冬の最中、綺麗に晴れ渡った空を弱々しい太陽の光が景色を包んでいるそんな日。隆一は真矢の自宅に向かっていた。極めて珍しいことだが、互いのオフが重なっていることが発覚したのだ。誘ったのは真矢。誘われた隆一に否やのあろうはずはなかった。
顔を合わせること自体が久しぶりになる。話したいことがたくさんあるような、それでいていつもの馬鹿話に興じたいような。なんともくすぐったい気持ちを抱えて、隆一は真矢宅のチャイムを鳴らす。
「こんにちはぁ」
この家に隆一が来るのは初めてだった。
真矢が生活している空間に足を踏み入れるのが初めてなわけではない。真矢がこの家を建ててからこの方、真矢の自宅に来る機会がなかっただけなのだ。
けれど、初めて見る真矢の家には、確かに覚えのある真矢の生活の匂いがあった。ここが真矢の家なのだ。
「うーっす、久しぶりー」
隆一がドアを開けた瞬間、もうそこに見慣れた満面の笑みがあった。
ただし、大小二つ。
真矢の腕の中に、よく似た笑顔を浮かべた子供がいた。
「あ、お嬢ちゃんもいるんだ。こんにちは」
ところが、隆一が中腰になって笑ってみせると、子供の表情が一変した。慌てて真矢の腕から逃れ、真矢の広い背中の向こうに隠れてしまう。それでいて興味津々の視線を惜しげもなく注いでくるのだから面白い。
「あれ。どしたよ? ほら、ご挨拶は?」
真矢が面白がって背後に手を回すと、子供はその手を思い切り振り払った。
「やっ」
「や、じゃないだろー? ご挨拶はちゃんとするもんです。ほら、こんにちは、って」
真矢の声が少し真面目になったのを感じ取ったのだろうか。子供は今度は恐る恐る隆一に視線を向けて、黙り込んでしまった。
隆一は子供の反応に戸惑いながらも微笑んで小首を傾げてみせる。それが挨拶を促しているようにでも見えたのか、子供は小さな口を小さく開いた。
「……わ」
「最後だけ言うなよー!」
ご挨拶の最後の1文字だけを口にした我が子に、真矢が苦笑いする。
その声にも表情にも、子供に呆れた様子は微塵もない。むしろ、そんな我が子が愛しくて仕方ない、という顔。
それはかつて、気分屋のギタリストに向けられていたものとよく似ている。見覚えのある真矢の表情に、隆一も笑った。
リビングに通された隆一の視線の先で、連れ歩いていた子供の手を真矢が離した。
「さ、お前はあっちで遊んでな」
あっち、と指差されたのは奥の部屋に続くらしいドア。
「やっ」
子供はしっかりと真矢のパンツをつかんで、取れるのではないかと思うほど首を横に振る。
「最近なんでも『や』ばっかだなぁ、お前。もう反抗期かぁ?」
「やーぁ……」
子供の視線に合わせるためにしゃがみ込んだ真矢に、子供が手を伸ばした。今度はだっこしてくれと言わんばかりに両腕を広げて待っている。
子供の仕草の一つ一つが愛らしいと思えるのは、隆一がそういうものを見慣れていないからだろうか。
「真ちゃん、俺に構わないでお嬢ちゃんと遊んであげてよ」
子供と隆一を見比べて悩む真矢に、隆一からそう言ってみる。
隆一とも色々話したいし、子供と遊べる時間も大事にしたい。真矢の心境はたぶんそんなところだろう。
べつに真矢が子供の相手をしていたって、隆一がまったく相手にされないわけではないだろうし。そう考えての進言なのだけれど、真矢はまだ悩んでいる。
「や、一人遊びは好きなはずなのよ、こいつ。大丈夫だと思ったんだけどなぁ」
隆一が来たら子供を一人で遊ばせておくつもりだったらしい真矢は、困ったように苦笑いを浮かべた。
「俺はいいよ、お嬢ちゃん見てるだけでも飽きないし」
「そうかぁ? 悪いな」
隆一が軽く手を振って笑ってみせると、真矢はやっと子供を抱き上げた。
安心したように真矢の首にしがみついた子供の姿と、その顔を柔らかい笑顔で見下ろす真矢。
そんな光景に、隆一の心の奥がほんの少しだけ波立つ。隆一はそれに気づかない振りをして、途中で買ってきた菓子を手ずからテーブルに広げた。
