「選択」01年11月号 (01/11/7)
マネー「退蔵」が始まった 蛇口閉められるグローバル経済
要約文
九月十一日を境に、世界の心象風景が一変しただけではない。マネーが凍りかけている。世界の投資資金の流れが変調を来し、お金が行き場を失って退蔵される現象が見え始めた。
発端は外国為替市場だった。テロ事件後、伝統的に有事に強い通貨スイスフランがまず急騰したのだ。有事に強い通貨の代表だったドルが、本土のテロ攻撃で売られたのとは対照的だった。投資家の本能だろう。最も安全な投資先に逃げ、保有現金の比率を高めようとする「質への逃避」(フライ・ツー・クオリティー)が起きたのだ。
テロから一カ月半でスイスフランの急騰は収まったが、グローバルな「質への逃避」の例はこれだけではない。
▼金価格の上昇 一九九七年のアジア通貨危機以降は低迷が続き、テロ前には一トロイオンス=二六〇ドルで落ち込んだ金の国際価格が一気に三〇ドル余りも回復した。
▼国債買いに走る 世界で最も信用力が高く、安全な投資先である米国債が買われている。流動性が高く、いつでも現金に替えられる二年債の利回りは同時多発テロ前に比べ一%強も下落、相場が急騰している。
▼株式投信から流出 米調査会社リッパーの調べでは、九月中の米国の株式投信からの資金の純流出額は三二〇億ドルと単月で過去最大。総資産の一%分が流出した。逆に低リスクの短期金融商品で運用するMMF(マネー・マーケット・ファンド)への純流入額は約六五〇億ドルに膨らんだ。
マネーがリスク回避に雪崩をうった事例は世界で枚挙にいとまがない。十月下旬以降、日米欧の株価は落ち着きを取り戻したが、「質への逃避」が瞬間反射で終わったかとなると、今のところ答えは「否」。むしろマネー退蔵の懸念すらでているのだ。
不気味な「マーシャルのk」上昇
「抱え込んだ債券が売るに売れない。」世界最大の国際金融市場、ロンドンの証券関係者は悲鳴をあげる。売るに売れない債券とは、格付けがトリプルBを下回り、投機的な投資商品とされる社債(ジャンク債)のことだ。
ジャンク債市場は昨年のITバブル崩壊で麻痺の度を強めており、テロでとどめの一撃を刺された格好だ。とくに深刻なのは、携帯電話サービスなどの社債。次世代携帯電話への巨額投資をまかなうため、昨年まで数兆ドル規模の社債を発行してきたツケが回り、オランダのKPNなどTMT(情報通信メディア)企業は財務体質が悪化、債券格付けも相次いで引き下げられていた。同時多発テロ後は、低格付け債の買い手が姿を消す。市場機能の命である「流動性」が干上がったのだ。
米ドル建てで見た低格付け債とスワップ金利の利回り格差(スプレッド)は、十年物の格差は九%前後まで広がっている。これは、九八年秋のロシア通貨危機当時(七%前後)を超えて債券の信用力が落ちたことを示している。
興味深い調査がある。ドイツ銀行と投資実績評価会社ラッセル・メロンが共同で米国の機関投資家を対象に調べたポートフォリオ調査だ。九月未の低格付け債の投資ウエートは八月とほぼ同水準のまま。価格急落にもかかわらず流動性喪失で処分売りができず、含み損を抱えた投資資金が塩漬けになっている構図が浮かび上がる。
リスクをとる投資資金の退潮は新興市場でも鮮明だ。動揺が目立つのは世界最大のイスラム教国インドネシア。七月のメガワティ政権誕生で逃避資金が環流しだしたのにテロで暗転。十月十二日までの一カ月間で株価は約一五%、通貨ルピアも一〇%近く急落した。トルコ、ブラジルも株価と為替相場の下落に見舞われている。国際通貨基金(IMF)の追加支援決定で小康状態にあったアルゼンチンもデフォルト(債務不履行)懸念が再燃。国際金融協会によると、新興市場国が国際金融市場で起債した額は九月に前月比七八%減と急激に落ち込んだ。対外債務が大きく、外国資金に頼らざるを得ない「弱い輪」から綻びが始まっているのだ。
マネー(貨幣)には主に三つの機能がある、と経済学の教科書は教える。第一に商品やサービスの価値を計り(価値尺度)、第二に取引を媒介し(交換手段)、そして第三には価値を貯蔵する手段になる。マネーのリスク回避志向が極限まで高まると、行き着く先は第三の価値貯蔵 つまり退蔵だ。その徴候は「マーシャルのk」が上がりだすことに現れる。「マーシャルのk」は一定の経済活動を維持するのにどれだけのマネーが必要なのかを示す指標である。一国経済のマネーの総量である通貨供給量(マネーサプライ)を国内総生産(GDP)で割って算出する。ケインズの師匠アルフレッド・マーシャルが「経済に必要なマネーの量は経済規模によって自ずと決まる」という古典派モデルに基づいて講義していた故事にちなむ。
驚くべきことに、日米でマーシャルのkが急上昇している。米国の場合ITバブル崩壊とともに米連邦準備制度理事会(FRB)が利下げに転じた昨年初めのM3(広義の通貨供給量)の規模は約六兆六千億ドル。九回の利下げを繰り返した現在までM3は一兆二千億ドル、一八%も増えているのに、GDP伸び率は低迷している。FRBが大胆な金融緩和で市中のマネー量を増やしても、経済活動が反応しないのだ。金融緩和がさっぱり効かない日本はもちろん米国に先行している。
これは何を意味するか。マーシャルのkの上昇は貨幣の流通速度の低下と裏腹。マネーの本質が「天下の回りもの」であり、経済活動を支える血液であるなら、明らかに血のめぐりが悪くなっているのだ。タンス頭金が何も生まないように、マネーが「退蔵」されると信用創造は萎縮し、経済は深刻な不況の奈落に落ちこんでいく。「倹約は美徳でなく有害」(ケインズ)と言われるゆえんである。
ジョージ・ソロスは予言していた
怖いのは米国の貯蓄率だろう。個人の貯蓄を可処分所得で割った数字で見ると、二〇〇〇年の第一、第三四半期には〇・八%と実質ゼロに張りついていたのが、今年八月には四・一%と跳ね上がってきた。テロ後の消費は一段と冷え込み、第三、第四四半期は貯蓄率がもっと上がるに違いない。 これまでの過剰消費の揺り戻しとも言えるが、不良債権が膨らむ米銀が貸し出しに慎重になると、リスクマネーの世界的循環をダイナモにしてきたグローバル経済が、蛇口を閉められかねない。
アラン・グリーンスパン米連邦準備制度理事会(FRB)議長は十月十七日の両院合同経済委員会で証言した。「九月十一日の悲劇をきっかけに、リスク評価は一変した。新しいリスク評価は市場に漫透している。だが、このような資源配分の調整は一回限りのものであり、米国の長期的な成長に影響は及ぼさない」−−。 戦場はアフガニスタンだけではない。日米欧の金融政策当局は、マネー退蔵から信用収縮という奈落に落ちまいとして彼ら自身の戦いを始めたのだ。それに勝てるかどうかは未知数だ。
「すでに最終危機の種がみてとれる。最終危機は政治的性格を持つものになろう。土着性の重視を唱える政治運動が起こり、多国簿企業を追放して『民族の』富を取り戻そうとするのではないか。それが金融市場の自信を揺さぶり、自己強化的な下降プロセスをスタートさせるかもしれない」。
かつてのヘッジファンドの雄、ジョージ・ソロス氏は九八年にそう予言している。
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