戦線崩壊を乗り越えて
Downfall of the Third Reichを、子供連合軍、私枢軸で。
プレイの例でもう一つ誤訳が見つかりました。
例5
● Riga のソ連軍は、自陣営が支配していないKonigsberg へ直接移動できません。
自軍が支配しているVilnius を通過してなら移動できます。
たとしても移動できません(not even passing first through a controlled area like Vilnius)
*意味が全く逆です。2つ目の例も同様です。敵に接敵していた部隊が転進して他の所を攻撃することはできませんでした。枢軸はもう少し戦い易くなるでしょう。
枢軸1940年冬は戦力増強、春には兵站を開発してフランスを降伏させます。イタリアは夏から翌冬にかけてギリシャを降伏させ、ドイツも翌冬にユーゴスラビアを降伏させました。連合軍はその間戦力増強です。
1941年春、枢軸は独ソ戦を始めるか迷いますが、戦力がまだ不十分と考え開始を夏にしました。戦車では戦闘を行わず突破包囲のみに使い、枢軸は少ない損害で国境のソ連軍を消滅させます。そして秋にはソ連第二線に歩兵で隣接し、戦車は後方に置いて冬に備えました。

1942年冬にはソ連の冬期反攻が行われますが、ドイツの備えによりそれほど大きな損害は無し。枢軸も春には攻撃を再開しますが、もうソ連の守りが厚くて大した戦果は上がりません。その間北アフリカにはアメリカ軍が上陸し、枢軸はDAKを筆頭に対応軍を送ります。
その後ソ連では一進一退を繰り返しましたが、これ以上の攻勢は無理と判断した枢軸は、1943年春に戦線を後退させました。しかしこの下げ方は甘すぎた。夏にはソ連の総攻撃が行われ、枢軸の戦線はきれいさっぱり消滅してしまいます。下がるなら国境付近まで一気に下がるべきでした。一忍可以支百勇です。一方北アフリカでは、DAKが頑強にアメリカの攻撃を撃退し続けていました。

43年秋、ドイツは残った部隊を国内に呼び戻し、僅かな部隊で戦線の再構築を始めます。そしてソ連はルーマニアへの侵攻を開始しました。1944年冬、ドイツは北方のソ連軍突出部に対して重戦車軍で反撃を成功させますが、ソ連の攻撃で南方戦線は消滅。枢軸は到底守り切れる気がしません。
春にドイツはさらに反撃するものの、片方は破れてイタリア軍と共同でぎりぎり戦線を作っている始末。ソ連は油田を制圧し、ポーランドにも侵入して来ます。そして北アフリカではアメリカ軍がようやくDAKを蹴散らし、ノルマンディーにはイギリス軍が上陸しました。
夏にはイタリアが降伏し、守りようが無くなったドイツは、戦線を国内まで後退させます。しかしこれも秋には東西南北からの攻撃で崩壊。もう45年冬の降伏は避けらないかに思えました。

しかしドイツはここで手を思いつきます。ハンブルクの戦車をルールに送り、ミュンヘンの減少歩兵をハンブルクに送ります。そしてルールでイギリス歩兵を+2で攻撃して負けなければ、各補給エリアで国民擲弾兵を動員すると、電撃戦でもミュンヘンにたどり着くのは不可能です。きっと。
そしてドイツの攻撃は成功。ドイツは冬を持ちこたえ、春にはミュンヘンが陥落して引き分けです。

枢軸の戦線は繰り返し崩壊して、その度に負けたかと思いましたが、ぎりぎり引き分けに持ち込めました。このゲームは末期に向けてドイツがいい具合に崩壊していき、やり方が分かってくるとバランスはいいようです。
またプレイ時間は9時間ほどでした。大体どのゲームも公称の2倍くらいかかるのが普通です。
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