Moonlight Serenade


太陽・作

1789年7月

「何だって! どうしてこの忙しい時期に行軍なのだ。しかも、第1班と私が・・・。完全にブイエ将軍の私怨としか思えない。いまどき、行軍なんかやっていられるか。くそっ、忌々しい。」
オスカルは激怒して、両手で机を叩いた。
ブイエ将軍からの命令を伝えにきたダグー大佐は、ただ姿勢を正して上官の怒りが収まるのを待っていた。
「結局、どう足掻いても上官の命令は絶対だからな。また揉め事を起こす訳には行かないか。」
オスカルは深いため息をつくと、ダグー大佐に第1班班長のアラン・ド・ソワソンを呼ぶように命じた。

「失礼します。アラン・ド・ソワソン、入ります。」
「ああ、アラン。班員全員に伝えてくれ。突然だが、明日から3日間行軍だ。」
「は? 行軍ですか?」
「そうだ。」
「なぜ、こんな時期に。」
「知らん、文句はブイエ将軍に言ってくれ。第1班と私だけだ。」
「それは、完全に・・・」
「そうだ、私怨だな。ブイエ将軍に対する我々の命令違反が、アントワネット様のお陰でお咎め無しになったからな。そうとう怒っているのだろう。」
「分かりました。みんなに伝えておきます。でも、隊長。たまには行軍もいいんじゃないですか、息抜きだと思えば。」
「他の時期ならばな。まったく何を考えているのだか・・・。」

 

次の日―。


オスカルとアンドレ、ダグー大佐そしてアラン達第1班全員は、ブイエ将軍の命により、3日間の行軍に出発した。

オスカルが1日目の野営の場所に選んだのは、川縁の森の中だった。
「よし、今日の行軍はここまで。ここで野営を張ることにしよう。」
オスカルの一言に隊員から口々に安堵の声が漏れる。
「やっと休めるぜ」「腹減った」「今日も暑かったからなあ」

実際オスカル自身もこの暑さの中、1日中歩き詰めでかなり疲れていた。
「隊長、オスカル隊長。こちらへどうぞ。」
フランソワ・アルマンがオスカルに指し示した場所は、夕陽を遮る木の枝と川面を渡る涼やかな風が吹き抜ける、至極快適そうな場所だった。そこに彼女が少しでも楽に過ごせるように、敷物を敷き、オスカルを招いた。
オスカルがその場所にほっとしたように座ると、彼は満足そうな笑みを浮かべながら、水をオスカルに差し出した。
「隊長、どうぞ。」
オスカルはその水を一息で飲み干すと彼に笑顔を向けながら言った。
「ありがとう。こういうときは水が一番のごちそうだな。」
「食事も出来次第すぐにお持ちいたしますので。」
「お前が当番なのか?」
「いえ、当番代わって貰ったんです。この行軍の間は隊長のお世話は私フランソワ・アルマンが担当させて頂きます。」
「変なやつだな、私の担当なんて仕事が増えるだけで大変だろうに。」
「いいえ、隊長。」(好きな方のお側に居られるだけでうれしいです。)
フランソワはオスカルの側に立ち、彼女を嬉しそうに見つめていた。

木立の向こうからアランの声が聞こえる。
「おい、みんな、川で水浴びしようぜ。但し、今回は隊長がいるから少しは気を使えよ。」
「そうか、分かった。」
「そうだな。男だけじゃない訳だ。」
「なるほど・・・。」
みんな一応気を使いつつ後ろ向きに軍服を脱ぐと前を隠し、裸で川に飛び込んだ。
オスカルの位置からは木々が遮る形になってみんなの姿は見えなかった。ただ、楽しそうな歓声が聞こえた。
「アンドレ、おまえは水浴びしないのか? 気持ちよさそうだぞ。」
隣でやさしい眼差しで自分を見つめているアンドレに問い掛ける。
「お前を見張っておかないと、あいつらの裸覗くだろう?」
「ばか、私がそんなことするか。」
「はっはっは・・・、冗談だよ。お前が心配だからな。」
「私は大丈夫だから、少し汗を流してきたらどうだ。アルマンもいてくれるし。」
「そうか? じゃあ悪いがちょっと浴びてこようかな。」