一人にされないとわかった途端に上機嫌になった子供は、真矢に抱かれて一人で遊んでいる。頭上の真矢が隆一と話していても、特に気にする様子もない。自分の顔ほどの大きさのぬいぐるみを相手に一人でなにやら喋っている。
途中、トイレに行くと騒ぐ子供に話が中断されたことはあった。しかし、それ以外は特に駄々をこねるでもなく、子供はいい子で遊んでいた。
それが変わったのは、あまりにも突然だった。
子供は、それまで撫で回したり振り回したり噛みついたりしていたぬいぐるみを、急に放り出した。そして真矢の腕の中で苦労して向きを変え、真矢に向き直ると、突然甘え始めたのだ。
真矢は特に驚いた様子もなく、上手くあやしている。しかし、子供はそれでは納得できなかったのか、なにかを真矢にねだり始めた。
子供の言葉はまだ曖昧過ぎて、初めてその言葉を間近で聞く隆一には、何を言っているのかよくわからない。
少しの攻防の後、とうとう折れたのか、真矢が隆一に表情だけで詫びて子供を抱き直した。
そうして真矢と子供が始めたのは、ただ歌うことだった。
伴奏になるようなものはなにもない。父と子の大幅に違う歌声が、ただリビングに広がっていく。
もっとも、子供の方は歌うと言ってもまだ音程を正確に追えるほどの力はない。時々リズムやテンポもずれるし、音程は外れるどころか平坦だったりするが、そんなのはご愛嬌だ。
はっきりしないたどたどしい言葉はそれでも、きちんと覚えているらしい歌詞を追っていく。むしろ、覚えた言葉もまだそう多くないはずの子供にしては上手い方だと、隆一は頬をゆるめながら真矢と子供を見つめる。
歌われているのは、ずいぶんとテンポがゆっくりな、春の歌。
ちょうど今の季節にぴったりのその歌は、隆一にも覚えのある「春よ来い」だった。
途中、真矢がこっそり歌詞の「みいちゃん」を子供の名前に歌い変えたのを聴き取って、隆一は笑みを深くした。歌うのに一所懸命な子供はどうやらそれには気づかなかったようで、続きに夢中になっている。
歌はゆっくりとゆっくりと続いていく。
紡がれる歌を耳で追ううちに、不意に隆一はうつむいた。
なにかが引っかかった。
その正体はよくわからないけれど、確実になにかが。
真矢と子供の歌は、それに気づかないように続いていく。
それを最後まで聴いて、隆一は顔を上げた。
「真ちゃん。俺、ずーっとわかんなかったんだけどさ……『じょじょ』ってなに?」
「あ?」
少々間の抜けた真矢の声にも反応せず、隆一は眉間に皺を寄せる。
歌詞にあった「じょじょ」という言葉。
それは通常の日本語にはないものだったはずで、辞書にもたぶん載っていない。その意味が昔からずっとわからなかったことを、隆一は思い出してしまったのだ。
「じょじょ、ねぇ。俺は知ってるけど、こいつに教えてもらおうか」
真矢が少し意地の悪い笑みを浮かべて、子供を見下ろした。
父親と視線を合わせた子供は、首を傾げてきょとんとしている。
「このお兄ちゃんになぁ、じょじょ見せてあげな?」
「じょじょ?」
隆一を指差して真矢が子供を促すと、子供はやっと納得したように頷いた。今度は自分を見上げてくる子供に、隆一からもお願いしてみる。
「『じょじょ』ってなんだか、教えてくれる?」
「じょじょ!」
答えになっていない。しかし気にしたふうでもない子供は瞬時に真矢の膝から飛び降り、危なげのない足取りでドアへ向かった。
ドアの前で隆一を振り返り、早く早く、と手招きする。その姿は本当に、歌に出てくる「みいちゃん」のようで、微笑ましいことこの上ない。
まだ指がようやくドアレバーに届くだけなので、それは真矢にやってもらって。後を追ってくる隆一と真矢を確認しつつ、小さな小さな背中は頑張って玄関へ向かった。
「じょじょ!」
玄関にべたっと座った子供の指差すものを、隆一はその頭上から覗き込んだ。
子供のぷくぷくの指が示す先には、子供用の履物が一揃い。
「『じょじょ』って……これ?」
「そ。草履のことなんだよ」
後から来た真矢が、昔懐かしい形のそれをそっと持ち上げた。
