顕彰碑
この碑は明治22年与十郎を称えて建てられました。篆額は三条実美。
撰文は楠本正隆が書きました。
松尾与十郎
平成16年7月13日、未曾有の豪雨が中越地区を襲いました。三条市の中心を流れる五十嵐川の左岸、曲渕の堤防が100mにわたり決壊し、泥水が一気に嵐南地域一帯になだれこみました。この洪水により死者9人、罹災者22,881人という大被害をもたらしたのです。五十嵐川は三条市笠堀から西へ流れ、本町6丁目で信濃川に合流する全長38,686mにおよぶ一級河川です。
私達の郷土を育んできたこの川は同時に昔から幾度となく氾濫し、多くの被害をもたらしてきました。三条市史を見.ると幕末から明治維新にかけて、何度も洪水があったことが記されています。洪水はまた飢饉をもたらします。当時の農民は度重なる水害に疲弊していました。彼等は汗水たらして育て上げた稲や農作物が無情にも洪水により無残な姿になっていく様子を悲痛な思いで見ているしかありませんでした。この状況を見かねた1人の男がこの現状を何とかすべく立ち上がりました。松尾与十郎です。与十郎は嵐南の田畑を守るため五十嵐川左岸の築堤を決意します。しかしこの事業は今と違いそう簡単にできるものではありません。この時から与十郎の人生を賭ける壮絶な闘いが始まったのです。
与十郎は片口村の庄屋 松尾与右衛門正久の長男として生まれました。名前は「与右衛門正信」と名づけられましたが後に与十郎と改名します。与十郎は幼い頃から学問好きな、利発な子どもだったと言われています。嘉永3年(1850年)向学心に燃えた与十郎は京都に遊学します。このとき外国語にも深い関心を示したようです。安政3年(1856年)には江戸へも赴いています。文久2年父与右衛門正久が亡くなり、父の跡を継ぎ、村の名主役となります。与十郎は教育についても非常に熱心でした。私費で塾を開き、近郷の青少年に学問を教えたりもしました。
明治元年戊辰戦争の戦渦が三条にも及んできます。この年の4月会津藩兵が三条に着陣したと記録に残っています。同年の8月には新政府軍が三条に進出してきます。町全体が緊迫した状態に包まれました。こういった状況のなかで与十郎は賊軍となった桑名藩の役人清水金次郎なる者をかくまい助けます。そしてこの清水金三郎が後日、土木官として新潟県庁に奉職することになります。
この年の5月各地で大洪水がおきます。嵐南地域も水禍に見舞われました。 与十郎は築堤の必要性を強く感じていきます。
明治4年11月与十郎は清水金三郎から一通の手紙を受け取ります。それは戦争時自分の危機を救ってくれたお礼に与十郎のためにできることはないかという内容でした。そこで与十郎は、早速清水宅を訪ね、かねてから思っていた堤防を作ることを相談します。
明治5年清水の努力により県令平松時厚や南部信近らが三条を訪れ、洪水のあった四日町一帯の惨状を視察します。与十郎はこの時五十嵐川の築堤を請願します。このときは県令もほぼ納得するのですが、転任となり、工事の件は中断してしまうのでした。
明治7年6月暴風雨が中越を襲いました。田畑は全滅の状態になります。与十郎は中沢鶴居とともに四日町郷の各村と東鱈田村、西鱈田村をも加えた13カ村の地域運動として取組みます。7月には各村連名で県知事に建言書を提出しました。ところがそれを知った対岸の三条側も強硬な築堤の反対運動を展開します。当時県は築堤には消極的でした。与十郎はなおも県に働きかけ続けます。そのかいもあって「新堤の築造は許可にならぬが、旧堤を修繕ならば許可しよう。」との内示を受けたのです。しかし与十郎の喜びも束の間、台湾出兵のため、勅令により改修工事は見合わすことになり、許可が延期されてしまうこととなったのです。
与十郎は堤防を「自分達のお金で補修する」ということで再び請願しようともちかけます。しかし農民達は自分たちが出費することへの不満や計画そのものへ疑いを持ち始めます。せっかくの計画が頓挫しかけます。しかし中沢佐平治、田中久衛、丸山善八、高橋半造、野崎市太郎、佐藤清吉、金子六郎ら与十郎の理解者が彼の真意を農民に説いてまわり、郷費での補修という意見にまとめあげたのです。そして請願書が県令
楠本正隆
に提出されました。