オスカルは小さくなっていくアンドレの後ろ姿を眺めながら、心の中でぼやいていた。

あーあ、男はいいなあ。
まさか、みんなと一緒に裸になって水浴びする訳には行かないからな。
私も汗を流したい、べとべとで気持ちが悪い。
軍服を脱ぎたい。
水浴びしたい。
何か良い方法はないかな・・・。

オスカルは、今回の行軍はブイエ将軍の私怨だけで、特に軍事的に意味があることではないと分かっていたため、みんなへの慰労の意味も込めて酒も用意させていた。焚き火を囲んで夕食を取っていた全員に飲酒の許可を与えた。
「さすが隊長、分かっていますね。」
「こんな行軍なら毎日でもいいな。」
「隊長、頂きます。」

「隊長、今日は飲まないのですか?」ジャンが不思議そうに尋ねた。
「ん? そうだな、今日はあまり飲みたくないな。」
「珍しいですね、隊長が少ししか飲まないなんて。」ラサールが横から口を挟む。
「なんだと、人をうわばみのように言うな。」
「失礼しました。」
久しぶりに緊張感のない、明るい笑い声が響いた。

「オスカル、りんご食べるか?」
「ああ、貰おうかな。」
オスカルはアンドレが投げたりんごを受け取ると持っていたナイフで器用に皮を剥き始めた。

「隊長、ちょっと聞いてもいいですか?」
「なんだ、アラン。お前もりんご欲しいのか。」
「違いますよ。前から不思議だったんですが、大貴族の伯爵令嬢なのに、どうしてそんなことするんですか? お屋敷では、使用人はたくさんいるのでしょう。」
「あっ、俺も不思議だったんですよね。」
「そうそう、今までの隊長と違って、人を使わずに何でも自分でやってしまうし。」
兵士たちも、此処ぞとばかり質問する。
「そんなことって? ああ、これか? 伯爵令嬢というと聞こえはいいが、私は軍人になるために育てられたからな。軍属では、自分のことは何でも自分でできないと困るだろう? 父も厳しかったし、そういう点でも普通の伯爵令嬢ではないということだ。」
「そうなんですか。」
「でも、普通の令嬢ができるようなことは大抵できないぞ。」
「何がですか?」
「そうだな、刺繍とか、お愛想笑いとか。そうだ、ダンスも女性のパートはかなりへただな。」
「刺繍にお愛想笑いですか、まるっきり似合いませんね。」
「そうだろう? 私もそう思う。」
「はははっ、自分で言ってりゃ世話ないや。」
目の前で柔らかに笑う人を、アランは目を細めて見つめていた。

「でも、隊長とダンスか、踊ってみたいな。」
「俺も!」
「ばか、お前らじゃ隊長が気の毒だ。」
「いいだろう、ただの夢なんだからよ。」
「隊長と踊るんだったら俺だよ、やっぱり。俺の方が背が高いからな。」
「身長で踊るわけじゃないぞ。」
「釣り合いってものがあるだろう。」
「どっちにしろ、お前たちじゃ隊長の相手は務まらないって。」
「鏡を見ろ、鏡を。人間離れした顔しやがって。」
「なんだと、このやろう。」
「やるか、てめえ。」

楽しく騒いでいるみんなからそっと離れ、自分の天幕に戻ろうとするオスカルにアンドレが後ろからそっと声を掛けた。
「オスカル。」
「何だ、アンドレ。」
「今夜は満月だ。」
「・・・? それがどうした。」
「みんなを酔いつぶして、水浴びするつもりだろう。絶対にだめだからな。」
「ばれたか・・・。」
「お前の考えはお見通しだ。あいつらにお前の裸を見られて堪るか。」
「でも、汗が気持ち悪い。」
「俺が見張っていてやるから、天幕の中で体を拭くだけにしろ。」
アンドレの真剣な目を見て、オスカルは仕方なく言った。
「分かった、諦めるよ。」
「本当だな。」
「うん。」

