栗林五朔

栗林五朔は慶応2年(1866)、5月1日、栗林得太郎の長男に生まれました。大崎村の宝蔵寺の小学校を卒業した後、父得太郎のすすめで新潟英語学校で語学を学びます。その後三島郡の菁莪学舎に通ったのち、東大崎の永明寺の北溟義塾に学びました。
 明治17年2月、父得太郎が亡くなり19歳で家業を継ぐことになりました。しかし家業(製紙業)は次第にきびしい状態に陥って行きました。そのため五朔は、後事を支配人に託して単身上京。簿記学校へ通う一方、叔父などの経営する新潟物産東京支店に勤めました。

一年あまりで新潟に戻った五朔は当時盛んだった民権運動に共鳴し、言論の世界に興味を持ちます。そこで五朔は伯父の鈴木長蔵が主幹する新潟新聞社入社しました。しかし伯父長蔵の退社にともない五朔も新聞社を去ります。信濃川の改修工事が始まると、五朔は護岸工事の材料供給業を始めます。しかしあまりにも事業を拡張し過ぎたため失敗してしまいます。
 そんな時、新潟の市島徳次郎より経営不振にあった函館の油臘会社の再建を頼まれ、北海道に渡ることになります。1889(明治22)年、24歳の時のことです。その時、若き五朔の手には五銭玉一枚が残っているだけだったといいます。

 五朔は、原料の魚油を求めて西海岸一帯の漁村、利尻礼文にも足を延ばす一方、販路拡大に道内奥地や東京へと駆けめぐりましたが、なかなかうまくいきませんでした。
 そんな時、生涯の協力者となる同郷の中沢宗次郎とめぐりあいます。意気投合した五朔と宗次郎はまだ寒村に過ぎなかった室蘭の将来性に夢を託し、そこを独立自営の地と決めたのでした。

 1892(明治25)年、6月1日、資金力のない二人は、「栗林酒店」を開業しました。二人は酒だけではなく味噌も醤油も缶詰なども売りました。ちょうどそのころ、日本郵船の青森〜函館定期航路を室蘭まで延長する動きがありました。「これからは海だ」との展望をもっていた五朔は、その取次人(代理店)の指定を獲得しました。そして、室蘭回漕業の草分けである蛯子源吉と共同で室蘭運輸合名会社を設立して社長に就任。北海道炭礦鉄道会社が室蘭港から石炭積み出しを開始するようになると石炭荷役に進出して大発展を遂げ、「北の海運に栗林あり」といわれるまでになります。

 
石炭、運送、郵船を統合して栗林営業部を発足。1919(大正8)年には(株)栗林商会、栗林商船(株)を創立して営業を両社に配属させました。一方、大正初期に登別温泉の買収を依頼されて温泉経営に乗り出し、登別温泉軌道(株)を設立して温泉までを馬車から馬車軌道に、そして発電所を開設して電車を走らせるようにしました。五朔は実業の理想を「船と鉄と牧畜」において室蘭郊外で牧場も経営。政界にも進出して巨人的な活躍を展開しました。

 五朔の経営は徹底した合理主義で、切手一枚使うにも支配人の検印を受けさせて自分も目を通すほどでしたが、「一粒のソロバン玉をはじくのも国家のためである」との理念をもち、第一次大戦後の恐慌時代、天皇の救済金をもって公設市場を開いて庶民の窮乏を救い、夫人は欠食児童のために握り飯70人分前後を2カ月間も送り届け、貧しい向学青年には奨学金を贈りました。

大正13年11月父栗林得太郎頌得碑の序幕式参列のため故郷の大崎村を訪れます。大崎村の者は沿道に人垣をつくって心から迎えたとあります。

 晩年、本輪西埠頭の開発に心血を注ぎました。その大事業を一民間会社が成し遂げ、のちに特定重要港湾(1965年指定)となる基礎を築きました。第一期分の埠頭は1929年(昭和4)年に完成しましたが、五朔はそれを見ることなく、1927年に肝臓を病んで世を去りました。62年の生涯でした。


栗林得太郎

弘化3年(1846年)西大崎村の庄屋の家に生まれました。栗林家は代々高崎藩の御用達を勤めていました。また村上藩御用達と会津藩の御宿も兼ねていました。領主より紋服帯刀・提燈合印を許された家柄でもありました。若きころは尊王の志を抱き小壮、帯織村の岩崎氏に就いて漢籍を学び、後江戸に出て蒲生重章の門に学び、 片桐省介・岩崎幸太郎と交り、のち郷に帰り時運の大勢をみていた」とあります。

明治2年(1869年)には新潟表商館御取立取締を命ぜられました。廃藩置県の後は七六区二小区戸長を、明治6年には越後東半部の事務監督を命ぜらました。得太郎は特に教育に力を注ぎ、小学西大崎校を開校しました。明治12年には南蒲原郡書記に抜擢されましたが、明治17年39歳の若さで人々に惜しまれながら他界したのでした。

           北海道の印刷出版文化情報誌「月刊アイワード」     
            1997年8月 通巻194号掲載 「創業のこころ(No.5)」引用
           「大崎村史」より引用