江戸時代前の三条の統治 〜山吉久盛から甘粕長重へ〜
室町時代、三条は誰によって統治されていたのでしょう。
文献によると応永30年(1423年)応永の乱が勃発します。守護上杉頼方と守護代長尾邦景が越後の国全土を巻き込んで戦いが展開されました。
当時三条は長尾邦景の被官として山吉久盛の統治下にありました。上杉房朝方の 揚北衆と呼ばれる中条,黒川,本庄,色部,新発田氏等に三条は攻撃されます。けれども黒川基実・加地氏等が寝返りし三条のお城は落城しませんでした。
中条秀叟の書いた記録では、応永33年(1426年)、山吉久盛が三条城を守りぬいたと記されています。この結果統治を安堵されることになります。
延徳年間になると山吉四郎右兵衛尉正綱の名が文献に登場します。また永正の乱時には山吉能盛が本成寺の僧兵とともに三条城を守ったとあります。能盛の隠居後嫡男政久が後を継ぎました。その後政久は長尾景虎(後の上杉謙信)が越後の国の国主となると家臣として影虎を支えました。
政久は天文21年(1552年)9月に隠居し、豊守に家督を譲ります。豊守が天正5年(1577年)9月に死去すると、嫡男の盛信が後を継ぎましたが、その盛信も急逝してしまいます。そこで弟の山吉景長が山吉氏を継ぐことになります。
しかし景長は13歳の若さでした。主君上杉家の決まりでは15歳になるまでは領主となることはできないのです。このため若き景長は木場城(旧黒埼町木場)に領地替えとなったのでした。
同年、上杉家家臣の神余親綱が三条に赴任してきます。
翌年の天正6年、上杉謙信が亡くなると、その家督をめぐって上杉景勝と上杉景虎との間で争いが起きました。世に言う御館の乱です。三条城城主の神余親綱は本庄秀綱と伴に上杉景虎側に味方し、 上杉景勝と闘いました。しかし景虎は次第に劣勢となり、ついに天正7年3月24日鮫ヶ尾城にて自刃してしまうのでした。景虎の死後も神余親綱は景勝に対抗していましたが、天正8年(1580年)6月に山吉景長の籠絡により、とうとう三条の城は落城し、親綱は自刃して果てたのでした。
天正10年(1582年)になると上杉景勝の命を受け甘粕長重(景持)が三条城の城主となります。慶長3年(1598年)上杉景勝は豊臣秀吉より会津若松移封の命を受けます。
これにより甘粕長重(景持)は主君に従い会津へと移って行くのでした。それに伴い秀吉の家臣堀秀治の家老堀直政が城主となり、直政嫡男の堀直次(直清)が父の代わりに三条を統治することになります。
そして慶長13年(1608年)、直政の死後、実質的に三条五万石の城主となるのでした。、