第6回 三条城物語 その2
 慶長15年(西暦1610年)2月2日、駿府城において裁判が行われました。当日は松平忠俊はじめ、当事者の堀直次と堀直寄、そして堀直重、堀直之等の四兄弟と、堀利重が出席しました。徳川家康、秀忠も臨席します。
 弟の堀直寄は訴えます。「兄の堀監物直次は、国許三条において、非分の仕打ちがあった。それは、浄土宗と日蓮宗の僧を集めて宗教問答をたたかわせ、浄土宗の僧侶達の言い分が悪い、といって、僧侶十余人を殺した」と。家康はこれを聞くと障子を開き兄の堀直次に問いかけます。「浄土、日蓮の僧に宗論をたたかわせ、それを聞いて勝負を決するのは誰か?」 直次は答えます。「智者をして是非を聞かしめ、その非なるものを罪とします。」
これを聞いた家康は「その智者というものは誰か。汝のおろかな考えをもって、宗教の是非を、どうしてきめられようか、汝ごときものが智者ではない。おのれの小さな考えをもって勝手に僧侶を殺すなどこそ大罪である。この一言を聞いただけで、他のいろいろのよこしまなことも、聞かなくてもわかる。聞くに及ばない。また、主家の越前守忠俊は、家臣の兄弟争いを国許のうちで決裁することができず、みだりに我に訴えるべく、国許を遠く離れて、駿府までやってくるなど、早計で短慮である、このようなことで、内乱を治める資格もない。」と言い放ちます。

 そしてこの裁判の行われた日をもって、越後福島城主松平忠俊は陸奥国岩城鳥居家に召預けに、越後三条城主堀直次は出羽国最上家に召預けとなり、即日、両家ともお家断絶となったのです。一方の堀直寄は一万石を減じられ、信濃飯山藩主(4万石)となったのです。
 
 堀家の歴史にご興味のある方は廣瀬紀子さんのお書きになった「改訂須坂藩主堀家の歴史」を是非お読みください。




「改訂須坂藩主堀家の歴史」