フォークシンガー・吉田拓郎
[@]管理人が語る、フォークシンガー・吉田拓郎

吉田拓郎。彼の名前を聞いてどんな人間を想像するか?それは世代によって  
大きく異なると思う。若い世代は、テレビやCMでおなじみの、ちょっと変
わったオジサンだと思う人が多いだろう。上の世代、特に団塊の世代にとっ
ては、そのような一言では片付けられない。ファンであれば、格別の思いが
あるはずだ。ファンならずとも、知らない人は皆無だろう。1970年代以
降の音楽シーンを変え、またフォークシンガーの旗手として、驚異的パワー
でリードしてきた、『フォークの帝王』まさしく『カリスマ』。そして尚現
役で活躍を続ける、シンガーソングライターである。管理人は拓郎世代では
ないし、拓郎のデビュー当時や、全盛の当時を直接は知らないのだが、拓郎
ファンである父の影響を受けて、アルバムレコード、ビデオなどを通じ、比
較的幼少の頃から、拓郎の音楽に触れ、興味を持ち、そしていつしか一人の
ファンとなった。音楽そのものより、何と言うのか、音楽から溢れ出る、存
在感の大きさに圧倒させられたのだ。管理人が初めて吉田拓郎を知ったのは、
1985年だったと思う。静岡県掛川市のつま恋で開催されたオールナイト
イベント『One Last Night In つま恋 ’85』のLD
映像を見たときである。当時管理人は小学校3年。実際はそれ以前から拓郎
の音楽は、父がカーオーディオで流していたので、耳にしていたことになる
のだが、誰が唄っているのか知らなかったし、やはり映像として拓郎の容姿
を初めて捉えたのは、つま恋のライブLDと言うことになる。アフロヘアで
汗びっしょりになりながら、叫ぶように唄う拓郎の姿。熱狂の渦と化した大
勢のファン。ある種異様なまでのその光景は、やはり小学校3年当時の管理
人にとっては鮮烈な印象だった。実はこのイベントを区切りに、休養宣言と
言うか、『もうコンサートはやらない!!』と、拓郎は宣言していたのだ。イ
ベントタイトル『One Last Night』が意味するように、一つ
の時代を切り拓き、疾風の如く駆け抜けた吉田拓郎は、ラストとして、音楽
史に残るオールナイトライブでファンに応えたと言うことだろう。管理人も、
小学校3年ながら、もう拓郎は人前で唄うことはないんだな・・・と思った。

その後、拓郎はシンガーとして再びスタートすることになる。何かの番組で
拓郎自身が話していたが、ボクの言うことは全部ウソだから・・・と。人を
茶化すのも程々に・・・と言いたいところだが、茶化してるつもりはないだ
ろう。そこが拓郎らしさなのかも知れない。1990年代に入り、拓郎はト
レードマークとも言うべきアフロヘアをバッサリ切り、ショートヘアにして
大きく印象を変えた。管理人もビックリしたのだが、拓郎世代の根っからフ
ァンにとっては、衝撃的だったに違いない。デビュー20年と言う節目の年
に、気持ちも新たに・・・と言うことだったのだろうか?マスコミと闘い、
テレビを拒否し続けてスターの座に上り詰めた拓郎だが、90年代後半にな
ると、若い世代と一緒にテレビ番組にレギュラー出演し、何やらうつむき加
減でニヤニヤしながら、時折ジョークを放つ、妙なオジサンに変貌する。か
つての拓郎を知らない世代は、よくわからないけど、これが吉田拓郎って人
なんだ・・・って認識するだろうし、拓郎世代のカリスマ拓郎ファンの中に
は、ブラウン管から流れてくるそんな拓郎を見て、失望した人もいるのかも
知れない。しかし、吉田拓郎と言う一人の人間は、あくまで拓郎自身の自由
な生き方に委ねられている。シンガーとしての吉田拓郎は、今尚健在である。
ファンに気兼ねして、自由な発想でやりたいことも出来ないシンガーは悲し
いだろう。フォークと言う一つのジャンルに捉われたくない、ボクはフォー
クシンガーなんかになりたくないのです。と、かつての拓郎が言ったように。

当時、フォークソングは、ファンが突き上げたともいえる、ある種の固定観
念に捉われ、よりメッセージ色の強いものを・・・とか、社会に対するプロ
テストソングこそフォークである・・・みたいな風潮があったらしい。そん
な中で、1972年シングルリリースのヒット曲『結婚しようよ』は、ヒッ
トしたのに上述のようなファンの反感を買うと言う結果になった。反骨精神
でやってきた拓郎が、芸能界のコマーシャリズムに迎合したとまで揶揄され
たらしい。こんなのはフォークではないと。そもそも、フォークソングって
何だ?と問われると、管理人も返答に困る。拓郎は、フォークとは斯くの如
くあるべき、と言うファンの固定観念に捉われることなく、自分の唄いたい
と思う唄を、自由に創作しようと模索してきたと思う。そもそもフォークは
より自由なものであったはずなのに、斯くあるべき・・・とファンの敷いた
規制が、フォークをいつしか不自由なものにしていたと言う。そんな状況を、
拓郎は『フォークソングは、自由の顔をした不自由な籠の鳥』と表現した。
拓郎は、あくまで自由でありたかった。それがフォークの原点であったはず
だから。拓郎が、フォークシンガーなんかになりたくないと言い放った真意
は、恐らくそこにある。自由な生き方を縛られたくないと言うのと同義なの
だ。だからこそ、今の拓郎にも当てはまる。かつて、テレビを拒否してきた
拓郎が裏を返したようにテレビに出演して、ヘラヘラしていようが、好き勝
手なことを言おうが、やはりそれは一人の人間、吉田拓郎なのだ。一方で、
先述のように、シンガーとしての吉田拓郎も、現役として尚健在なのだから。
え?フォーク?過ぎ去ったもの?・・・ではない。かつてのブームなどと言
う軽い言葉で、一括りにするような扱いは誤りである。唄は、ジャンルを問
わず、時代を超えて生きている。フォークソングまた然り・・・である。詩
に込められた普遍性やメロディーの美しさは、決して色褪せないのだ・・・。


