桜満開






 もう、何年前のことだか忘れたけど。
 求めるものがとてつもなく大きくて遠くて、それを知っていながら届くはずのない手を必死に伸ばしてた頃。
 RYUが肩で髪を切り揃えてた頃だった。それだけ覚えてる。
 メイクしてないと、あの眼光の鋭さが少しだけ和らいで見えた頃。小さく微笑むと、男とも女ともつかない不思議な雰囲気に見えた頃。
 今でも記憶の片隅から消えないあの光景を、俺はきっと一生、忘れられないんだろう。





 春だった。
 仲のいいバンドの連中や世話になってるライターさん、気心の知れたスタッフまで一緒になって、みんなでバカみたいに、ガキみたいに、朝方まではしゃいだ。名目だけは花見酒ってことにして、いつも通り大騒ぎしてるだけの飲み会だった。
 INORANが誰かと楽しそうに話してるのを、Jが少し離れた所からちらちら見ては気にしてた。真矢が別の輪の中心で笑いのネタを振りまいてる。俺は珍しく、勧められるままに酒を呑んでるだけだった。もちろん、気の合うヤツと少し話したりはしてたけど。
 満開の桜の下。ロマンチックにも幻想的にも程遠い騒音を夜空に撒き散らしてるのは、俺たちだけじゃなかった。例えば、隣の樹の下には昼間はきっちり結ばれてたはずのネクタイをだらしなくゆるめたサラリーマンの団体がいた。
 日付が変わる少し前から呑み始めて、酒に強いヤツはいい具合に酔いが回って、酒に弱いヤツの中には潰れるのも出始めた頃だったからたぶん、朝の気配はまだ遠い時間。
 RYUが。
 笑みを絶やすことなく、紙コップに注がれる酒を上機嫌であおってたRYUが。
「……ちょっと呑み過ぎたかな。涼んでくる」
 そう言って、立ち上がった。肩までの髪が、絶え間なく散って舞う桜の花びらと一緒に、夜風に流された。
 その髪に隠れた顔に浮かぶ表情なんて、いくら街灯があるって言ったって、そんな時間じゃわからなくて。わからないから、それが気になった。
 だから。
「RYU」
 呼ぼうと思ったのに、声はかすれてRYUまで届かなかった。
「なんだよー、ここにいたって充分涼しいだろー?」
 誰かから呂律の回らない野次が飛ぶ。RYUは靴の爪先で軽く地面を叩くと、振り返って、笑った。
「ここだと、風に流されてどこからでも煙草の煙が来るからね。煙のない所がいいんだ」
 その言葉を受けて再び飛ばされる野次には応えない。RYUは肩までの黒髪を揺らして、俺たちに背を向けた。
 呑み過ぎたって言ってたのに、その足取りに危うさはない。
 ゆっくりと遠ざかるRYUの、ここからは見えない頬が夜桜よりも綺麗な桜色に染まってたのを、俺は見てたから、だから。
「RYU!」
 急に立ち上がった俺は、当然のことのように軽い眩暈に襲われる。幸い、桜の樹のすぐ近くにいたから、咄嗟に樹の幹に手をついて身体を支えた。長く伸ばした髪の先が木肌に引っかかったのを、普段なら絶対にやらない乱暴な仕草で引きちぎる。急速に遠近感と色彩を取り戻す視界に入ったのは、俺の大声に驚いた仲間の顔と、少し離れた所で振り返ったRYUと、その向こうに、桜。
「……なぁに?」
 ほんの少し間延びしたRYUの声。淀みのない黒い瞳がまっすぐに俺を見てる。
「……俺も行く」
 呟くように小さな声で言ったのに、RYUにはちゃんと聞こえたようで、RYUは小首を傾げるとふわりと微笑んだ。いいよ、と声に出さずに口の動きだけで言うと、まだ歩き出してない俺を置いて桜の向こうへ消えていく。
 俺は急いで靴を履き直して、周りからの野次も気にせずに小走りでRYUを追った。
 すぐに追いつくと思ったのに、RYUの足が速いのか、俺が酔ってるだけなのか、俺はなかなかRYUの背中に追いつけない。
 闇の中でわずかな光を弾く黒い髪と、闇の中でぼんやりと白っぽく見える桜の花びらのコントラストが、俺の視界のすべてだった。それ以外のものは見えなかったし、見ようとしなかった。
 RYUは振り返りもせずに歩いていく。その後を、俺が追う。
 RYUが向かう先はわからなかった。ただ、花見客の喧騒と煙草の煙は、RYUにとっては同じ意味なんだろうって想像はできたから、RYUが人気のない所へ行きたがってることは見当がついた。
