孤軍(?)奮闘されている広井さんを応援したいと思っているのですが、力およびません。狛江から講演に招かれたと云うことで、声援をおくります。 狛江との交流はもっと市民(町民)レベルの面に広がってほしいと念じていましたので、その足がかりにお願いしたいものです。地震のとき、知己の狛江の方から励ましの電話をいただきました。 「うちの市から応援に行きましたか」と云ってきたのです。「消防団がいち早く駆けつけてくれたので、感謝します。野営避難ですから、狛江市の仮設トイレはとても助かりました」と私の言葉。「それはよかった、さっそく市役所に伝えておきましょう」との返事。普通の市民の方からこんな励ましの気持をいただいて、とても感激しました。 講演は地域コミニュティのこととうかがったと思いますので、私の部落(匿名でも、バレバレでしょう)のこと、すこし報告します。地震の後、町内どこにもブルーシートの共同テントが、自然発生的に張られたと思います。私の部落でも同様でしたが、一部にテントの張れない、個別避難の地区がありました。日ごろの地域コミニュティの関係からかなとも見えましたが、その地区に広場がなく、車中泊も田んぼ中の農道に自動車を止めてのことでしたから、共同テントの出来ないのもやむをえなかったのでしょう。 私は個別避難の地区です。わが家の前はアッと云う間に国道通行の自動車群に占領され、その後は工事車両に占領されて大変なので、地区が違って離れたところのテントに、時々寄せてもらっていたのです。そこには、隣部落から逃れてきた人、身内をたよって他町村からの避難者までもいました。 無秩序とみえていたこの場にも、年寄り子供がいたわられ、地区外からの人にも共同食事と支援物資がわけ隔てなく配分されていたのです。まるで中世のアジール(避難所としての聖域)の出現かと思いました。自然に役務の当番、整理整頓のルールなどが話し合われて、自由・平等・自治の<公界>が成立していたわけです。 ところが、被災からしばらくして、事態の落ち着きが見えてくると、様子に変化があらわれます。誰某は勤めに出てから、役務がおろそかだとか、支援物資の過不足が論じられるようになってきました。日常が戻って来る中で、多少の不満を抱えながらも、共同テントの中は中世のような<公界>維持の努力は最後まで続いていました。 共同テントのない個別避難の地区でも、近隣扶助は当然うまく出来ていたのですが、避難所アジールと<公界>が出現した地区とは違った状況もあることに気づきました。それは自衛隊からの炊き出し食事の共同受入を、もういらないからと打ち切る時のこと、個別避難の地区では多数決で決めました。民主的な方法のようですが、実際は高齢者世帯とか、家の被災状況で個別炊飯への復帰に困惑した世帯もあったようです。 ところが<公界>を持ったテント組では、自家炊飯が可能な世帯が出てきても、被災状況や家族構成で自家炊飯の復帰に困難な人たちの立場を基準にして、共同で、最後まで自衛隊炊き出しを受け入れ続けていました。つまり<公界>の中では、多数決とか強者の立場よりも、弱者の立場を基準とした判断が成り立っていたのです。 地域コミニュティがうまく機能していると、多数決にたよる近代民主主義の原理が一歩下がって、チョッと別の価値基準が働くのではないかと思えました。人間性が面にでることです。
三郎次さん、おはようございます。 地震直後のことはどんな小さなことでも文字にして残しておくべきだと思っていました。私は相川と役場前のことは見ていましたが、他の地区のことはほとんど知りません。三郎次さんの地区はブルーシートのテントもあったのですか?相川ではそれぞれ頑丈そうな車庫に入っていました。キャンプ用のテントを張った人もいました。相川には村のテントがありましたが避難所には使いませんでした。支援物資が来るようになってから、配給所にしました。錦鯉品評会用に役場のテントもありました。役場に無断で、天納地区に回しました。あの当時、役場でもテントは必要だったと思いますが、取りに来る人も時間もなかったと思います。 それぞれ気の合う人たちで、それぞれの車庫にまとまりました。今考えてみると、どこにも属さなかった家族がいましたね。配給にしても、ほとんどの人は遠慮深かったように記憶しています。家が全壊した人には「もっと持っていけ」と言いましたが「入れるところがない」と言われました。中には配給所に通うのを仕事にしている人もいました。目に余るので、役員で相談して「何を持っていってもいいが記帳していくように」としました。それでブレーキがかかりました。交通が回復してもティッシュ50箱などと要求する人がいました。「ホームセンターで買ってこい」と私が却下しました。それぞれの本性が丸見えになりました。
