文政の大地震

今から192年前の西暦1828年、文政11年の11月12日の朝(現在時刻で 午前8時ころ)に、三条に大地震が起きました。地震の規模はマグニチュード6.9の直下型でした。 北北東から南南西方向の長さ40 km、幅20 kmの楕円形の囲に入る村々はほとんど全滅したといわれています。 地震により倒れた建物は全部で12,859軒、また8,275軒が半壊となりました。地震とともに町のあちこちに火災が発生しました。 この火災で1,204軒の建物が焼失してしまいます。死者1,559人、怪我人が2,666人という 悲惨な地震となったのです。

 三条地震の知らせは、江戸まで伝わりました。当時の瓦版は、弥彦山は大きく崩れ、海の中へ押し出し、三条町・燕町・東御門ぜき御堂・大門など残らず揺り倒れ、田畑・山川が崩れ、人馬・けが人はその数知れず、余震が十四日まで頻発した古今稀なる大地震」と報じたということです。

地震当日は、二・七の市がたっていました。早朝から煮炊きをしている 最中に突然揺れは襲いました。大町、三ノ町、四ノ町、五ノ町、裏館村など 13ヶ所から火の手が上がり、火は家屋に次々に燃え広がり、町全体焼き尽くします。

三条町では、1,742棟のうち1,202棟が全壊したといわれています。東本願寺三条別院の掛所でも、記録によれば、「大伽藍の本堂などが一同に ガラガラと潰れた。 坊に居た僧・役人・中間に至るまでが驚いて肝も心も失って茫然とする間に、裏館村から悪火が飛んで来て、仏閣は残らず焼失した」(中越大変地震録)というすさまじい状態でした。

この地震のとき、新発田藩領今町の村役人であった小泉其明と子供の 蒼軒は、震災時の救出活動に奔走し、後に被害調査を行い、三条地震の被害状況をまとめ上げます。これが後世の貴重な資料となりました。 また其明は画帖「懲震秘鑑」(画帖は新津図書館で見ることができます)を残しています。この絵は地震の惨状を其明自身が描いたもので、極めて写実的に描かれています。

ところで最近の調査で三条地震でも液状化現象が起きていたことがわかっています。当時の文献に砂・水の噴出した記録が残っていて、地質調査でも裏付けられています。


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1828 年三条地震の絵図『懲震鑑』の示す地震の状況