「……降ってる」
スタジオから一歩踏み出したところで足を止めた隆一は、降り注ぐ透明な線をたどって視線を上げていき、空を見上げてつぶやいた。
「スタジオ内、密室だからわからなかったでしょ。だいぶ前から降ってるよ」
車へと隆一を促しながら、傘を差しかけてくれるマネージャーが答える。
隆一がリハーサルに専念している間も外を飛び回っていたマネージャーは、そう言えばスタジオに戻ってきた時にスーツの肩を濡らしていた。
「雨、冷たいでしょ。風邪引かないでね」
マネージャーを気遣って言ったつもりが、セリフ丸ごと返しますよ、と隆一の方が怒られた。昨日辺りからどうも微妙に風邪っぽい今の隆一に、反論の余地はない。
それ以上の墓穴を掘らないよう、隆一は黙っておとなしく車に乗り込んだ。マネージャーが素早く運転席に回って、エンジンに火を入れた。
滑るように走り出した車のフロントガラスに、数え切れない滴が体当たりしてくる。規則正しく左右に振れるワイパーが、その流れを遮っては散らしていく。
緑も土も潤すことのないまま、アスファルトにしがみついて乾いていく、無数の水滴。
この後のスケジュールを並べ上げるマネージャーの声を遠くに聞きながら、隆一はただ、雨を見ていた。
「俺ねぇ、雨になりたい」
唐突にそう言って、彼に大笑いされたのは、もう随分昔。
けれど雲の影一つ見当たらない青空の下でそんなことを言った隆一に、冗談のつもりはなかった。
笑われた隆一が本気で眉をひそめているのに気づいて、彼は笑うのをやめ、何故、と問うてきた。
何故、雨になりたいのか、と。
「……雨がいい」
隆一はぽつりと、答えにならないことをつぶやいた。
理由を問われても、彼と共に在りたいと願う気持ちを素直に言い換えただけのつもりだったから、言った隆一自身も戸惑ってしまう。
ただ、彼を抱きしめ、包み込めるものになりたかった。それだけのことだ。
それを別のものに例えたら、雨になっただけで。
「でも、全然別のところに降ったら困るよねぇ……」
はたとそこに気づいて真剣に悩む隆一に、彼はまた笑った。
それ以前に、今日みたいな天気のいい日はどうするのか、と。
「こういう時は、風でもいい」
ふわりと頬を撫で髪を揺らしていった風の温もりを感じながら、隆一も笑ってみせた。
「風のない晴れた日は、空になる」
おまけ、とばかりにつぶやいた隆一の傍で、結局なんでもいいのか、と彼は少し呆れ顔。けれど、隆一は真顔でうなずいた。
なんでもいいのだ。
彼と共に在ることが叶うなら、どんなものでも。
「でも、無理なのもわかってるよ。俺は人間だもの」
雨に、風に、空に、人はなれない。
そんなことは隆一だってわかっている。
わかっているから、願うのだ。
雨になれば、風になれば、空になれば、彼をずっと見守ることができるだろうか――
自分で広げた夢想の海に漂う隆一を、不意に彼の声が現実へ引き戻した。
その声に、言葉に、隆一はやっぱり彼と共に在りたいと思った。
あれから何年もの時が過ぎて、隆一は今、独りでいる。
彼と共に在りたいという気持ちは変わらないけれど、その気持ちと音楽に関する思いは別物だった。バンドという、無条件に彼といられる場所を失くすことに、ためらいはなかった。
ただ、あの言葉だけは忘れずにいようと思った。
彼が不意に落としてくれたあの言葉を、もし彼が忘れてしまっても、自分は忘れずに、歌い続けようと思った。
『じゃあ、歌っててよ。ずっと』
声の届く距離なんてそう遠くはない。
けれど歌い続けていれば、遠く離れても彼に届きそうな気がした。
「どうかした?」
マネージャーの声に、思い出から浮上したばかりの隆一は少しだけ驚いた。なんでもない、と取り繕った隆一の視界は、少し強くなった雨に塞がれている。
共に在りたいと願いを乗せて歌ったら、この気持ちの欠片くらいは彼に届くだろうか。
「幸せでありたいよね」
突然、なんの脈絡もなくつぶやいた隆一に、マネージャーは目を丸くしたけれど。
雨でも、風でも、空でもいい。この季節なら雪でもいい。
彼をいつも、幸せが包んでくれるように、と。
ただ、願った。