佐藤玄雪
佐藤玄雪は医師佐藤玄鶴の長男として三条に生まれました。幼名を輿といいました。小さい頃から聡明で四書五経を読んでいたと言われています。
文化7年(1810)父玄鶴が亡くなった後、門弟である淳庵に育てられます。淳庵は若い頃画を好み、一時、長谷川嵐渓に師事したこともあったようです。江戸に出て画を学んだ後、三条に戻り玄雪の祖父玄厚のもとで医学を学び、玄厚の死後は佐藤家を引き継ぎます。
淳庵は青年になった玄雪を江戸に遊学させました。 江戸に出た玄雪は安積艮斎に蘭学を学びます。玄雪は艮斎のもとでひたすら勉学に勤しんだのです。
艮斎は向学心に燃える玄雪に京都への遊学を勧めます。 その勧めにしたがって 京都に出た玄雪は篠崎小竹の門下生になりました。この門下生時代、玄雪は頼三樹三郎と親交を結ぶようになります。頼三樹三郎は頼山陽の三男として生まれました。名は醇、字は子春といい、篠崎小竹、佐藤一斎、梁川星巌等の門下生になります。後に尊攘論を唱えて梅田雲浜らと国事に奔走していきますが安政の大獄に連座し安政6年(1859)に35才でその短い生涯を終えるのです。実はこの頼三樹三郎、三条に立ち寄り玄雪の家に長期間逗留したことがわかっています。
さて江戸での勉学を終え三条に帰郷した玄雪は淳庵の医業を手伝いながら、私塾を開くことになります。慶応2年(1866)9月、玄雪を慈しみ育ててくれた義父淳庵が亡くなります。この時玄雪は塾を閉じ、淳庵の遺志を引継ぎ、本格的に医業を継ぐことを決意します。
玄雪は貧しくお金に困っている人からは、薬を与えても代金は取らなかったといいます。淳庵もまたそうでした。そんなわけで家計はいつも窮乏していました。玄雪の家の門柱には「吾家の医薬買物にあらず誠もて請うれば必ず与う」と書かれてあったとのことです。淳庵の心情を示したものです。玄雪はこの信念を生涯通し続けました。 また玄雪は詩や書、画をこよなく愛し、文人としてもすばらしい才能を持っていました。村山半牧は様々な知識を持つ玄雪を敬慕し、玄雪とともに「淡水吟社」を催しそこで 国学を論じたとあります。そして明治3年7月4日、玄雪は惜しまれながら66歳でこの世を去ります。
玄雪には秀一郎という子がいました。この秀一郎は若き頃父と同じように江戸へ遊学します。さらにオランダの医者のもとで最新の医学を学びました。父玄雪が亡くなったのち、その遺志を継ぎます。秀一郎33歳の時です。名前も父の名「玄雪」を継ぎます。父同様、看板に掲げた「吾家の医薬買物にあらず誠もて請うれば必ず与う」の言葉通り、貧しい患者に薬を与えてもお金は取らなかったといいます。親戚が心配していろいろ提言するのですが、玄雪はこの姿勢を変えようとはしませんでした。また父と同じように詩や書を愛した文化人でもあり、当時の多くの文人たちと親交を結んだと言われています。
越後三条には玄雪等のように自分を犠牲にして、ひたすら人のために尽くす人達がいました。彼等はやさしさだけではなく気概も持っていました。決して信念を曲げず、自分の生き方を貫き通したのです。貧しいものからは治療費を取らないなんて、今では考えられないことです。もちろん今とは時代背景が全く違うわけですけれど、普通ではなかなかできないことです。私たちの郷土の先人に彼等のような人達がいたということをあらためて誇りに思います。