三歩進んでベッドサイドに立ち止まると、INORANはJと同じようにジャケットだけ脱ぎ捨てて、ベッドにダイヴした。
 半端に斜めに倒れこんでいるJの真横。INORANの片足はベッドからわずかにはみ出しているくらいなのだが、本人は気にせずにJの寝顔に目をこらす。
 10代の頃よりはるかに精悍な顔つきになったはずのJの顔は、眠っているというだけで10代の頃よりも幼く見えるから不思議。
 顔にかかるJの寝息もかなり酒臭いけれど、それにももう慣れた。
 互いの顔の間に投げ出されたJの片手を両手でそっと包み込んで、INORANはゆっくりと目を閉じた。



 Jはうっそりと目を開けた。
 サイドボードに置いた役立たずの目覚し時計の文字盤が、まだ読めない。ということは、まだ薄暗い時間帯だということで。
 眠りに堕ちてからどのくらい時間が経ったのかわからないが、夜から昼を越えてもう一度夜を迎えたわけではないらしいことは、まだ酔いが抜けきっていない感覚から想像がつく。ほんの2、3時間眠っただけで目を覚ましたのだろう。
 夢を、見た気がした。
 そうだ、それで目が覚めたんだ……と、Jは口の中で呟きながらその夢を反芻する。
 たまに見る、あの夢だった。だから目を覚ました。どうしても目を覚まさなければならないような、妙な焦燥感に駆られる夢だった。だから目を覚まして、そして。
 じっと目を凝らし、耳を澄ましてみたJはすぐに、夢が現実になっていないことを知って、安心したように溜息をついた。
 ベッドサイドに置きっぱなしの煙草に伸ばそうとした手が動かないことに気づいたのは、この時。
 よくよく目を凝らしてみれば、隣で誰か眠っている。その人物が自分の手を握っているのだとわかって、Jはまた溜息をついた。
 こんな可愛らしいことをしてくれるのは親友兼恋人くらいしかいない。
 顔の傍でINORANに握られた右手はそのままに、左手でそっとINORANの髪に触れてみた。
 ぱさぱさと渇いた感触は手に馴染んでからずいぶん経つ。
 それだけの時間、隣に並んで、歩き、立ち止まり、走ってきた。
 もう、人生の半分以上になる。
 その間、表面的にも内面的にも変わりながら、それでも自分の隣にいてくれる。
 その当たり前になったことが嬉しくて、JはなんとなくINORANの髪を撫で続ける。
 ふと視線をサイドボードに戻すと、時計の文字盤が読める程度に外が明るくなってきているのがわかった。
 降ろしたままのブラインドの隙間から見えるのは南西側の空だから、朝日が入ることはない。
 だが、そのブラインドの隙間からのぞく空さえ明るく見えるほど、朝が近づいている。
 時計の針が指し示すのは、午前5時過ぎ。
 防音ガラスの向こうで、そろそろ人が動き出す時間。
 狭苦しいほどではないけれど、外の世界から見れば隔離された小さな空間で、Jはぼんやりと時計を眺めてそんなことを思った。
 人が溢れかえる街で季節感などとは程遠い生活を送り、時間の感覚すら失くしてしまいそうな日々の中で、Jはよく、空を見上げる。
 気温や天候、周りを行く人の服装など、様々なことから季節を知ることはできるけれど、Jは空を見上げることでそれを知る。
 春の空はぼんやりと霞んでいる気がして、見ている方までのんびりした気分になる。
 梅雨時は湿気には悩まされるが、雨が降っている割には空の色は明るい。
 夏の空は青から水色を通り越して白く見えることがある。
 秋の空はすっきりと透明感のある色で、届くはずもない手をつい伸ばしたくなる。
 冬の空は重くのしかかってくるようだけれど、晴れ間がのぞく日は他のどの季節より太陽が綺麗に見える。
 今日の空はきっと、太陽の光をいっぱいに吸い込んだ鮮やかな色をしてるんだろう。
 あんな夢が現実にならなければいい。そう思いながら、Jは目の前にあるINORANの寝顔をじっと見つめた。
 INORANに話したことはない。あの夢のことを誰かに話したことは、一度もない。
「……言えるわけねぇよなぁ……」
 自分で自分の言葉に苦笑して、JはまたINORANの髪を撫でた。
 言えるわけがない。あの夢が現実になるなんて、そんなことあり得ないとわかっているから、INORANにも他の誰にも言えるはずがないし、言うつもりもない。
 時計の文字盤はもう霞むこともなく読むことができる。闇色が支配する世界が消えた時刻。
 Jはまだあの夢のことを考えている。
 INORANの夢だった。
 その夢を見るようになって、もう何年も経つのに、夢の内容は変わらない。
 JとINORANが真っ暗な場所にいて、けれど、手が届きそうな場所に光がある。その光にINORANだけが飲み込まれて、暗い場所からJがどんなに手を伸ばしても、INORANには届かない。
 光は急速に遠ざかって、INORANの姿も見えなくなって、Jだけが暗闇に取り残される。
 そんな夢だった。何度その夢を見ても、夢の内容は変わらない。
 そんな夢を見た朝、隣にINORANがいればその寝顔を見つめた。
 そんな夢を見た朝、隣にINORANがいないなら電話をかけた。
 Jだって、INORANが自分の隣からいなくなることなどあり得ないと思っているわけではない。けれど、それが今この時に現実になっていないかどうか、不安になるから。
 隣にINORANがいて、静かな寝息を立てていたら、それだけで安心できた。
 隣にINORANがいなくても、寝起きの掠れた声で電話に出てくれたら、それだけで不安は消えた。
 髪を撫でていた手をINORANの肩に回して軽く抱き寄せると、Jはまた目を閉じた。
 INORANは自分の隣にいる。
 それを確かめるように、自分の右手を包むINORANの手を握り返して。



 ブラインドの隙間からは、世界を白い光で染め上げた朝が、幸せそうに眠る二人をのぞいていた。








NOVELS TOP

POSTSCRIPT