今日は相川地区住民会(総会)がありました。住民会の主な議案は決算、予算ですが、その他の部分でいい意見が出ましたので紹介します。 @相川第2地区には避難するべき広場がなかった。復興基金で広場となる公園を整備して欲しい。A今年は新築する家が多いと思うが、牛腸はなしにしよう。B先に発表された復興委員の他に若い人を登用したらどうか? A:今回の復興基金は提案型なので、いいアイディアのある方は自薦他薦を問わず、採用します。C総代に特別手当を出したらどうか? A:予算、決算は承認された後なので、次期役員さんに一任したい。 「この場で金額を決めた方がいい。」 「10万円くらいがいいと思う」拍手 「ありがとうございます」 m(_ _)m 昨年6月30日で退職以来、水害、地震で手間暇を言わずに活動してきました。仮に退職していなかったら、クビになっていたと思います。地震直後、錦鯉をかまわずに人間のことを先行させたため、100万円以上の鯉を殺しました。この際、頂けるものは全て頂戴いたします。(^_^;)
朝起きたら車庫前に50cm以上の新雪が積もっていた。この時期、これだけの雪が降るのは記憶にない。
12日に神戸市「人と防災未来センター」センター長河田惠昭(よしあき)氏の講演会があった。たいへん有意義な講演だったので、私のメモを箇条書きで紹介したい。 元通りにするのは復旧。復興は今までよりよくすること。川口町の特徴は自分の周りのことしか知らないこと。奥尻島青苗地区の復興は失敗した。マッチ箱のような家が並んでいる。容易な住宅再建と安直な復興計画。行政主導で住民不在、特に若者の意見が入っていなかった。計画に夢や希望がなかった。復旧は震災前の生活状態に戻すこと。復興は新たな生活環境を創造して楽しい町に変えること。経済基盤があることが大切。自分たちは何が必要かを考える。 神戸の場合、48,000棟の仮設が2年で卒業した。東京の大手ゼネコンが入ったため、復興資金が東京に流れた。その後地元の業者が仕事がなくなって次々に倒産した。復興資金の90%は地元に落ちるようにしなけらばならない。あせるといいものができない。情報を発信すると政策を変えられる。霞ヶ関の人たちは10年後に中山間地に人がいなくなることを心配している。復興には時間がかかる。 できなかった課題。住民と行政の対立。町づくり活動の低調。復興町づくり協議会から平常時町づくり協議会への以降の失敗。 川口町の町づくり子供や孫に誇れるような町づくり。目標は経済活動の活性化と効率化。第1に人間中心であるべきだ。経済的繁栄を目指すとともに環境保全にも配慮。ヨーロッパの先進国を見習え。 第2次配分金を地域づくりに使いたいと思うが、みなさんはどう思うか?個人に配分した方がいいか?お金をばらまくと効果がない。霞ヶ関にいる人にはわからない。はっきり言ってもらいたい。まわりの人のためにならないと税金は使えない。公的な視点で考えること。 ある人から「震災記念館を作りたいがどうか?」と質問があった。私と同僚は帰りの車の中で「バカではなかろうか」とささやいた。個人の住宅再建の業者さえ不足しているのに、どうして今箱ものを作らなければならないのか。この病気は治らないと思う。その人に仮設の住民の気持ちなどわからないと思う。
菅原さんのような意見が出るのを待っていました。 実はある人から聞いた話なんですが、川口町に進出している企業の専務さんが「川口町は宣伝費も使わないで全国的に有名になった。これを広告代に換算したらすごいものだ」とおっしゃったそうです。同じ発想ですね。でも残念ながら情報手段がないからほとんどの人が知らない。 先の河田氏の講演会でも「個人の田んぼの復旧に公的な税金を投入することはできない。しかし、今まで親戚に配っていた本物のコシヒカリを全国から訪れる人に提供するならそこに税金を投入することは理にかなっている」とおっしゃっていました。 木沢小学校の再利用も棚上げになったままです。 相川地区住民会で「相川第2地区に避難所に使えるような公園、広場がほしい」という意見が出たことは、すでに書きました。翌日役場に行く用がありました。まず建設企業課に公営住宅について申し入れしました。「先の説明会では高床式平屋という説明だった。車いすのため説明会に来られない○○さんに私が説明に行ってきた。