 思った通り、RYUが足を止めたのは、人気もなければ街灯もまばらで闇の濃い一帯だった。桜の本数だけはみんなが呑んでる辺りと変わらないんだろうけど、明るさが違うだけでずいぶんと雰囲気が違った。
 桜を魔性と言う人がいるけど、こうして闇に咲く花を見ていると、その美しさが禍々しく思えてしまうから不思議で。
 この花に魅入られたらやっぱり、人は抜け出せなくなるんだろう。なんとなくそんなふうに思って、頭上を埋め尽くす薄紅の花を見上げる。
「……SUGIちゃんには言うまでもないかな」
 足を止めて、けれどやっと追いついた俺を振り返るでもなく、RYUがぽつりと呟いた。
「……なにを?」
「知ってるだろうなぁって思って。桜の樹の下には死体が埋まってるって話」
 RYUが小さく笑って振り返る。ゆらりと揺れた髪に、薄紅の花びらが一枚舞い落ちた。
「ああ、よく言われるよな。死体に残った血液を吸い上げて、桜の花が染まるんだ、とか」
 RYUの髪に埋もれかかったその花びらを取ろうと指を伸ばしながら、俺は知っていることだけ答える。
「うん……信じる?」
 誰かさんみたいに小首を傾げて俺を見上げたRYUの言葉は、苦笑混じりに否定してやる。
「まさか。そんなの信じたら、例えばさ、なんかの記念植樹とかで桜植えた人がみんな犯罪者になっちゃうじゃん」
「桜を植える人と死体を埋める人が別人ってことだってありえるじゃない」
「じゃあ、RYUは信じてんの?」
 子供みたいに頬を膨らませて反論してくるRYUを妙に可愛いと思いながら、問い返す。
 RYUはふわりと俺の腕から逃れて、手近な桜の幹に手を伸ばした。揺れた黒髪にまた一枚、花びらが舞い落ちた。
「……今年の桜は、花の色が濃いと思わない?」
 桜の幹に手を預けたまま、俺を見ないまま、RYUがぽつりと呟いた。その視線は、薄紅の花に向けられている。
「……RYU?」
 ここへ来るのは初めてだったから、俺にはRYUの言葉に答えることができなくて、ただRYUを呼ぶことしかできなかった。RYUは小さく笑って、目を伏せた。その横顔を見つめてるだけの俺にやっと聞こえるくらいの声で、RYUはゆっくりと話し始める。
「信じてるわけじゃないんだ。ただ、俺たちが生まれるよりずっと前に、そういうことがあったのかもしれないって。桜の樹の下に死体を埋めた人がいたのかもしれない。その桜が持ってしまった遺伝子を、後世の桜が受け継いだのかもしれない。何十年も何百年もの時を経て、色が薄れてきただけなのかもしれない……そんなことをね、思うことがある」
「……桜の花の色が、劣勢遺伝してるってこと?」
 昔々の知識を引っ張り出してそう言うと、RYUはやっと俺を見て、笑った。
「俺、生物の授業なんてマジメに受けなかったからわかんないけど」
 やっと笑ったその顔はどうしても淋しそうに見えて、俺はRYUに手を伸ばしかけて、けれどその手を握りしめた。はっきりとした理由なんてないけれど、今の俺がやっていいことは、RYUの話を聞くことだけのような気がして。
「俺、だいたい毎年ここに来てるんだけど、去年まではこんなに紅くなかったんだ……ねぇ、ここ見て」
 また桜を見上げたRYUの視線がふわりと泳いで、手を預けている幹に移った。指し示されたその場所に目を凝らすと、樹の幹にはまずありえないはずの横線が三本、小さくついているのが見える。
「……印……?」
 明らかに人の手でつけられたその跡は、なにかの痕跡というよりはむしろ目印。RYUの細い指先がその線をなぞるのを見て、俺はなんとなくその跡をつけたのがRYUだって理解した。
「俺がつけた。桜には悪いと思ったんだけど、俺がこの樹を見失わないように、目印をつけたんだ」
 だから、思った通りの告白を聞いても、俺は特になにも思わなかった。やっぱり、って納得しただけだった。
「去年までは、他の樹がどんなに紅い花をつけても、この樹だけが白い花をつけてたんだ。もちろん、桜だから真っ白じゃないけど、明らかに他の樹に比べて色が薄かった。目印なんかつける必要もないくらい、この樹だけ、花が白かった」
 RYUの声は小さいのに歌ってる時みたいに響いて、喧騒から離れたこの場所の桜がそれを跳ね返して、目を閉じてしまうとRYUがどこにいるのかわからなくなりそうだった。
「この樹だけ……? そんなことあんの?」