真矢の大きな手が大事そうに包み込んだのは、小さな草履。歌にある通り、赤い鼻緒の可愛らしいそれを、隆一はしげしげと見つめた。
玄関に足を踏み入れた時、この草履は確かに視界の隅にあった。
ただ、あまりに自然にそこにあったから、気にも留めなかったそれ。
見慣れたサイズの真矢の靴と、女物の靴が数足ずつ。隅の方へ並べた隆一自身の靴。
それらの合間に当たり前のようにある、小さな小さな靴が数足。そして、赤い鼻緒の草履もまた、そこにあった。
当然のことのように。
真矢の生活の中に、当たり前のように馴染んで。
「……まだ新しいね」
天気の変わりやすいこの時期、雨や泥が少しもついていないそれは、明らかに新品だった。
「こないだお袋が持ってきたんだ。プレゼントー、ってな。ばぁばがくれたんだよな」
真矢の言葉に、子供がなんとも嬉しそうに頷く。その小さな手に草履を持たせてやって、真矢はぐりぐりと子供の髪を撫で回した。
「ついでに言うと、さっきの歌」
隆一を見上げることもせず、けれど子供に話しかけるのとは別の声で、真矢が言う。
「『春よ来い』?」
「そう。あれもね、その時にお袋が教えてったの。それ以来お気に入りで、よく歌ってる」
柔らかな眼差しで子供を見下ろしながら、真矢は穏やかな声でそう言った。
「そうなんだ……」
語る真矢の声は、昔から隆一にも幾度も掛けられてきた声とまったく変わらない。
けれど、語られるのは子供のことだった。
真矢のプライベートに、長いこと存在しなかった、新しいこと。新しいけれど、もうすっかり馴染んだこと。
隆一の視界で、真矢がぬいぐるみのような子供の足にサンダルを履かせてやっていた。赤い鼻緒の小さな草履はもう玄関のタイルに戻されている。
隆一の脳裏をさっき聴いたばかりの「春よ来い」がよぎっっていく。
春よ来い 早く来い
「おかあさん、楽しみにしてるんだね」
「そうなんだろうな。母親の気持ちってのは俺らにはわかりづらいけど、そうなんだと思うよ」
玄関のドアを開けてやっても外へ出ようとはしない子供からやっと視線を移して、真矢が笑った。
それは、隆一が見慣れた笑顔によく似ていたけれど、明らかに違う顔。
ほんの3年ほど前にはなかった、父親の顔だった。
「……なんか妬けちゃうな」
「はいぃ!?」
ぽつりと呟いた隆一に、真矢は素っ頓狂な返事をする。
「真ちゃんがあんまり見事に『ぱぱさん』の顔してるから」
小さく笑いながら少しだけヒントを出した隆一の視界で、子供が外へ走っていくのが見えた。
しかし、父親である真矢はそれに気づかないらしく、難しい顔で考え込んでいる。
「……ちょっと待った、隆ちゃん。それで隆ちゃんは誰に妬いてると?」
「ノーコメント。それよりお嬢ちゃん、あのまんまだとどっか行っちゃうよ?」
さらりと真矢の問いをかわしておいて、隆一は外を指差した。その先には、家の前の一般道まで出ようとする小さな影。
隆一がそれ以上なにか言う前に、真矢が外へ飛び出していく。
「やべぇっ! おい、待て!」
「やーっ」
「やだじゃねぇだろこのっ!」
「きゃーっ」
父と子のなんとも楽しそうな攻防に目を細めながら、隆一はそっと呟いた。
「……言えるわけないじゃん。まだおむつしてるような子供に嫉妬したなんて」
嫉妬、としか言い様のない感情なのだ。
隆一の心の隅に、真矢にじゃれつく子供の姿を見た時から巣食った感情は、確かに嫉妬だった。
けれど、嫉妬したからどうなるというものでもない。
それもよくわかっている。
視線の先、ずいぶん春らしくなった陽射しの中で親子がまだじゃれ合っている。
本格的な春までにはまだもう少し時間がかかる。
不意に隆一は気づいた。
さっき真矢と子供が歌っていた「春よ来い」。
あの歌は、春を待ちわびる気持ちと子供の成長を見守る気持ちを重ねた歌だったのだと。
開け放したままの玄関のドアから、あたたかい風が吹き込んで、隆一の髪を揺らした。
わずかに、春特有の土の匂いが混ざっていたような気がした。
風と一緒に、隆一の脳裏をまたあの歌がよぎっていく。
春よ 来い