やってはいけない
 
 ネット上でゲームのルールについて次のような疑問をたまに見かけます。 「ルールにやってはいけないと書いてないことはやっていい」のか?それとも「ルールにやっていいと書いてあること以外やってはいけない」のか?
 答えは当然後者に決まっています。もしやってはいけないと書いてないことはやっていいなんてことになったら、「気に入らないサイの目を振りなおしてはいけないと書いてないから振りなおす」とか、「禁止されていないからユニットの戦力に0を2つ書き加える」とか、全く滅茶苦茶なことがまかり通ることになります。全ての禁止事項など羅列しきれるものではありません。
 もちろんだからと言って「見てもよいと書いてないからマップもユニットも全く見られない」とか、「息をしてもいいと書いてないからゲーム中は息はできない」なんて話にはなりません。規定しなくても普通にしていることは、してもいいに決まっています。

 さて普通に考えればこれだけの当たり前すぎる話で、なぜこんなことが話題になるのか今まで不思議でした。しかし実は、言っていることは「やってはいけないと書いてないことは、何でもやっていいということにはならない」なのに、その本当の意図は「ルールでやっていいと書いてあることなのに、自分の気に入らない手を相手はやってはいけない」であるというとんでもない人がいるのではないかと、最近思い始めてます。
 例えば「どこに配置しても良いと書いてあるが、俺の歴史観からして、このような配置は許せない」とか、「どちらに移動しても良いと書いてあるが、俺の歴史観からして、敵から離れるほうへの移動は許せない」とか、「何度でも回避できると書いてあるが、俺の歴史観からして、逃げ続けるのは許せない」など。これらはどれも「やってはいけないと書いてない」ことではなく「やっていいと書いてある」ことを勝手に禁止しています。それを「「やってはいけないと書いてないことはやっていい」というのは許せない」という、内容と違うセリフで主張する人が、世の中にはいるのではないでしょうか。
 「ルールにやっていいと書いてある」ことを一方的に禁止する人、つまりルールを守る気のない人は、ゲームプレイヤーとしてはもちろん社会人としても失格です。こういう人は背景となる現実のある歴史的ゲームだけでなく、背景自体が仮想の未来戦やSFゲーム(科学考証?上おかしい)、果ては将棋(待ちゴマは卑怯だ)にさえいるかもしれません。
 他にも「世界中で俺一人だけにデザイナーが教えてくれた公式訂正ルール」なるものを持ち出すとか、自分の想定を上回る作戦は全て「ルールの穴をついた卑怯な作戦」呼ばわりするというのもありそうです。本当はルールの穴とは、それによってどちらかが一方的に有利になり対抗策がない場合や、その状況でどうすればいいか記述が無くゲームが続行不可能になるような場合を言うものです。
 幸い私の周りにそのような人はいませんが、もしそんな人がいるとこの世界に入ろうとする人を遠ざけてしまいます。相手が途中でルールを勝手に変更するゲームを、誰がやりたいと思うでしょうか。ルールを一所懸命読んで考えに考えた作戦をみな卑怯呼ばわりする相手と、誰がゲームをやりたいと思うでしょうか。
 ゲームというものは、そもそもどんなにまねしてみたところで、決して現実と同じにはなりえない仮想世界です。そしてそれを承知の上で、ルールによって作られた異世界に入って楽しむものですから、あれこれ現実と違うと文句をつけだしたらきりがありません。独りよがりな現実性を主張して一方的にルールをねじまげたりせず、ルールの変更はあくまで相手と同意の上で行うべきでしょう。ただ逆に言えば、他人同士が同意したルールでプレイしているなら、それもまた一つの仮想世界ですから、それに第三者が文句をつけるべきでもないでしょう。
 
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