笠原文平
笠原文平は元は文右衛門といい、ペリーが浦賀に来航した前年の嘉永5年(西暦1852年)2月3日、呉服商の笠原家に生まれました。笠原家は代々村上藩のご用達商人でした。当時の三条には豪商と呼ばれた人達がおりました。笠原文右衛門もその1人でした。
江戸時代末期。戊辰戦争が始まると官軍は盛んに兵糧米の調達を行いました。特に文右衛門等商人が保有している払い下げの村上藩米に対して度重なる徴発を行います。徴発米は強制的でもありかなりな量になりました。戊辰戦争が終結するとこの徴発米の返還をめぐって新政府と争うことになります。文右衛門達商人は政府に対して供出した米の返還を求めます。政府はこれら徴発米の返還については積極的ではありませんでした。しかし文右衛門等はくじけません。そして彼等の度重なる、粘り強い交渉の甲斐もあってついに明治8年徴発米の「代金の支払い」が実施されたのです。決してあきらめない、義を通した三条商人の心意気が伝わってきます。
文平は人との交わりについては非常に積極的でした。戊辰戦争も一段落した明治2年、長岡市表町の商人岸宇吉は有識者を招いて、今で言う研修会を催すことを発案します。岸家にあった舶来のランプを囲んで話すことから「ランプの会」と名付けられます。この会は士族や商人などの身分にとらわれずいろいろな人達が集まってきて、年々盛んになったということです。士族の三島億二郎、渡辺六松、森源三などが参加しました。このランプの会は当時の長岡の経済界に大きなかかわりを持っていました。そしてここに三条人の笠原文平もなぜか加わっているのです。
ある日、このランプの会で地域の発展のために金融機関の設立がぜひ必要だということで長岡に銀行を建てようという話がでます。文平は長岡だけではなく、三条にも銀行が必要だと感じはじめ、地元の銀行設立に邁進していきます。明治になって三条の金物、木綿染物などの特産品は衰えを見せます。県令楠本正隆の依頼もあり、文平はこれら地場産業の振興に腕を振るいます。新潟県最初の株式会社を起こし、職工を指導したり、工場の改善を行います。
そして明治15年渋沢栄一のアドバイスを受け文平は念願の三条銀行を創立するのです。文平の地域貢献はこれで終わりません。官庁のために土地建物を寄付し、さらに自費を投じて消防組織まで作ってしまうのです。
明治19年、長岡財界とつながりのある文平は大橋一蔵、三島億二郎、関矢孫左衛門、そして岸宇吉等とともに北越殖民社を立ち上げます。これはその名の通り、北海道の開拓移民事業で、県民の貧困の救済と対ロシア政策として計画されたもので、事業としては成功を収めます。もちろん入植は当初から困難を極めますが、殖民社の農業技術指導もあり事業は徐々に成果を上げていきます。この結果、江別や野幌など200町歩を開拓したと言われています。作付耕地は二百町歩に達しました。
明治20年その北海道石狩に文平は笠原商会の名で味噌・醤油の製造を始めます。品質の良さから篠路味噌・醤油の名は北海道一円に広まって行きました。明治30年ころ工場を札幌に移転することになります。そしてそれが北海道の醸造の基盤をつくっていったのです。
笠原文平は活動の場を三条に留めず、いろいろな所へ進出しています。しかも商人にありがちな一生を蓄財に徹することなく、絶えず人のためにお金を使い、身を粉にして働いています。
ところで笠原文平の名前が意外なところで出てくるのです。明治10年以降になると明治政府は官公立の大学を次々に新設していきます。このあおりを受けて、明治13年、福沢諭吉の創立した慶応義塾が存亡の危機に立たされます。 諭吉はついに「廃塾」を決意します。ところがこの事実を知った関係者が慶応義塾再建のため立ち上がり、再建のための資金を募ります。この時、多額の寄付を申し出た一人の越後人がいました。笠原文平です。文平等の支援もあって慶応義塾はなんとか立ち直ります。明治16年3月、感激した福沢諭吉は会ったこともない笠原文平に礼状を送るのでした。(当時、笠原文平の弟の笠原恵は慶応義塾の塾員でした。寄附は弟の名義で行われたようです。「慶応義塾100年史」より)
明治44年夏、文平は59才でこの世を去ります。早すぎる死でした。それにしても彼ほどエネルギッシュに明治の創成期を駆け抜けた三条人は他にいません。 商人と呼ぶより開拓者と呼んだほうが文平自身喜ぶに違いありません。