戦時中の三条〜疎開児童が三条へ〜

太平洋戦争で敗色濃厚の中、国内主要都市は米空軍の空襲を受けるようになり、
大都市に住む人々は地方に疎開させられることになりました。
昭和19年4月から、都市住民者が縁故を頼って続々と三条に疎開してきました。
終戦の年昭和20年5月まで、三条市全体で、一般民600世帯、約1,800人の流入が
あったとされています。

また集団疎開学童児は、東京都深川区の数矢国民学校と東陽国民学校で児童数
約700名、職員約60名が市内四校に分散入学し、寺院、旅館、料理店で寄宿しました。
西別院でも児童50人、引率者4名が寄宿しています。
昭和20年になると日本の敗色がますます濃くなってきます。地方工業都市にも米軍の
爆撃が及ぶようになりました。

6月28日、新潟県では5市3町が強制疎開対象となります。三条市にも避難道路の
確保のため建物の強制取り壊しが実施されたのです。7月23日三条市長や県会議員等が
県庁に出向き第二次強制疎開の打ち合わせに行きました。この時疎開の対象予定と
なった家屋の数は1320戸で三条市の全戸数の17.6%にもあたる大規模なものでした。
この打ち合わせの会議から二週間も経たない8月15日、日本は終戦を迎えたのでした。

●東陽国民学校は明治3年、東京府小学第6校として、最初、東京、深川森下町にある
長慶寺に開設されました。 大正15年には現在地の深川区東平井町1丁目に建て
直されます。 昭和16年、校名が東陽国民学校と変更になります。
そして昭和19年生徒500名が新潟県への集団疎開が行われたのです。昭和20年、
東京大空襲のため、校舎が全部もえてしまうのです。 終戦後には校名が東陽小学校と
変更されました。平成18年開校105周年の記念式典が行われ現在に至っています。

●一方の数矢国民学校は現在は江東区立数矢小学校といい、幕末期に浅草にあった
三十三間堂を移した場所に建てられたとのことです。大正元年、数矢町(現在の富岡二丁目)
に起工されました。東陽国民学校と同じく生徒は昭和19年新潟県へ疎開してくるのです