明治8年4月に県令楠本正隆は部下を伴い蒸気船で視察に来ました。ところが三条の町民はこれはただならぬことと反対運動を始めます。県庁内にも築堤に反対する者もおり、計画の遂行はますます難しくなってきたのです。5月になると与十郎は自ら県庁に出向き、築堤に反対している県の役人を個別に訪問し交渉をします。しかし結局は理解が得られず与十郎は悲嘆にくれるのでした。三条側の反対運動はますます盛んになり請願は不許可になりそうになります。与十郎の積年の思いがまさに断たれようとした時、事態は急転していきます。
楠本知事は反対する三条の郷民を県庁に招きます。そして淡々とこう言い放ったのです。「艱難を共に助け合うのは人倫の道ではないか。五十嵐川南部の各村がしばしばの水害で、疲労困憊の極地に達しているのに君たちは何と心得るのか。その困難を見て、官の給与を仰がず自費を投げ打って、多年にわたり請願を続けることは実に容易の業ではない。これをやった松尾君は、自己の利益のためにしたのではなく、ただただ村民達の困窮を救いたいという憐みの情からでたものである。しかるに、これを援けることをなさず、かえってこれを阻害する君達は、人でなく誠にもって禽獣に等しいといわねばならぬ。この際よく反省し、よくこの義を考え、正しい人道に随い給え!(三条人物伝より)」
そして10月2日、費用は郷費で負担するという内容で工事の指令が下されたのです。明治8年11月11日ついに悲願の起工式がおこなわれました。翌年明治9年の工事には婦人や子供までもが人夫として進んで参加したとあります。工事は順調に進行していきます。しかし各村々の工事費負担分の納入が遅れ、人夫賃の支払いは滞りがちであったといいます。
そこで与十郎は県令に対して、堤防工事を成功させるため、各村の負担分の支払いが滞ることのないよう村々に指導するよう願い出ます。県は第10号出張所へ願書を回して各村の責任者を指導します。
こうして負担分が滞ることなく工事は順調に進み、堤防は完成します。しかし、堤防幅は7から8尺(1尺は約30cm)しかなく、高さは対岸よりも3尺も低くつくられました。このままでは大雨が降れば破堤しかねません。与十郎は県令に対して新に「堤腹付置願」を10カ村連名で提出します。しかしこれを知った三条側で再び反対運動が起きます。けれどもこの築堤工事について、今度は両岸側の人々が集まり話し合いがもたれたのです。その結果三条側は反対運動はしない、今後の築堤のことは松尾与十郎に全て任せるという取り決めがなされたのです。
与十郎の願いは工事の公費負担にありました。もはやこれ以上農民に工事費を負担させることはできないと何度も何度も命がけの請願を繰り返したのです。そしてついに工事の公費負担が認められたのです。これにより工事に拍車がかかります。10月には月岡から西本成寺旧堤に達する延長2里(1里は約4km)の堤防が完成、さらに西本成寺旧堤西南から下新田までの堤防も完成します。明治12年には内務省より国費が支出されました。堤防は道路を兼ね、左岸堤防は2間半(1間は約1.8m)に増幅され、壌土3尺の上装がなされついに悲願の築堤工事はここに完成したのです。
与十郎は常盤橋(当時は松栄橋)を自費で架設し、さらに橋際から四日町大辻に至る300間の道路を造成、私費で四日町から五明にいたるで道路(県道三条見附線)を開いたのです。こうして与十郎は郷土のために築堤や架橋、道路の開発に全てを投げ打ちました。けれどもその結果裕福だった松尾家は次第に傾いていったのです。
明治18年晩秋、与十郎は病の床につきます。そして明治19年3月15日ついに与十郎は惜しまれながら帰らぬ人となったのです。行年55才でした。
与十郎の功績をたたえ、三条市四日町にある日吉神社の境内の一角に松尾与十郎の銅像(もともとは常盤橋のたもとに建てられたものを移設)と顕彰碑が建てられました。銅像の裏には松尾与十郎の功績を讃える人々の名が多く刻まれています。私達市民は地元の偉人は誰かと尋ねられたら多くの人は松尾与十郎の名をあげるでしょう。それだけ人々の心に彼の功績の偉大さが刻み込まれているのです。
平成16年の大洪水時、四日町の被害はそれは大変なものでした。日吉神社の境内も冠水しました。当然与十郎の銅像の下は泥水に浸かりました。迫りくる濁流を眼下に見た与十郎は一体どんな気持ちだったのでしょうか・・・・。
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松尾与十郎の写真
歴史民俗産業資料館所蔵
※松尾与十郎の銅像は平成22年10月6日三条市諏訪の堤防に移設されました。銅像は半藤政衛作