深夜――。


アンドレにはああいったけれど、やっぱり気持ち悪くて眠れない。
もう、みんな酔いつぶれて寝静まっているし、静かに入れば分からないだろう。
ごめん、アンドレ。どうしても汗を流したいのだ。

オスカルは、天幕から顔を出すと辺りをきょろきょろと見渡し、皆が寝静まっていることを確認しながら、忍び足で歩いた。
(この辺ならみんなの寝ている位置からは見えないな。)
大きな木の陰に隠れて服を脱ぐと、音を立てないようにそっと川に入った。顔を洗い、身体を洗い、急いで髪も洗った。そして、爽やかな気分で月を眺めた。

ほーーっ、さっぱりして気持ちいい。
最近、本当に忙しかったし、気持ちに余裕がなかった。
こうして、見事な満月をゆっくり眺められるなんて、ブイエ将軍に感謝かな。
きれいな月だ。月の光がやさしい。心が洗われるようだ。

アランは眠れないままに、大きな木に登り、川に向かって張り出した太い枝に腰掛けると、川面に移る月と天上の月とを眺めていた。

たまには月をゆっくりと眺めるのもいいな。
ディアンヌ、お前が逝ってしまってから、月なんて眺めたこともなかった。
「兄さん、見て。月がきれいよ、ほら今夜は見事な満月だわ。」
「デイアンヌ、月なんか見ても腹いっぱいにならないぜ。」
「まあ、いやな兄さん。」

ディアンヌ、お前の憧れていた隊長の黄金の髪は、月の光よりきれいだぜ。
腹いっぱいにはならないが、胸がいっぱいで苦しくなるんだ・・・。

俺は一生忘れないだろう。あの6月の、雨の日のことを。
俺はきっとどうかしていたんだ。
隊長は俺のために血相を変えて飛んできてくれた。
その隊長の俺だけに向けられた真剣な眼差しに理性が吹っ飛んだ。
俺の腕を掴んだ隊長の華奢な手首を振りほどき、逆に掴み返すと、身体ごと壁に押し付けた。
青ざめた美しい顔、見開かれた驚愕の蒼い瞳。
目の前で誘うように揺れる黄金の絹糸。
仰け反る軍服の襟元から覗く白い首筋、そこから立ち昇る、隠し切れない女の香り。
「あ・・・」
感情を押さえきれずに無理やり奪ってしまった・・・。
その愛しい人の柔らかな唇。
逃れようとする唇を尚も追い求め離さない。
離してやることなどできなかった。
狂おしいまでの激情に流された。

その激情を止めたのは、彼女を一途に愛し続け、彼女のために片目を失った男の熱い腕だった。
俺に向けられた俺よりも熱い滾(たぎ)るような激情。
俺はその熱さに観念して、眼を閉じた。
殴られることを覚悟して、というより殴られたかったのかも知れない。
勝てる訳がない、あいつの想いに。
全身全霊をかけて人を愛する生き様に。

あいつと同じく、決して手の届かない女性(ひと)を愛してしまった。
俺のこの想いはどうやって昇華すればいいんだ?
教えてくれよ、ディアンヌ。
教えてくれ・・・。

そのとき自分が座っている木の真下に、月の光をその素肌に浴びて、黄金色にきらきらと光り輝く月の女神が現れた。

(セレネ? いや・・・た・・・隊長!?)
アランの心臓は、早鐘のように鳴り響き、冷や汗が背を伝う。

アランが見ているなんて露にも思わず、オスカルは静かに身体と髪を洗っている。見てはいけないと思いつつも、その神々しいまでの美しさにアランは目を逸らすこともできないでいた。少しでも動けば自分がここにいることが、オスカルに分かってしまう。彼女のためにも、アランは自分がここにいることを悟られてはならない。麗しい月の女神を見つめたまま、アランは固まってしまっていた。

フランソワ・アルマンは、今日一日隊長から自分に向けられた優しい微笑みや労いの言葉を思い浮かべ、嬉しくて眠れずにいた。
「隊長、ぐっすりお休みになられていますか? 明日の朝は何をお食べになりますか? 最近少しお疲れのようだから、何がいいだろう。」
オスカルへの想いに浸っていたフランソワの後ろで、かすかな水音が聞こえた。
その音に無意識に振り返ったフランソワは、目を見開いたまま、息を呑んだ。