 だから、瞬きすら忘れたようにじっとRYUを見つめて、信じがたい話に耳を傾ける。年を重ねるごとに、徐々に色が変わっていく、というなら驚きもしないけれど、RYUの話だと今年から急にこの桜の色が変わった、ということで。にわかに信じられる話じゃない。
 RYUは少しだけ顔をうつむけていて、俺の視線が向けられてるのに気づいてるのかどうかわからない。
「うん。どうしてなのかは俺にもわからないけど、なぜかそうなってた。だけど、今年は……」
 印を刻まれた桜の花は、去年まで一際白かったというのが信じられないほど、周りの樹と比べて色が濃い。ただでさえ色の濃くなる花の中心部なんて、本当にこれが桜かと疑いたくなるほどに。
「……紅い、な……」
 思ったままを口にした俺に、RYUは不意に振り返った。
「SUGIちゃんはどう思う?」
「……どう、って?」
 なにを問われたのかわからなくて聞き返すと、RYUはゆっくりと一つ瞬きをして、また桜を見上げた。
「俺は、この桜が周りの桜に侵されたんだとは思わないんだ。どうしても、そうは思えないんだ。だけど実際には、今までこの樹だけが違ったのに、周りと同じになってしまった……これは、どういうことなんだろう? SUGIちゃんはどう思う?」
 くっきりと見える横線を指先で辿りながら、RYUはもう一度俺に問いかけた。俺は桜の花を見上げることなく、ただRYUの指先を見つめてた。太陽の光の中ですら白く見えるその細い指は、樹の幹に沿わされているせいでいつもよりもずっと白く見えた。
「……RYU。よく見て。この樹が周りと同じになってしまったんだって、RYUには本当にそう見えるの?」
 RYUの指先を見つめたまま、俺はそう言った。俺の瞳は確かに、周りの樹とこの樹との違いを捉えていたから。RYUが言った通りの花の白さではないけれど、明らかな違い。
 RYUは不思議そうに俺を振り返った後、ゆらりと視線を泳がせて桜の花を見比べた。きっとすぐにわかるだろうその違いがRYUの口から聞けるのを、俺はただ待っていた。RYUの白い白い指先が、幾度も印をなぞるのを見つめて、RYUが答えを出すのを待つ。
 俺たちの間を、強めの風が少しの花びらを連れて駆け抜けた後、RYUがまた俺を振り返った。
「……紅、が……濃い……?」
「……俺とRYUと、二人とも見間違えてるってことはないだろうな。この樹だけ、色が濃いんだよ。この樹が周りの樹に侵されたんじゃなくて、きっと……」
「……この樹が、最初から花を紅くする遺伝子を持っていたの?」
「そうかもな。それが発露するまでに時間がかかったとか、そういうことなのかも。専門知識ないからわかんないけど」
 生物学なんて高校でやって以来ご無沙汰だから、うろ覚えの知識しか残ってない。優性遺伝と劣性遺伝の関係がどうとか、この場合はそういう話になるんだろうけど、細かいことなんてもう忘れた。ただ、間違ってるかもしれないけど当たってるかもしれない。俺たちが出した答えはきっと、そういうもの。
「……この樹が弱くなって侵されたんじゃなくて……最初からこの樹こそが周りを染めていた、って……そういうこと?」
「わかんない。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「……俺にもわかんないや」
 曖昧に笑い合った俺たちの間に、風が道を作った。無数の花びらがその風にさらわれて、手の届きそうな距離にいるRYUの姿すら隠そうとする。
 俺は慌てて手を伸ばした。
 花嵐の向こうで微笑むRYUが、花びらと一緒に風にさらわれそうな気がしたから。そんなことあるわけないってわかってるのに、RYUがいなくなりそうで。
「……RYU」
 伸ばした手はしっかりとRYUに届いて、花びらが絡んだ肩までの髪の感触が、俺の指にあった。その指を離さないまま風がおさまるのを待って、RYUの顔がちゃんと見えるようになっても、突然の不安は消えない。
 片手をRYUの髪に絡ませて、樹の幹に預けられたままのRYUの指をもう一方の手で包み込んで、俺はじっとRYUを見つめた。
「なに……SUGIちゃん? どうしたの……?」
 RYUが空いている手で俺の長い髪に触れる。曖昧な笑みはそのままに、ゆっくりと俺の髪を撫で下ろしていくその指も、とても白く見えた。
「……どこにも行かないで」
