『あ、J? 久しぶりー』
「……どうしたの、突然」
Jの携帯が鳴ったのは、今日のスケジュールがすべて終わり、明日の集合時間を確認している頃だった。
相手は12年肩を並べたドラマーで。
着信表示を見た時、相手はすでにわかっていたけれど、声を聴くと改めて驚いてしまう。
真矢がこんなふうに突然電話してきたことなど、ほとんどなかったからだ。
『いやー、どうってわけじゃないんだけどなー?』
変わらない、明るい声。合間に入る吐息はきっと、煙草という名の悪癖。
Jの前でマネージャーが訝しげな顔をしている。
悪い、と片手で詫びて、Jはミーティングルームの窓際へ歩み寄った。
『あ、わりぃ、仕事中か』
「いや」
耳聡い真矢の申し訳なさそうな言葉を、Jは小さく笑って否定した。
確認したばかりの明日の集合時間を小声でもう一度告げて、お先に、とマネージャーは部屋を出て行く。
後に残されたのは、煙草と灰皿とペットボトルと声と、それらの持ち主だけ。
「……たった今終わったとこ」
『そ?』
そう言う真矢の背後にも人の気配がある。
そっちはどうなんだと問うと、休憩中だと電波の上で真矢が笑った。
「そんで、どうしたの?」
途切れた会話を繋ごうと、そう問うてみる。
『んー……』
「珍しいね、真矢くんがそんなふうに言葉に詰まるの」
『うーん……まぁ、ね、ほら。色々あるわけよ』
変わらない声と口調が、それでもなにか違っているような気がして、Jは首をひねる。
真矢がこんなふうになにかをごまかすことはよくあるけれど、今はそのごまかし方に少し翳りがある気がした。
「変なの」
『黙らっしゃい』
それでも笑って茶化してやれば、電話の向こうで真矢も笑った。
『……元気?』
また途切れた会話を、今度は真矢が繋いだ。
以前の自分たちならまず出なかった言葉が、今は当たり前になってしまった。
「うん。全然元気よ?」
『そう言やぁツアー終わった後ぶっ倒れたっつー話も聞かないしな』
Jはバンドを終わらせてから初めて一人で回ったツアーが終わったところ。
直接会うことはできなかったけれど、最終日には真矢が来てくれていたとスタッフから聞いている。
「うん、倒れてないよ。元気。真矢くんは?」
こんなふうに相手に問い返すのも、まだ少し違和感がある。
『んー? 俺も元気よー? 当然でしょー?』
「うっそだぁ。昔はよく倒れてたじゃん」
『それは昔の話! 今は丈夫なの』
「そうなの?」
『そうなの』
少し拗ねたような真矢の声に、自然と口元が緩む。
同い年の早生まれで一年先輩の真矢が、こんなふうに時々コドモになってくれるのが、Jは好きだった。
『そうだ、ツアーで思い出した。ビデオ出すんだって?』
「うん、DVDも。まだ送ってなかったっけ?」
『来てねぇ。薄情だなぁ、Jくん』
そう言いながらも真矢の声に非難の色はない。
そんな些細なことが、妙に嬉しい。
「ごめんって。マネージャーに頼んでおくからさ。見てみてよ、すげぇよ?」
『まぁそうだろうなぁ、お前のライヴだし』
「なんかもう当然って感じ?」
『楽しそうねー?』
それだけは胸を張って威張れる、とJが思うと同時に、電波の向こうで真矢が言った。
当たり前に理解されていることの、その幸福。
「うん、楽しい」
『そりゃいいことだ。俺も今ねー、楽しいよー?』
その言葉に嘘はない。
嘘だったらわかる。
それほど長く、一緒に走っていたのだから。
「うん。真矢くん、楽しそうだもん」
『あ、わかる?』
「うん、わかる。真矢くんも俺が楽しそうなのわかるでしょ」
『とーぜん』
即座に返ってくる自信たっぷりな真矢の言葉が嬉しい。
「一緒だよ。そのくらいわかるよ」
『あのさ』
また途切れた会話を繋いだ真矢の声は、少し色を変えていた。
落ち着いているけれど少し元気までなくしてしまったような、そんな声。