オラ、車いすだから高床式は困ると言っていた。配慮して欲しい。ところで相川の住民会でこういう話が出たが、どう思うか?」「それこそ復興基金の趣旨にぴったりだ。でも農村公園なら農村振興課、児童公園なら生活福祉課に行ってほしい」2階の農村振興課に行って、こういう話があると言ったら「名前を防災公園にすれば、復興基金の趣旨にぴったりだ」「今日は単発のアイディアで文書にもしてこなかったけど、申込先はここでよかったのですか?」「実は役場には基金の使い道について受け付け窓口がないのだ。担当が決まっていない」 雪はすべてのものを閉じこめた反面、ゆっくりと考える時間を与えてくれました。確かに道路や農地の復興、解体家屋の運搬などの計画がじっくりと練られていたことは知っています。でも復興基金の窓口担当を指名するくらい、1分もあれば出来たはずです。要するに考えが及ばなかったということでしょう。 話は違いますが、昨夜友達と飲みながら新しい情報が入りましたので公開します。「川口町の火葬場は未だに使えないため、お葬式はすべて小千谷の火葬場とセレモニーホールでやっている。そのため地元の飲食店やお菓子屋を利用する人がほとんどいない」 広報川口を見ていると明るい話題が満載で、うまくまとめてあるなぁといつも感心していました。火葬場の問題などお葬式に立ち会った人以外は誰も知らなかったと思う
木村さん、おはようございます。あいかわらず精力的に活動されているようで、今後も活躍を期待しています。泉水仮設の結露問題は気温の上昇と共に一段落という雰囲気ですね。 今日も錦鯉の輸出のため車庫の2階に泊まっている。飛行機の都合で朝の集荷だったり、夜の集荷だったり、いろいろだ。15日は長岡、小千谷、山古志、川口、広神の生産者が泉水小学校前の集荷場に20名以上集まった。箱数は500箱だった。木村さんが期待しているネットワークがそこにある。 山古志村では現状復帰の話がでたそうだ。「100mも下に崩落した田んぼをどうして現状復帰するのか?役人はバカだ」と私の方をにらむので「だから辞めたんだよ」と切り返す。 小千谷市東山地区や長岡市蓬平地区は今でも時間制限でゲートがあるらしい。それでも錦鯉の場合、半日も前に荷造りしておくことができないので、早朝や夜の出荷ためにいろいろ知恵をしぼっているようだ。そして何より若い後継者が多いことに驚かされる。 彼らがみんな山古志村や小千谷市東山地区に帰られるように霞ヶ関の柔軟な対応に期待したい。そのためにはやっぱり、ネットワークを組んで政治を動かすしかないですよね、木村さん。
MOONさんの言いたいことは私にはよくわからないけれど、私も去年の6月までは県職員でした。高卒の中途採用の現業職では芽がでませんでした。 その反動で休日には山登りをして、ストレス解消していました。山の上では職業も肩書きも関係ない。いろんな人といろんな話をして過ごしてきました。ホームページに書きためていくうちに、写真が1,000枚を越えました。気が付いたらYahooで「魚沼の山」を検索すると、1番にかかるようになりました。でもそんなことは職場では誰も評価しません。 昨年5月に父が入院したときは、迷わず辞表をだしました。子供の教育が終わっていたので、なんとか食べていけるならもっと自分に正直に生きたいと思いました。 7月の水害の時も無我夢中で走りました。そして今回の震災。公務員時代にはなかった充実感で毎日走ってきました。こんなことのために県を退職したのではないのですが、きっと神様が私のことを試しているんだ、と思いました。この時期、私ほど自由に飛び回られる人はいなかったと思います。とりあえず退職金があったから、お金の心配もしないですみました。 やる気と能力は別の問題だと思います。自慢ですが、学生時代はあまり本を読みませんでした。社会人になってからは毎年50冊以上を自分にノルマをかけて30年近く続けてきました。その蓄えがあったからこそ、今回何の迷いもなく次々に指示が出せたと思います。加えて、今回の相川役員は最高のスタッフでした。 昔「監督がアホやから」と名言をはいた野球選手がいました。そんなときは辞めるか我慢するかしかないでしょう。私は役場職員にがんばりなさいとは言いません。今だって充分頑張っているのです。今の公務員制度とリーダーが公正な評価ができないだけなんです。今は雌伏のときだと思って、自分を磨きなさいと言いたい。 チャンスが巡ってきたとき「自分にはできません」なんて言ったらその方がみじめですよ。