 不意に漏れた自分の言葉に、言った俺自身がまず驚いた。まるで、RYUが桜に紛れて消えてしまうのはRYUの意思だとでも思ってるような言い方。
「……どうしたの……俺はどこにも行かないよ……?」
 子供をあやすように小さく笑って、RYUは俺の髪を撫で続ける。それでもその指の白さが、不安を拭わせてくれない。
 しっかりとこの腕にRYUを抱きしめていてさえ、その不安は消えない。わかっていて俺は、RYUを抱き寄せた。そう極端に体格が違うわけじゃないのに、すっぽりと腕におさまってしまう細い身体を、きつく抱きしめる。
「さっき、RYUが『涼んでくる』って言って立ち上がった時も思ったんだ……RYUがそのままどこかへ消えそうだって。だから追いかけて来たのに、RYUは今確かにここにいるのに・……どこかへ消えそうで……」
「……俺はここにいるよ。消えたりしないから、離して。ちょっと痛い」
 笑ったままのRYUに、子供にするみたいに背中を軽く叩かれて、俺はほんの少しだけ腕を緩めた。腕を解いてRYUを離すことだけは、どうしてもできなかったけど。
「ダメ……RYU、ダメなんだ……『ここにいる』んじゃダメなんだ……」
 肩までの黒髪をしっかりと腕に抱き込んで、RYUの肩口に顔をうずめて、自分でもなにが言いたいのかはっきりしないままに言葉を紡ぐ。
「……SUGIちゃん……?」
 訝しげなRYUの声に、俺はもう一度RYUをきつく抱きしめた。
 この腕で抱きしめられる距離に、この指が触れられる距離に、いてほしい。それ以上離れてほしくない。
「桜の樹に囲まれたこの場所じゃダメなんだ……『ここ』にいてよ……」
 黙って俺の腕に閉じ込められていたRYUが、しばらくして小さな小さな溜息をついた。俺の背中をゆっくりと撫でていた手が俺の服を強く握りしめて、俺の肩にRYUの額が預けられた。
「……SUGIちゃんの眼に、俺はどんなふうに見えてるんだろう……」
 溜息と同じくらい小さな声で呟かれた言葉は、こんなふうに抱き合っていなければ聞こえなかっただろう。
「RYU……?」
 自分の肩に乗せられたままのRYUの顔は見えなくて、RYUがどんな顔でそう言ったのかわからない。それどころか、RYUの言葉の意味がまずわからない。
 戸惑ってRYUを呼んだら、やっと頭を上げてくれた。けれどその顔にさっきまでの微笑みはない。
 RYUの白い白い手が伸びてきて、そっと俺の頬に添えられた。
 血が通っているのが信じられないほど冷たい手。RYUが消えてしまいそうだという不安がまた煽られて、俺はその手に自分の手を重ねた。
 俺に手を包み込まれたまま、RYUはまた笑った。哀しそうに。
「……俺のこの身体が、桜の樹の下に埋まってる……そんな幻でも見てるような眼をしてる」
「そんなことない、俺はちゃんとRYUを見てる」
 子供みたいに言い募っても、RYUの笑みは変わらない。俺に言わせれば、RYUこそが俺をちゃんと見てないように思えるのに。
「ううん、SUGIちゃんの方が消えちゃいそうだよ……」
「RYU……RYU、なんでそんな顔するんだよ……俺はここにいるから」
 RYUの哀しそうな笑みを見てるのが辛くて、俺はRYUを抱き寄せた。すっぽりと俺の腕におさまってしまう身体は確かに温かいのに、不安は消えない。
「うん、俺もここにいる。ちゃんとSUGIちゃんの傍にいるんだから……だから、俺を見てよ」
 腕の中のRYUが顔を上げて、じっと俺を見つめている。
「……RYU……」
 俺たちは互いの身体をきつく抱きしめて、静かに唇を合わせた。RYUに口づけたのは、初めてだった。
 触れ合わせただけの唇はどっちもちゃんと温かくて、自分も相手もちゃんと「ここ」にいるんだって、やっと安心できた。
 RYUの髪に絡んだ桜の花びらの薄紅色を、その時初めて綺麗だと思った。
 綺麗だと思ったけれど、その薄紅色にRYUが紛れていってしまいそうで、怖かった。





 それから俺たちは毎年、RYUが印をつけた桜が枝いっぱいに花をつける頃に、そこへ行った。
 あの年からずっと、その桜の花は少し濃い目の薄紅色だった。白と見紛うほどだという薄い色の花に、俺はお目にかかったことがない。
 なにをするでもなく、なにを話すでもなく、ただ二人でそこにいた。時々、顔を見合わせて笑ったり、抱き合ったり、口づけたりして。