「うん?」
新しい煙草に火をつけながら、Jは先を促す。
『……やっぱいいや』
躊躇うような間の後に真矢が落としたのはそんな言葉で。
「言いかけてやめないでよ、気になる」
言い返した後で、Jは気づく。
真矢の声が、元気がなくなったのではなくて、改まったのだと。
そんな声で言いかけた言葉を切られたら、やはり気になる。
一緒に走っていた頃も、真矢は時折こんな声でなにかを話してきた。
それは一つ残らずとても大切な話ばかりだったから、気になる。
『いや、いいんだ。俺の勝手な想いだから』
「なに?」
真矢の言う「勝手」がわからなくて、Jは重ねて問う。
どうしても、どうしても気になるのだ。
真矢はしばらく黙っていた。
ライターが小さな火を噴く音、ゆるく煙を吐く音、コーヒーかなにかの缶をどこかに置く音。
真矢の周りの気配からそれらを聞き分けながら、Jは待った。
やがて真矢が軽く溜息をついた。
『Jのベースってさ』
唐突に出されたのはそんな言葉。
「……はい?」
音について真矢と細かく話したことは、実はそんなに多くない。
滅多にない電話で滅多にない音の話になることが不思議で、Jは思わず間の抜けた返事をする。
『いーから聞きなさい』
「はい」
少し照れたような真矢の声に言われて、おとなしく返事をしてしまう。
しかし。
『……かなり無茶苦茶だったんだなーと思って』
次に落とされたのはそんな言葉。
たしかにそれはJ自身も同意できることだし、昔から言われ続けていることでもあるが。
真矢に改めて言われたのは、もしかしたら初めてではないだろうか。
「……今更でしょ」
12年、隣に並び立った。
知り合う前から今までずっと、真矢はJの音を聴いてきたはずで。
それこそ今更な発言だった。
『いや、それはもちろんそうなんだけど』
悪気があっての発言じゃねぇからな、と慌てて言い添える真矢に、口元だけで小さく笑う。
そんなことはわかっている。
真矢が悪意でそんなことを言う男ではないことくらい、昔から知っている。
『無茶苦茶ってのがさ、なんてーかな……無鉄砲とか闇雲とかっていう無茶苦茶さじゃなくて』
真矢が慎重に慎重に言葉を選んでいるのが、電波を通しても伝わってくる。
Jの機嫌を取ろうとか、Jを褒め殺すためだけの言葉ではなく。
ただ、自分の想いに近い言葉を探して。
『無茶苦茶なんだけど、お前なりの秩序っつーかルールっつーか、そういうモンはあったんだなぁって思ってさ』
ゆっくりと紡がれた言葉の糸は、見えない電波に乗ってJまで届く。
その細い糸が持つたしかなぬくもりが、Jの心になんの抵抗もなく入ってくる。
「……どうしたの、突然」
なんとなく照れ臭くなって、Jの口はついそんなことを言ってしまう。
自分より少し小柄なあのドラマーが、どんなふうにJの音を捉えていたのか、よくわかるから。
わかるように、真矢が言葉を選んでくれたから。
だから、照れてしまうのだ。
今までそんなことが自分たちの間になかったから。
『やー……ね。色々とね』
真矢も似たような心境に陥っているのか、なにやらぼそぼそと言い訳にもならないことを呟いている。
「なに、それ」
Jがやっと笑ってみせると、真矢が肩の力を抜いて笑ったのが伝わってきた。
声を上げて笑うことの多い真矢には珍しく、軽い吐息だけの笑み。
きっと、とても柔らかい表情を見せているのだろうと、それだけでもわかる。
少し続いてはすぐ途切れてしまうぎこちない会話でも、相手の仕草や表情が想像できるから気まずくはない。
気がつけば、真矢の向こうに複数あった人の気配が遠ざかっていた。
電話の向こうが静かで、さすがになにか言おうかとJが口を開きかけた時、真矢が少し早く声を電波に乗せた。
『バンド終わってからさ、お前とは全然違うタイプのベーシストと一緒に音出す機会が多くてさ』
