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INORANが、喋らなくなった。
否。
喋らなくなったのではなくて、喋れなくなった。
声が、出なくなったのだ。
迂闊と言うべきなのだろうが、INORANの性格を考えるとなんとも「らしい」と言えてしまうような、事の経緯はざっとこのようなものだった。
自宅で飼っている猫をかまっている時に、声が出ないことに気づいて、特に喉が痛むわけでもないけれど風邪かもしれないと思って、風邪薬を飲んだりしてみたのだという。
ところが、翌日になっても声は出ない。
しまいにはマネージャーからの電話に、出るに出られずにおろおろしていて、何事かと様子を見に来たJによって、突然声が出なくなったという事態が発覚した。
原因は不明。特に風邪を引いたりして喉を痛めているわけではない。それを確認するために、わざわざ医者にも診てもらった。
「まぁ、インタビューなんかは俺らがカバーすりゃいい話だし、筆談でもどうにかなるし、コーラスはSUGIが頑張ればいいわけだし。INORANがボーカルじゃなくてよかったよね」
メンバー全員と内輪のスタッフが集まったミーティング・ルームで、うつむいたままのINORANにそう言ったのは真矢だった。
それは、その場にいた全員が思ったことでもあって。
もし、声が出なくなったのがRYUICHIだったら。そう考えることすら恐ろしい。
だが、言われたINORANは、うつむいたままだった。
結局、忙しいことに違いはないのだけれど、INORANだけリハーサル以外の仕事は休み、ということになった。
インタビューなどで詮索されたりしても、精神的な負担にしかならないだろうという、スタッフとメンバーの一致した見解からだった。
「おーはーよっ」
「……」
INORANの声が戻らないまま、一週間が過ぎた。INORANに笑顔はない。
リハーサルスタジオに入るなり、その隣のJのきつい視線も気にせずINORANに抱きついたSUGIZOは、相変わらずうつむいたままのINORANに、小さく溜息をついた。
「……ねぇ、INORAN?」
呼びかけながらINORANの正面に回って、その頬を両手で挟んで、強引に顔を上げさせる。
「……声、出ないのはさ、しょうがないよ。しょうがないけど、下向いたまんまじゃなんにも見えないよ? 声が出なくなった原因も見えないし、どうやったら声が出るようになるのかも見えないよ?」
顔を上げさせられても、視線だけがどうしても下を向いたままのINORANに、SUGIZOは小さな子供に言い聞かせるように、いつもよりゆっくりと言葉を並べてみせた。
その言葉が一つ増えていくごとに、少しずつ視線を上げて、SUGIZOが話し終えた時にようやく視線を合わせてきたINORANの瞳は、なにかに怯えるように揺れていて。
「……ね?」
INORANが無意識にやる癖を、SUGIZOはあえて真似して、かわいらしく小首をかしげてみせた。
少し間が空いて、そしてINORANが取った行動は。
(……アリガト)
唇が動いて、声帯は使えないものの、息だけで。INORANは確かにそう言った。内緒話をする時のように、SUGIZOの耳に顔を近づけて。
顔を離してまっすぐに視線を合わせてきたINORANに、SUGIZOは満面の笑顔でうなずいた。
翌日もスタジオでの作業が続いた。その休憩中。
「INORAN、ちょっとちょっと」
喫煙OKの休憩室から、真矢が顔を覗かせて手招きしていた。ちょうどINORANもその部屋に行こうとしていたところだったし、深く考えることもなく休憩室に入る。
中には真矢以外の人はいなかった。いつもなら数人がふかした煙で室内が霞んで見えるほどなのに。
真矢が無言で、自分の隣の椅子を軽く叩いた。INORANは大人しく従って、その椅子に座ってから煙草を取り出した。
「……INORANさぁ……なんで吐き出さなかったわけ?」
聞かれたINORANは、言葉の意味を把握し損ねて小首をかしげた。
「あー……だからそのー……えーと……」
問い返された真矢はしばらく言葉に悩んで、がりがりと頭を掻いてから、煙草をもみ消してうつむいたまま口を開いた。
「……声が出なくなっちまうほどの『なにか』をさ、抱え込んじまってるわけだろ? その『なにか』をさ…こんなになるより前に、なんで吐き出さなかったのかなって……悩み事ってさ、人に話すと少し楽になることあるじゃん?」
語尾を上げたのに合わせて顔を上げ、真矢はまっすぐにINORANを見つめた。
その瞳にあるのは、同情でも心配でも不安でもなく、痛みだった。
こんな事態にも落ち着いて対処しているように見えていた真矢に、実は余計な負担をかけてしまっていたのだと、INORANはようやく気づく。
声の出ないINORANとスタッフとの仲介役は、10を伝えるのに1を言えば伝わるJが務めることが多かった。
けれど、明るい話題を出したりして、INORANとJの負担を軽くしてくれていたのは、間違いなく真矢で。
それに今の今まで気づかなかった自分に、INORANは軽い自己嫌悪に陥る。
「俺たちでもオンナでも家族でも友達でもさ、誰でもいい……誰かに話してしまおうっていう気は、最初っからずーっとなかったの?」
重ねて問われて、INORANはうつむいてしまう。
話したい、話してしまいたいという気持ちは、常にあった。
そうしてしまえば少しは楽になることくらい知っていたし、そうしたかった。
けれど、忙しく動き回るメンバーに、そんなことを話して変に負担をかけたくなかった。
だから、話せなかった。話さなかった。
誰にも話さないことで、ストレスは更に溜まっていき、結果として声が出なくなって、結局周りに負担をかけてしまっているのだ。
それを真矢に責められたような気がして、INORANは顔を上げられずにいた。
真矢はそんなINORANをじっと見ていたが、やがて大きく溜息をついた。
「怒ってるんじゃねぇのよ。そこ誤解しないでくれよ? 違うんだって。今回は乗り越えられるとしてもさ、次があるかもしんねぇじゃん。もし次があった時はさ、こうやって独りで抱え込まないで、誰かにぶちまけちまえっつってんの。な?」
言葉尻に合わせて肩を叩かれて、INORANは恐る恐る顔を上げた。
目の前にある真矢の顔は、本当に怒っているわけでもなんでもなくて、INORANはようやく気づく。
真矢の瞳にある痛みは、自分が負担をかけてしまっているからではなくて、自分が周りを頼ろうとしなかったからなのだと。
『なぜ頼ってくれなかった? なぜ吐き出そうとしなかった? 俺でもよければいつでも聞いたのに』
真矢の瞳が、表情が、そう言っていた。
もしかしたら、INORANの声が出なくなるより前から、真矢はこんな表情を見せていたのかもしれない。
(……ゴメンネ。アリガトウ)
真矢の耳に顔を近づけて、INORANはそう囁いた。SUGIZOにしたのと同じように、声ではなく息だけで。
謝罪と感謝と、真矢には両方言わなければいけないと思ったから。
真矢は照れたように笑って、立ち上がった。
「ま、次なんてあって欲しくないけどさ。もしあったら、な?」
それだけ言って、休憩室を出ていった真矢の表情に、もう痛みという名の翳りはなかった。