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チャットテーマ12/15,16

21世紀に臨んで考察(下)


【個人の独善と同じく、国の独善も誤りである】

 独善それは人を欺くものである。それは弱さの印である。いま私たちがテロに対して行うかもしれない戦争はどのようなものであっても、私たちが全面的に参加してきた戦争史の新たな一章になるだろう。
 また――9月11日以後の出来事が示しているように――、ある政府がグローバル経済に参加して推し進めながら、同時に、道徳的問題に関する国際条約を排除し、国際協力の輪からひとり外れることによって、自国の利益だけを求めて行動することも、やはり誤りである。
 そしてもちろん、私たちの国では、いかなる危機や緊急事態であっても、どのような形であれ政治的な抑圧を正当化できると考えることは、その憲法からみて根本的な間違いである。9月11日以後、アメリカ人はより大きな「安全保障」のためなら喜んで自由を減らしても構わないという、しかし、私たちの憲法上の権利を少しでも削ることを受け入れることよりも、安全保障(とグローバル経済)を削ってくれたほうがうれしいと考える人もいるだろう。
 私たちを憎む人々によって、自分たちが深く容赦なく傷つけられているとき、そして、自分たちはその同じ人々にゆゆしく脅かされていると考えなくてはならないときには、平和の道について語り、キリストが汝の敵を愛せと答えたことを思い出すのは大変なことである。しかし、難しいからといって、その必要性がいささかでも減ずるものではない。
【平和をもたらすのは】

 戦争の目的や結果は必然的に、平和ではなく勝利であり、暴力によって得られた勝利は必然的に、その勝利をもたらした暴力を正当化し、さらなる暴力へとつながっていく。私たちが革新について本気であるなら、私たちには、この永久に続く「戦争を終わらせるための戦争」に代わる何か新しいものが必要であるという結論を出すべきではないのだろうか?
 平和をもたらすのは、暴力ではなく、平和を求める思いである。それは受身ではなく、機敏で学識ある実践的で能動的な在り方である。私たちは、自分たちが戦争の手段に対して法外な補助金を与えてきた一方、平和志向の道はほとんど無視してきたことを認めなくてはならない。たとえば、軍事に関する国の学会はいくつもあるが、平和に関するものはひとつもない。私たちは、キリスト、ガンジー、マーティン・ルーサー・キングなどの平和を求める指導者たちの教えやお手本を無視してきた。そしてここで、戦争は儲かるが、平和志向の手段は安いか無料であって儲けにはつながらないということにも気づかなくてはならない。これに気づくことは、私たちに課せられた逃れようのない義務である。
【平和志向の鍵は】

 継続的な実践である。私たちがより貧しい国々を搾取して貧困に落とし入れ、その一方で、その国々を最新の戦争手段で武装して使い方を教え、そのような国々が平和志向であることを理性的に期待できると考えるのは誤りである。
 そして、私たちはふたたび、人々の感情や公共メディアが私たちの敵を戯画のように描写することを許してはならない。仮に、私たちの現在の敵があるイスラム諸国だとしたら、私たちはそれらの敵を知ることに取りかからなくてはならない。学校では、イスラム諸国の歴史や文化、芸術、言語を教え始めなくてはならない。そしてリーダーたちは、イスラム諸国に私たちを憎む人々がいるその理由を尋ねるだけの謙虚さと知恵を持たなくてはならない。
【食糧と農業の経済を手始めに】
 私たちは地元での自給という理想を自国で推し進め、海外にも奨励しなくてはならない。これこそが、世界が生存するための最も確実で、最も安全で、最も費用のかからない方法であることを認識しなくてはならない。必要なモノを生産する地元の能力が少しでも損なわれたり破壊されることを黙認してはならない。
 そして、私たちは、人間の経済を支える自然の基礎――土壌、水、大気――を保全する努力を考え直し、新たにし、広げなくてはならない。まだ残っている手付かずの生態系と流域を保護し、ダメージを受けてきたところの復元を始めなくてはならない。
【現在の教育の概念】

 現在の問題の複雑さは、これまでないほど、現在の教育の概念を変えなくてはならないことを示している。教育は正しくは産業ではない。その正しい活用法は、職業訓練や産業界が補助する研究などによって、産業界の役に立つことではない。
 その正しい活用法は、市民が、経済的にも政治的にも社会的にも文化的にも、責任を持って生きられるようにすることである。これは、私たちが現在「情報」と呼ぶもの――文脈なく、その結果、優先順位のない事実のことである――を収集したり「評価」したりすることでは行えない。正しい教育によって、若い人々は、自分たちの人生を整えることができる。それは、ほかのものよりも重要な物事を知るということである。最初にやるべきことを最初にもってくる、ということである。
 まず最初に、子どもたちに教え始め(そして自分たちでも学び始め)なくてはならないことは、際限なく金を使い、消費することはできない、ということだ。貯蓄し、節約することを学ばなくてはならない。私たちには、「新しい経済」が必要であるが、それは、過剰と浪費の上に築かれたものではなく、倹約と配慮、貯蓄と節約の上に築かれたものでなければならない。浪費に基づいた経済は、本質的にそして絶望的に暴力的であり、戦争はそこから不可避的に生み出される副産物である。
私たちには、平和志向の経済が必要なのだ。                            

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【経済気象台】    asahi.com 12/18

真の改革

 21世紀の始まりの年は世界にとって大きな試練の年となった。何といっても米国での同時多発テロはすさまじかった。反撃した米国の主導でタリバーンは壊滅したが、恨みと憎しみが根絶されたとは言い難い。国内では不良債権の重圧で銀行の機能は回復せず、生保の多くも危機的状態にある。こうした信用システムや年金、健保などの揺らぎは、日本という共同体の相互信頼の土台を揺るがした。
 国民は小泉首相の改革に信を託したが、与党の足並みはそろわず、行政も国益の守護役という共同体の重心にはならなくなっている。また、世界同時不況の中で大型倒産が相次ぎ、失業が増えることによって、人と共同体との絆(きずな)は一段と弱まってきた。
 狂牛病は人間の欲得による生命の摂理への介入の結果である。地球環境の破壊と同様に、人間は自らの存在の基礎を傷つけているのに、その縁起はよく見えていない。あらゆるレベルで共同体の土台が損なわれてきた中で、教育現場の荒廃、犯罪の凶悪化、警官や高級官僚の犯罪など、人間がアイデンティティーを見失う傾向も強まった。その原因をえぐり、共同体を立て直すことが呼びかけられている。
 しかし、その原因は20世紀の驚くべき経済発展の原動力そのものにあったのではないか。強者の論理、科学万能主義、マネーの拡張作用などが原動力だが、副作用も大きかった。人と社会、また自然との絆の分断、共同体の目的や志の喪失、人間を超える大いなる存在への畏敬(いけい)の喪失、拝金主義などである。これが社会の風土になり、同時に私たち一人ひとりを日常的に振り回している。
 この発想のゆがみに正面から取り組み、変革することが今この転換の時に求められている本当の改革だろう。今年、集中的に起きた痛ましい出来事も、そこまでの改革のきっかけになるなら、今年も悪いことばかりではなかったということになると思われる。(瞬)
http://www.asahi.com/business/column/K2001121800932.html