 RYUは、人気のない所でなら口づけられるのを嫌がらないのに、この桜の下にいる時だけ、口づけを拒むことがあった。
 それがどうしてかひどく哀しくて、俺はきつくRYUを抱きしめた。
 短く切られたRYUの髪にもやっぱり桜の花びらは舞い降りて、髪の黒と花びらの薄紅の対比がいつも、俺の記憶に刻まれた。
 そのままRYUが消えてしまいそうに見えるのは、満開の桜の下にいればいつものことで。桜の下のRYUを何度見ても、不安は募るばかりだった。
 それでも、舞い散る桜の花びらに消えてしまいそうなRYUが小さく微笑んでいるのを、俺は綺麗だと思った。
 いつも、そう思った。





 初めてこの桜の下でRYUに口づけてから何年経ったのか、数えるのは簡単だったけど、俺はそうしなかった。
 目の前には、小さな小さな印をその木肌に刻んだ桜の樹。薄紅の花はもう、その枝にはない。今年も美しく咲いていたはずのそれはバラバラになって、足元の地面で汚れていた。
 今年はRYUも俺も都合がつかなくて、この桜が薄紅の花を咲かせているのを見られなかった。RYUは一週間くらい前に電話してきて、もう葉が顔をのぞかせ始めた頃にようやく見られた、と笑っていたけど。
 今、花の代わりにその枝を彩るのは、この季節特有の鮮やかさで太陽の光を弾く若葉で。じっとそれを見上げているだけでも肌に汗が浮いてくるような蒸し暑さ。梅雨が来れば、この緑は鮮やかさを失うんだろう。
 だけどその色は、俺の記憶の奥から浮かんではこなくて。
 記憶の中でこの樹はいつも、薄紅の花を枝という枝につけている。その下に佇んで微笑むRYUの姿と一緒に、その薄紅だけが俺の記憶に刻まれている。
 今も、目の前の鮮やかな緑色は霞んで、その向こうに薄紅の花が透けているようで。
 その花の下で、あの頃のRYUが振り返ったような気がした。
 もちろん、気のせいだってわかってる。思わず伸ばしそうになった手を握りしめてゆっくりと瞬きをすれば、目の前に薄紅色は欠片もない。
 あの頃とはなにもかもが変わったように思う。
 RYUは俺の隣にいないし、俺はRYUの隣にいない。髪の長さも色も服の好みも顔立ちも考え方も、音も。なにもかもが変わったと思う。
 反対に、なにも変わってないと微笑む自分も俺の中にいる。
 永遠はないと知りながら、どうしても心のどこかでそれに憧れていた。すべてのことに終わりがあると知りながら、当たり前のように俺と共に在るものは、その先もずっとそこに在るのだと思っていた。
 結局、永遠に続くものはなかったし、終わりはちゃんとあった。当たり前のように俺と共に在ったものは、当たり前のように離れていった。
 苦い想いを喉の奥で噛み殺して、俺はもう一度、薄紅色を失くした桜を見上げた。
 あの頃、大切なものがなかったわけじゃない。ただ、なによりも誰よりも、夢こそが大切だった。
 その夢が叶ったのか、それとも叶わなかったのか。それは当事者である俺たちですら、よくわからない。
 夢ばかりを追いかけたあの頃に、犠牲にしたものはとても多くて。
 今は夢以外にも大切なものがたくさんあって、それを抱え込んだ分だけ俺は、強くなってるはずだし、弱くもなってるはずで。
 なにかを捨てながらなにかを抱えて、なにかを望みながらなにかを諦めて、そうしてここまで来た。
 これから先がどうなるのかなんてわからなくて、どうにかしたいっていう焦りにも似た想いはあの頃ほど強くはなくて、生きてればなるようになっていくんだろう、なんて思ってる。
 そんなふうに日々を忙しなく生きている中で、ふと。
 逢いたくなる。
 満開の桜と、その下で微笑むRYUに。無性に逢いたくなる時がある。
 あの頃が幸せで、今が不幸せなわけじゃない。
 あの頃に戻りたくて、今がいらないわけじゃない。
 それでも、あの頃のRYUに逢いたいと思う俺が、花を落とした桜の下にいる。
 強く強く手のひらを握りしめて、心をいっぱいまで満たせるなにかを望む時、あの頃の俺とRYUに逢いに、俺はここへ来る。
 風に揺れる、満開の桜を心に描いて。





 どこかで咲いているんだろう。遅咲きの桜の花びらが一枚、俺の頬をかすめて流れていった。








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