寳壽丸をバックに
サーモンミュージアムより
堤 清六
堤清六は明治13年(1880年 2月日新潟県三条上町の呉服商「近清」を営む堤清七の長男として生まれました。 三条町立尋常高等小学校現在の三条小学校を卒業したのち、北米教校に進みました。明治37年(1904年)に日露戦争がはじまると酒保商人として中国大陸へ渡りました。酒保商人とは、軍を対象に食料や装備などを販売する商人のことです。
明治39年、アムール河畔のブロンゲ岬の漁場で清六の人生を変える人物平塚常次郎と出会います。 その時平塚は清六に北洋漁業の開拓の夢を語ります。そこで清六は平塚とともに起業することを決心します。しかし三条へ帰って漁業開拓のことを家族や親族に話しますが賛同を得ることはできませんでした。けれども清六の心は決まっていました。代々続いた呉服商の店をしまい、平塚の推めにより明治
37年(1907年)ブリガンティン式帆船・寳壽丸を購入します。そしてその年の6月、清六と平塚はカムチャッカ半島のウスカム川の漁場をめざし新潟を出航しました。
シベリアに着いた清六たちは紅鮭を買い付けたのち、それを函館の海産物市場で売りさばきました。新潟に帰ると叔父の清吉や海産物商田代三吉の協力を得て「堤商會」を創立します。翌年日露漁業条約に基づいてウスチ・カムチャツカの鮭鱒漁場を買いとります。さらに郡司成忠大尉の助言を得て現地に日本人として始めて缶詰工場を建て事業を拡大させていきました。缶詰はイギリスを始め世界に広まっていきます。大正2年(1913年)には自動缶詰製造機を導入したとあります。
翌年の大正3年(1914年 に日魯漁業鰍函館市に設立します。大正9年(1920年) になると堤商会は輸出食品会社を合併して極東漁業株式会社と名前を変えます。 そして翌年には勘察加漁業・日魯漁業と極東漁業が合同し新しい「日魯漁業株式会社」が発足し、清六は会長に就任します。ここに日本の水産業界をリードする「ニチロ」の基礎が築かれたのでした。清六はこのほかに樺太・アラスカなどへ進出してパルプ事業や魚油加工を行いました。
その後清六は三条の選挙区より政界に進出します。そこで水産行政のために尽力しました。 しかし昭和4年(1929年) 北洋の漁業権問題をめぐり「島徳」事件が起き、その責任を取って会長を辞任し、さらに政界から去ることになりました。
昭和6年(1931年) 9月12日、病気を患い、東京の病院にて 52年の生涯を終えました。 清六は堤家の菩提寺である極楽寺に静かに眠っています。
新潟県、特に三条は北海道の開拓と深い係わり合いがあります。堤清六を始め、松川弁之助、栗林五朔など、江戸時代末期から明治時代にかけて未開の北海道の大地や海洋に進出していきました。彼らは近代国家形成期において日本の産業の創生に大きな功績を残しました。彼らはまた私たち郷土の誇りでもあるのです。
堤清六の生誕地について
清六の生まれ育った場所は三条町上町。明治初年の三条町地図に載っています。正楽寺の東側に「堤清七」の名前があります。ここから清六の人生が始まりました。正楽寺と堤家の間に「古鍛冶町」の名が読み取れます。当時このあたりは古鍛冶町と呼ばれていたのです。清六の父は呉服商で「近清」という屋号でした。
それにちなんで生家の前の通りは「近清脇小路」と呼ばれていました。また同じ町内に丸井今井百貨店創始者の今井藤七の生家もあります。
現在、清六の生家は「蒼龍庵」と名前がつけられ保存されています。