長谷川信行

今から去ること178年前の文政12年5月5日、今の三条市塚野目の農家長谷川家にひとりの男子が誕生しました。この男の子は増造(信行)と名付けられます。信行の子どもの頃は体も大きく腕白だったようです。14歳から15歳のころ、志を立て江戸に行きます。

 江戸では米屋や酒屋の住み込みの丁稚奉公をします。奉公先の酒屋の主人は剣術が好きで柳生流岡田道場に通っていましたが、信行はこの主人のお供をしていました。そんな信行はいつしか剣術の魅力にとりつかれてしまいます。自分も剣術を習いたいと思うようになった信行は道場への入門をお願いするのですが、なかなか受けあってくれませんでした。しかしなかなかあきらめない信行の熱意に動かされ、入門を許されることになります。入門するや信行の剣術の腕前は見る見る上達しました。そして厳しい修行を乗り越え、とうとう道場では師範代までのぼりつめたのです。みごとに信行の剣の才能が開花したのです。

 嘉永6年(西暦1853年)6月3日、浦賀水道にアメリカ東インド艦隊が現れます。「黒船の来航」です。幕府は旗艦「サスケハナ号」に浦賀奉行与力等を派遣し長崎への回航を求めました。しかしアメリカ側はこれを拒絶し、アメリカ大統領フィルモアの国書を受理するよう要求してきました。さらに返答次第によっては砲撃を行うと強行姿勢を見せます。結果的に幕府はこの威嚇により国書を受理してしまいます。ペリー提督は来春返書を受け取りに再来航することを告げ日本を去って行きます。そして翌年1月16日、ペリーは再び軍艦7隻をひきつれ浦賀にやってきました。今度は和親条約の締結を幕府に迫りました。

 幕府は万が一のため、和親条約の交渉の場での警戒のため、全国より腕に選りすぐりの剣士を選抜します。信行はその腕を見込まれて護衛隊に選ばれました。交渉は一歩間違えれば戦闘状態となり、日米開戦となりかねません。

 2月6日、幕府は現在の横浜市中区の神奈川県庁付近に応接所を設置し、その日から約1ヶ月にわたり協議が行われました。交渉は絶えず緊迫したやり取りの中で進められました。米国の兵士は銃口を信行等に向け威圧しようとします。けれども信行はそれに動ぜす、泰然として対応しました。しかし交渉は結果的にアメリカの圧倒的な威圧に屈し日米和親条約は締結されてしまうのですが、交渉は何事もなく終了します。
 その後、現静岡県下田市にある了仙寺にて和親条約の細則が定められ、全13箇条からなる下田条約が締結されたのです。

その後、幕府は信行等の功績に対し、恩賞を与えたました。この一件で信行等はその名を江戸中に高めたのでした。信行25歳の時です

 信行の名声を聞いた藩主たちは彼をなんとか召抱えようとします。信行は大きな歴史のうねりを見逃してはいませんでした。もう剣の時代は終わったと悟っていたのです。藩主たちの要請を断り続けました。そして剣を捨て郷里越後三条へ帰ることを決心します。

 黒船来航から15年,戊辰戦争が始まります。戦火は次第に越後へしのびよりました。越後三条に帰郷した信行の剣の腕を知っている人達は剣術指南を乞うのですが「私は剣を捨てたものだ。二度と剣は取らぬ」と頑なに断り続けたのでした。

 しかしその後信行は度重なる子弟の要請に意を決して柳剛流の道場を開きます。彼の名声を聞きつけ多くの人が入門してきました。そして信行の指導のもと、多くの「剣士」が育っていったのです。信行の愛弟子たちは県下に散らばりさらに多くの剣士を育てていきます。

 こうして信行は新潟県の「剣道」の発展の基礎をつくってきました。また信行は剣を教えるかたわら歌や生け花や茶道を嗜んだとも言われています。明治26年、剣一筋に生きた信行は65歳の生涯を閉じます。

 信行が育った塚之目部落にある社に、信行の功績を讃えた石碑が建てられました。彼が亡くなってから116年経った今も、剣士長谷川信行は生誕の地に、静かに眠っているのです。







※顕彰碑は三条市塚野目にある蒲原神社の境内の一角に建っています。碑文は藤崎完太、撰文は處士兼苞。明治29年佐藤叙峯によって建立されました。
長谷川信行顕彰の碑