渋谷善助

三条の代表的な呉服豪商です。若いときからよく働いたようです。始めは 呉服の行商をしていましたが、一之町に間口35間の大店を出すまでになります。善助は京より直接、たくさんの呉服を仕入れ、販売をしていました。遠くは今の山形県庄内地方にまで呉服を売っていたとのことです。とにかく相当な財産を貯めたと言われています。なんと一年間の利益が7000両はあったとのことです。今のお金に直すと約1億3000万円位になるでしょう。当時三条の呉服商は沢山おりましたが、善助の商いはその比ではありません。

 文政11年(西暦1828年)11月12日早朝、三条に未曾有の大地震が発生します。地震の規模は6.9の直下型地震でした。信濃川に沿った、長さ25キロに及ぶ広範囲にわたる被害となりました。 被災地全般で全壊12,859軒、死者1,559人という大変なものでした。三条地域で1,202棟が全壊、死者205人、けが人が300人あまりも出ました。そのうえ所々から火事がおき、三条の市街は一部をのぞき、ほとんど類焼してしまいました。人々の生活は悲惨を極めました。

 諸藩の救済が始まりますが、復旧は遅々として進みませんでした。善助はこの現状をなんとかすべく私財を投じて窮民救済に尽力をつくします。しかし自然はつぎつぎと追い討ちをかけます。翌年の正月は大雪となり、5月には大風が吹き、8月には五十嵐川が氾濫します。震災に続く凶作で住民はさらに疲弊していったのです。
 1838年は大飢饉の年となり、三条の米が底をつきます。この現状を見かねた善助は大坂の鴻池善右衛門  より8万両を借り受け、この金で米を買いつけ三条に廻送したのです。これにより三条の住民はなんとか飢えから救われたのです。

 天保期の幕府や諸藩の財政はほとんど窮乏していました。村上藩も例外ではありませんでした。当時村上藩は三条の商人達へ幾度となく御用金の上納を命じています。この時善助は、損を覚悟で、8,700俵の米を調達したといいます。また村上藩の内藤信親藩主が京都所司代に任ぜられたとき藩は莫大な資金が必要になり財政が悪化します。この時にも善助は多額のお金の上納を命じられます。時勢とはいえ度重なる上納命令に対し、善助はどんな気持ちだったのでしょう。

善助たち商人等の支援もあって内藤藩主は幕府の要職につくことになります。その功かどうか分かりませんが、嘉永5年、善助は三条をふくむ27村の大庄屋に任命されたのです。大庄屋になってからも郷土の発展におおいに貢献します。まず検地を書いた書面を提出させ、それを基に新しい制度を設けます。また郷土の歴史の編纂に取り掛かります。これが「渋谷文書」として後日三条の歴史を研究する上での重要な史料となります。三条祭の行列の奴、囃子も善助の指導と言われています。しかしその大役をどういう経緯か途中で自分の子の藤助に引き継ぎました。

 子の藤助の評判は三条の町民には良くありませんでした。万延2年、三条町の丁代や年寄の連署で村上藩に藤助弾劾の訴願書が出されます。文久2年、事態収拾のため村上藩はついに大庄屋役を廃止してしまったのです。その藤助も元治元年病のため他界してしまいます。そのとき既に善助は二之町の家で静かな余生を送っていました。そして慶応3年(西暦1869年)善助は妻美津の見守るなか69歳でその生涯を終えます。

 渋谷家の事業は藤助の娘婿の友助に引き継がれましたがこの友助はたいへんな放蕩者でした。明治6年、とうとう友助は事業に失敗してしまい、旧二之町の渋谷家の屋敷を引き払うことになります。善助が一代で築き上げた渋谷家はついに名実ともに没落したのでした。

 善助が書き残した文書のなかに「三条町続明細書」が残っています。この古文書には三条城の規模、歴代城主の記録、本成寺の由来などが書き記されています。これらの書類は三条の歴史を解明するための重要な書類となったのです。

 三条市の旧大町に実盛寺というお寺があります。その墓地の一角に「三条之渋谷」という墓石が建っています。その名の通り渋谷善助は一代で豪商にまで上りつめ、三条に渋谷ありと謳われるまでになりました。しかし代が代わってから次第に家運が衰退してしまいました。確かに「善助の善行」は後世にその名を残しましたが、晩年の善助の心境はどうだったのでしょうね。