[A]吉田拓郎の歩み

吉田拓郎は1946年に鹿児島県に生まれ、その後、小学校3年のとき広島
に移り住む。高校時代から音楽活動を始め、広島商科大学時代には、アマチ
ュアバンドを結成し、広島では名の知れたバンドに成長した。その後広島フ
ォーク村の自主制作盤『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』
をエレックレコードから発表。デビュー曲『イメージの詩』は、鮮烈な歌詞
で当時の若い世代に受け入れられ、1970年、プロデビューを果たす。そ
の後、アルバム『青春の詩』『人間なんて』を次々と発表。フォーク界に新
風を吹き込み、1972年の『結婚しようよ』同年の『旅の宿』は大ヒット。
この頃から、拓郎は『フォーク界のプリンス』などと呼ばれるようになる。
トークの上手さも光り、深夜ラジオのパーソナリティーとしても人気を博す。
1972年リリースのアルバム『元気です』は、拓郎初期の傑作と言われる。
1973年、金沢で熱狂的な女性ファンによってある事件が引き起こされ、
逮捕されるというアクシデントが拓郎を襲う。しかし無実と判明し、釈放。
この『事件』が原因となり、アルバム『伽草子』のリリースが遅れたらしい。
1974年には、岡本おさみの詩に、拓郎が曲をつけた『襟裳岬』が森進一
によって唄われ、その年のレコード大賞を獲得するなど、プロデュース面で
も実力を発揮した。拓郎自身のライブツアーも精力的にこなし、フォーク界
のプリンスは、旗手として音楽界をリードする。そして1975年、拓郎は、
小室等、井上陽水、泉谷しげると言う豪華な顔ぶれ4人で、新レコード会社
『フォーライフレコード』を設立。その後1977年、初代小室等に代わり、
2代目のフォーライフ社長に就任し、暫くは社長業に専念する時期もあった。

拓郎を語る上で、1975年と言えば絶対に外せないものがある。静岡県掛
川市のつま恋で、かぐや姫とのジョイントライブが、オールナイトで行なわ
れた。いわゆる1回目のつま恋である。7万人とも言われる熱狂的ファンを
前にして、かぐや姫と共に、史上空前のオールナイトイベントを成功に導く。
拓郎初期のトレードマーク、ストレートのロングヘアは、その後カットされ、
短めになる。社長業に専念するためか?そして1979年、再びビッグなイ
ベントが、愛知県知多半島沖の篠島にて、オールナイトで行なわれる。アイ
ランドコンサートと称されたこのイベントは、一つの島を借り切って行なわ
れると言う、前代未聞のものであった。篠島には島民の10倍のファンが押
しかけたと言う。デビュー間もない長渕剛がゲスト出演したが、帰れ!!コー
ルが噴出。長渕も負けることなく言い返し、唄いきったと言うエピソードも。
このイベントでは、拓郎中期のトレードマーク、アフロヘアが印象的である。
篠島のビッグイベントを終え、1980年代。武道館ライブを含む、自身の
ライブツアー、アルバム発表、楽曲提供によるプロデュース・・・と、拓郎
の活躍は続くが、1985年、もうコンサートはやらない、と実質的な引退
宣言とも受け取れる発表をする。デビューから走り続けて15年、拓郎の胸
のうちに、何が去来したのだろう?そして夏、最後のビッグイベントと囁か
れた、2度目つま恋。管理人が初めて吉田拓郎を知ることになるオールナイ
トライブ『One Last Night』である。30代最後の年に幕を
引こうと思ったのか?他に何かしらの要因があったのか?管理人には知る由
もない。約4万人のファンを集めた、つま恋多目的広場には、拓郎の叫びと
も思える熱唱が、夜を越えて響き渡った。LDの映像でしか見ていない管理
人だが、夜が明けて最後の曲、『明日に向かって走れ』を唄い終えたときの
拓郎の晴れやかな表情。やはり引退するのか・・・と感じた。ココで、話が
[@]に戻り、自分史に一つの節目をつけた拓郎は、再びファンの前で唄い始
めるのである。そして、1990年代、迎えた21世紀も拓郎は唄い続ける。

2006年9月。31年ぶりの、かぐや姫との『つま恋』。感動しました。
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