少子化については各世代の考え、子どもを持つ人持たない人の意見、社会的、経済的な視点に基づく意見などいろいろの考え方、意見があることと推察される。また少子化の問題を考える上で、どのような社会でありたいか、どのような社会であれば子どもを生み育てていけるかなど社会的な展望そして国が思い描いている施策がどんなものかを勘案していかなければならない。そして更に21世紀に大きく変化を遂げるであろう社会に対応した少子化論が必要となってくると考える。
 戦後のこれまでの社会を振り返るに、経済的には奇跡の回復をとげた日本といわれるように右肩上がりの時代で、人口構造的には子どもが多く老人が少ないピラミッド型であった。この時代の社会福祉、年金、保険制度は、少数の老人との前提の基に設計され、そしてその財源は右肩上がりの経済と、ヒラミッド型の人口構造の基に将来解消できるであろうとの予測のもと借金という形で進められてきた。然るに経済は90年代のバブル崩壊後右肩下がりそして低迷への時代へと移行した。そして97年には65歳以上の老人人口が子どもの人口を上回りピラミッドが釣鐘型そして逆三角形へと移行してきた。
 少子化の原因には子どもを産み育てにくい社会、社会の子育て機能の喪失、晩婚化などいろいろの要因があると思うが、この中でもっとも大きな要因は少子化に対する政治の無策にあると考える。そして政策を押し進めてきた根拠となるものが5年ごとに行われている人口推計である。87年の合計特殊出生率は1.75で将来予測は1.95に上昇すると、92年推計では1.45が1.8に、97年推計では1.4が1.6にそして2002年推計では1.33が1.3以上にと予測している。残念なことにこの最も重要な未来予測がことごとく間違っていた。少子化を経済的観点より考えるに老人が増え子どもが減れば社会の生産性は落ちそして一人の子どもにかかる負担が膨大になる事は当然の結果である。このことは年金、医療費、介護保険、住宅建設、公共事業、運輸、環境、経済つまり国民生活のすべてに関係していることである。つまり人口推計予測が誤り続けてきたことは日本社会の将来予測を誤ったことと等しい。もし予測が正確であったなら、今の活力を失った社会ではなかったかも知れない。そしてなによりも少子化対策についてももっと早期に真剣に論議されたことであろう。
 次ぎに政策の中で少子化対策がなおざりにされた要因に選挙制度の問題があると思う。子どもも社会構成の一員として真に捉えるのなら、子どもたちの権利、意見を反映した制度があって然るべきではないか。今の制度は自分たちの意見を1票の票に託す形をとるが子どもには選挙権がない。それならば子どもを持つ親にもう一票の投票権を与えてはどうか。投票権とは言わないまでもそれに代わるシステムがなければ既得権益と老人偏重の社会は変わらないのではないか。
 ではいったい21世紀の日本に対してどんな社会を想定しているのだろうか。バラ色の未来を夢想している人はいないと思うが,国民の資産1400兆円のうち1000兆を借金しているといわれている社会が医療、福祉を今までどおり続けていけるとはとても考えられない。そしてこれまでの社会主義的な体制、制度が壊れていくであろうことは容易に想像ができる。これから大きく変貌していくであろう社会では家族、子育て、老後の生活に対する考え方も自ずと変わっていくものと考えられる。先程述べた人口ピラミッドが逆三角形になるという事は支えて行かなければならない老人は多いが、逆に自分を支えてくれる人がいないことを意味する。これまでの経済的発展と社会主義的な体制により家族制度が大家族より核家族そして一人ぼっちへと移行してきた。このまま少子化が進めばこれからの人は、親がいなくなると身内がなく一人で生きていくこととなる。社会的なバックアップが貧弱なものとなれば、それこそ自己責任の中で生きて行かなければならない。子どもを産むと経済的な損失が大きいうんぬんはこれまでの社会状況の中でのみ有効な議論であって、今後の社会の変化を考えるに、子ども、家族を持つ事が益々重要な意味を持ちそして経済的社会的な安定に必須な条件になってくるのではないかと推察される。そしてこのような危機意識が醸成されてこなければ少子化に歯止めを掛けることができないのかもしれない。
 最後に、私達小児科医は少子化の問題、子育て支援など子どもに係わる多くの事柄に関心を持ち、意見を述べ、子どもの健康に係わる者としてそして選挙権を持たない子どもたちの代弁者として行動していこうではありませんか。皆様のご理解、ご協力宜しくお願いいたします。

(新潟県小児科医会雑誌 2002年秋号巻頭言に掲載)

少子化について思うこと
寒立馬