「セレネ・・・? い・・・や・・・隊長!?」
月の光だけを纏った女神、我が憧れの隊長。 
彼は自分の心と戦っていた。
見てはいけない、愛しの隊長の○○○なんて。
でも、でも・・・。
なんて、美しいんだ。

「ゴクッ・・・」
フランソワが妙な気配に振り返ると、目を血走らせた第1班の面々が息を潜めて、立ち尽くしていた。
「ゴクッ・・・」
「ゴクッ・・・」
息を呑む微かな音が響くだけで、辺りは見事な静寂に包まれていた。

「・・・オスカル? どこだ?」
アンドレはオスカルが居るはずの天幕から彼女の姿が消えたことに気が付いた。
「あのばか、絶対にだめだと言ったのに。」
アンドレは他の者に気付かれないように静かにオスカルを探した。
そして、太い木の根元に置かれたオスカルの軍服を見つけた。
川面を見渡したアンドレの目に、月から降臨してきたセレネが、月の光にその素肌を惜しげもなく晒して、佇んでいた。

声を掛けるべきか、アンドレは一瞬迷った。迂闊に声を掛ければ付近で酔いつぶれて寝ている筈の兵士たちを起こしてしまう危険性があった。考えた末に、アンドレは軍服の上に置いてあった真っ白のリネン(亜麻布)を持つと、川に入りそっとオスカルに近づいた。

うっとりと月を眺めているセレネの後ろから大きなリネン(古代エジプトではリネンは“Woven Moonlight”月光で織られた生地と呼ばれた)で濡れている彼女を包み込み、やさしく抱きしめた。

びっくりして、オスカルが振り返るとそのただ一つの黒い瞳に美しい月が映っていた。
「オスカル、俺のセレネ・・・。俺だけのセレネ・・・。」
「アンドレ・・・」
月の光を帯びた、サファイヤ・ブルーの瞳が静かに閉じられた。
月の女神を情熱的に抱きしめて、その清らかな唇に深い口づけが贈られる。
セレネの指が、黒葡萄の髪に愛しそうに絡みつく。
満月を背景に絵画のように浮かぶ恋人たちのシルエット。
恋人たちの時間は誰にも邪魔されず、ゆっくりと静かに流れていく。

「オスカル、月の光を浴びて、神々しいほどに綺麗だよ。」
彼女を抱きしめたまま耳元に小さい声で囁いた。
「アンドレ」
月の女神はその頬を恥ずかしそうに染めて、自分が選んだ、ただ一人の男の胸に、しっかりとすがりついた。

こうして、衛兵隊の女神はたった一人の男にその甘い唇を許し、自らも情熱的な口づけを返した。

「ア・・・アンドレ・・・?」
「た、隊長に何をするんだ!」
「あ・・・」
「や、止めろ!」
「ぎゃあああーっ」
残った哀れな男たちの、嫉妬に燃えるいくつかの瞳。
落胆する瞳、祝福する瞳、そして静かに見つめるだけの瞳。
それでもその瞳の持ち主たちの意見は、最後には一致していた。
「畜生!」
「この色男」
「隊長を大事にしろよ。」
「アンドレ、良かったな。思いが叶って。」
「やったな、アンドレ」
「隊長、幸せになってください。」

アランは、自分の失恋とアンドレの長い片思いが終わっていたことに同時に気が付いた。
「おめでとう、アンドレ。似合いの二人だよな。ディアンヌ、いつかお前に再び会えたときに慰めてくれるか? この不甲斐ない兄貴を。」 

次の朝。


この行軍に参加した人間は皆、それぞれの理由で寝不足だった。
ただ一人爽やかな笑顔のその人は、無邪気に皆に尋ねた。
「みんな、どうしたのだ赤い目をして、眠れなかったのか?」
「どうしたって、隊長・・・。」
「月がきれいだったんですよ。それだけです。」
「そうです。月に見惚れていたんです。」
「そうか。確かにきれいな月だったからな。」

 

―おしまい―

 

(注)行軍・・・軍隊が隊列を組んで長距離を行進・移動すること。

 

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