そう言えば、真矢は人のレコーディングによく参加していたような気がする。
自分で何曲も作曲してきたJと違って、真矢は自作曲が極端に少ないし、ソロ作品も当然少ない。
その代わり、バンドをやっていた当時から他のミュージシャンに呼ばれることが多かった。
ゲスト参加した回数はもしかしなくてもJよりはるかに多い。
『その人たち皆、かっこいいんだよ。問答無用で上手いし当然音もいいしかっこいいし』
真矢が一緒に音を出した顔ぶれを思い出して、Jはその言葉に納得する。
たしかに、破天荒極まりないプレイヤーであるJとは180度違うタイプのベーシストが多い。
テクニック的になんの心配もいらなくて、どんな曲でも綺麗に合わせられて。
その反面、ベースの音だけではその人と判断しづらいこともある、「正統派」のベーシスト。
それを褒める真矢が、それでも自分の音を気に入ってくれていることは、Jもわかっている。
わかっているけれど、直接これだけ言われると、やはり少し気後れもするもので。
『でもな』
Jの胸中を見透かしたようなタイミングで、真矢が先を続ける。
『そういう人たちとは全然違って無茶苦茶な音出してるお前も、かっこいいんだよなぁって』
改めて落とされる、手放しの賞賛の言葉。
不意打ちのそれに、Jはなにも言えなくなる。
嬉しすぎて、なにも言えなくなる。
そんなJの状態をわかっているのかいないのか、真矢は更に言う。
『なんかさ、他の人と音出してて、お前とも音出したくなったんだわ』
12年続けたことに、飽きたから終止符を打ったわけではない。
あまりに目指す光が違いすぎたから離れただけで。
嫌になったから、つまらなくなったから、やめたわけではない。
『今すぐとかってわけじゃないけど、また一緒にやれたらいいなって思ってる』
一緒に。
その言葉が、とりあえず自分たち二人だけを指すことはわかる。
けれど真矢の言葉の奥には、五人で、という意味も込められている気がした。
ごく自然に、当たり前のことのように。
Jも同感だったけれど、真矢ほどストレートに言葉にするのはまだ躊躇われた。
だから吐息だけで、うん、と小さく頷いた。
『……悪い、呼ばれた。行かにゃならんのだわ。ごめんな、突然』
Jがそれ以上なにも言えずにいると、真矢が決まり悪そうに言い出した。
言われてみれば、真矢の向こうに人の気配が戻っていた。
真矢はこれからドラムを叩かなければならないのだろう。
髪が服の衿にこすれる小さな音がした。
軽く首と肩を回すのは、ドラムを叩く前の真矢の癖。
「……ううん」
迷惑であるはずがない。
元気でいると人から聞き及ぶだけでも充分だけれど、こうして直接知るのも嬉しいし。
眼前の仕事の中で自分を思い出してくれたことが、Jには嬉しかった。
なのに、それ以外の言葉が出てこなくて。
『頑張れよ』
黙りこんでいたら、不意に真矢がそう言った。
完全な不意打ち。
ずるい、とまで思った。
さらりとそんな言葉を落とせる真矢を、恨めしく思った。
その言葉があまりにも、あたたかくて。
「うん……真矢君も」
本当はJも、同じ言葉を返したかった。
頑張らなければやっていけないのは、真矢もJも同じだから。
独りでたくさんのものを抱え込んだ今の状況は、相手も自分も同じだから。
けれどやっぱりJにはその一言が言えなかった。
『おう。じゃ、またな』
軽く応えた真矢の声が、最後を告げる。
「……うん」
Jはまた、小さく頷くことしかできなかった。
最後の、少し揺れてしまった声が、電波の向こうまで届かなかっただろうか。
頬を伝うものの熱も、唇を歪ませる力も、滲んでいく視界の理由も、Jにはわからなかった。
ただ、真矢にこの涙が知られていなければいいと思った。
頑張れと言ってくれた彼に、こんな自分を知られていないといいと思った。