八幡堀の上に三本の橋が架かっています。1が寿橋。2が新橋。3が道閑橋

 また八幡掘のお話です。今回は丸橋先生が「ふるさと三条」に記載された研究論文のなかの一部を要約してご紹介します。

 八幡掘は三条旧城の西方の堀の一部が沼として残されていたものです。八幡掘がどんな状況だったのかは享保3年(1718)の「享保裁許書絵図写」を見るとその形状などが分かります。この城跡の開発が始まったのは元禄元年(1688)頃からのようですが、八幡掘は同じ年に、堀の東側と道閑橋から天神前にかけての北と西側が埋められました。また寛保2年(1858)には八幡堀以外の堀はおおかた埋められたようです。安政5年(1858) に八幡掘は一度埋め立てられましたが、その5年後に掘り返されています。その跡の堀の形状は「明治初年三条町地図」で確認することができます。

 この地図を見るとこの堀に2本の橋が架かっていることが分かります。ひとつは寿橋といい文政11年(1828)の三条地震の後に架橋されました。もうひとつの橋は新橋(幸橋)と呼ばれ、大願寺脇の小路からこの橋を渡って八幡宮へ行くことができました。しかし堀は明治年間の中頃、再び埋め立てられてしまいます。

 ところでこの八幡掘、いったいどんな風な堀だったのでしょう。丸橋先生はその記述のなかで岩田愛山遺稿「雪窓閑話」の一部を紹介しています。
 「雪窓閑話」の中で八幡掘のことがつぎのように書かれているのです。
 「・・・・一帯は渺々たる大池にて、浅瀬に蓮の蕾ハ紅を染め、苔の芽青々として菱とる船、釣りをする童もあり。・・・・」どうです。のどかな情景が目に浮かんできませんか。

八幡堀の今
もちろん今はもう大池はありません。ただその名残として幅約1mほどの用水路があるだけです。では明治の中頃に埋め立てられたというその堀跡、現在はどんな景色になっているのでしょう。そこで昔、池のあったとされる所を高所より眺めて見ました。川口さんのご協力により右の俯瞰写真を撮ることができました。

天保4年の八幡堀
資料館に天保4年に作成されたものとされる絵図「上町孫佐衛門一件二付 江戸出府之節持参ノ下絵図」が残っています。この絵図は三条町と一ノ木戸村が領地争いになったとき提出された絵図の下絵だそうです。
図面の左側が北となります。城跡の西側に古城町の通りがあります。この通り、一直線に三之町へつながってはいません。鍵形になっていることがわかります。安政6年の三条町大火の後、道路が付け替えられ一直線になったのです。また西別院も建てられていないことがわかります。

天保3年には西別院の建立の許可は既におりていて、翌々年の天保5年に西別院は完成します。


八幡掘の唯一の名残。川口造吉商店さんの駐車場の脇を流れる幅約1mの用水。明治の初期この用水を舟で行き来したとのことです。

寿橋から北側方向。左が昔の大六新田。右に見える駐車場の右側から古城町となります。この一帯も池だったのです。
寿橋の中間地点より南側方向。左奥に半牧宅跡が見えます。ここ一帯に池が広がっていたのです。
「明治初年三条町地図「」より八幡掘・寿橋周辺