人は無事、家は倒壊
相川総代 広井伸昭
その時、私は相川地区錦鯉品評会の慰労会で「日の出」の2階にいた。
乾杯と同時に下から突き上げられて飛ばされた。畳に腹這いになって何もできなかった。しばらくして女将さんが「歩いて帰ってください」と言った。ようやく何をすべきかわかった。
道路に出ると家々から人が飛び出して「どうすればいい?」と叫んでいた。「役場の広場にいけ!」と叫びながら走った。
国道を歩いているときにも大きな地震があった。自宅に帰ったら近所の人が道路に出て肩を寄せ合っていた。星が異様にきれいだった。
傾いた自宅玄関に飛び込んで相川サンウッド(公民館)の鍵を出した。サンウッドの地下室には発電機と投光器がある。まず、照明をつけた。
軽トラックで泉水小学校に行ってみた。走りながらカーラジオで情報収集した。グラウンドには多くの人が車で集まっていたが、何もなかった。教頭先生に体育館を開けるように交渉したが、広神村で体育館の屋根が落ちたという情報があって、開けてもらえなかった。
東京の親戚やまだ帰っていない息子に携帯を入れたが、通じなかった。
そのうちに東京の娘からメールが入った。直ちに返信した。
「人は無事、家は倒壊、鯉はあきらめた。親戚に連絡たのむ」
サンウッド隣の私の車庫は鉄骨造りで車3台分のスペース。落ちるものがなかったので、近所の人はそこに避難することにした。
朝になったら何が必要か考えた。水、食料、トイレ。家からコードとポンプを持ってきた。発電機からコードが届くところに井戸があった。余震のたびに水が濁ったが、この際しかたがない。
朝になってユンボを持っている人が穴を掘ってくれた。桟橋を渡し、周りをシートで囲ってトイレを作った。電気ジャーを持ち寄ってご飯を炊いた。みんなで知恵を出し合い、助け合った。
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