行田雲涛
(なめたうんとう)画家。寛政10年(1798年)蒲原郡一ノ木戸村(現三条市)に生まれました。
父は神明宮の宮司。40代で神官になります。若いときから画を親しみ、初めは京都の山本梅逸から画を習ったようです。花鳥画を始め、人物画、山水画を描きました。雲涛はまた多くの弟子を育てました。帰山雲崖、長谷川嵐渓、森山信谷、松川藤陰、
など著名な画家を輩出しました。また親族にも叔父の行田八海や弟の林泰岳などの画家がいます。
嘉永6年(1853年)56歳で亡くなりました。
松川藤陰
(まつかわとういん)画家。天保14年(1843年)井栗村(現三条市)に生まれました。
父は松川弁之助。8歳の時、行田雲涛に弟子入りしました。雲涛の死後、兄の和三郎が持ち帰った椿山の粉本(ふんぼん)をもとに画の勉強を続けました。明治11年(1878年) 明治天皇が北陸御巡幸のときに、「百虫図」を献上します。また明治15年(1882年)東京で開催された第1回絵画共進会では新潟県からただ一人の入選者になりました。46歳のときに三条町に移住し晩年には新潟市に住みました。藤陰は特に花鳥画を好んで画きました。
大正9年(1920年)78歳で没しました。
長谷川嵐渓
(はせがわらんけい)画家。今から192年前の文化11年、三条町二之町の会津屋四代目吉右衛門の長男として生まれました。名を筌(せん)、字を芳孫といいました。幼少のときから本をよく読み、 画を好んだそうです。16歳のとき、大槻磐渓に師事し、20歳のときには江戸に出て春木南湖に画を学びます。天保4年には仙台に行き菅井梅関に師事します。
嵐渓36歳のとき、父吉右衛門の死により帰郷し、五十嵐川河畔に居を構えます。以後自らを嵐渓釣徒と号し、数多くの南宗作品を残します。門弟には半牧の他に、本間翠峰がおりました。慶応元年52歳でその生涯を閉じます。お墓は宝塔院にあります。
五十嵐華亭
(いからしかてい) 画家。安永9年(1780)、三条町天神前の八幡神社の神官の子として誕生。通称は相模(さがみ)といいました。号は華亭。 神職をこなすかたわら美人、花鳥画などを描きました。江戸の画家法橋玉元(狩野梅笑)が三条に滞在していたとき、法橋玉元より絵の指導をうけます。その後、京都四条派の画家佐伯岸駒(がんく)に学びました。天保7年(1836)に発行された『越後国文人かがみ』によれば、画家として県内最高位に位置づけられています。
嘉永3年(1850)2月10日、71歳で亡くなりました。
五十嵐華亭
長谷川嵐渓画
三条で活躍した画家