越後福島城主松平忠俊と三条城主堀直次が両家ともお家断絶となった翌日の慶長15年2月3日、徳川家康は六男松平忠輝に福島城と三条城を与えます。忠輝はこの福島城を居城とし、付家老の松平重勝に三条城を任せることにします。松平重勝は自分の代わりに次男の重長に三条城を守らせました。
 忠輝移城から6年後、大坂夏の陣が起きました。忠輝はこの戦で大きな失敗をしてしまい、元和2年(西暦1616年)徳川秀忠から改易の処分を受けます。忠輝の所領は全て幕府に没収されてしまいました。三条城は一時、信州高遠城主の保科正光が管理することになりました。同時に江戸幕府からは代官などが派遣されてきました。そして同年8月、大坂冬の陣、夏の陣に功績のあった市橋長勝が新に三条城の城主となったのです。今から約390年前のことです。

 これまでの三条城は現在の競馬場跡(三条市須頃)にあったとされています。しかしその城が本当にそこにあったかは定かでないのです。いずれにしても市橋長勝は新しい城を築きます。東に3町ほど離れた今の旧古城町,旧日吉町あたりに新城を築くのです。当時の城の大きさはどれくらいだったのでしょうか。「三条町続明細書」にその城の大きさが記されています。主だった施設の長さをメートル換算であらわしてみました。
    本丸    東西に約109m 南北に約104m
    二の丸   東西に約104m 南北に 約42m
    本丸と二の丸の間の堀幅 約15m
    外堀の広さ  東方 約60m
           西方 約65m
 輪郭式の石垣を用いない土塁の近代城郭だったといわれています。この城の築城にともない、建築地にあたった村々は移転を余儀なくされました。逆に旧城下の住民たちも新城下に移ってきました。そしてこの城のもと新しい町並みが形成されていったのです。