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この店を気に入ったのだと、INORANがJに話したのは、だいぶ前だったはず。
なのに、スタジオでの作業を終えた途端「メシ食いに行こうぜ」と誘い出してくれたJは、INORANが気に入っているこの店に連れて来てくれた。
中学からの付き合いは伊達じゃない。こんな時にふと、それを実感する。
INORANの声は、まだ戻らない。声が出ないことに周りの方が慣れてきて、大半の会話は筆談と手振りくらいで成立するようになっていたけれど。
声が出なくなるより少し前から見られなくなったINORANの笑顔も、まだ戻らない。
INORANの分まで適当にオーダーしたJが、ウェイターがテーブルを離れてから口を開いた。
「あれでよかった?」
オーダーしてしまってから聞くことではないと思うのだが、完全にとは言えないまでもINORANの好みをちゃんと把握しているJが、INORANの苦手なものをオーダーするはずもない。
INORANは軽くうなずいてから煙草を取り出した。すでに自分の煙草に火をつけていたJが、絶妙のタイミングで火を差し出してくれる。
料理が運ばれてきて、それを綺麗にふたつの胃袋に入れて、その店を出て、車に乗り込んで、INORANの家に着くまで。
Jは一言も喋らなかった。INORANも、Jに呼びかけることはしなかった。
それでよかった。
自宅のマンションの前で車を停めてもらったINORANは、降りる前にJの耳元に顔を寄せた。
(……アリガト)
今日の食事はJのおごりだったし、スタジオを出てからここまで運転手はずっとJだった。
けれど、INORANはそれだけのことに礼を言ったつもりはなくて。
車を降りてから運転席側を覗き込むと、Jは不敵な、それでいて子供のような笑顔を見せた。
「このくらいでよければいつでも付き合うぜ? あ、でも、いつも俺のおごりってわけじゃないからな?」
そんなことを言うJが、実は自分をもの凄く心配して、気晴らしに連れ出してくれたのだということを、INORANはちゃんとわかっている。
その分まで礼を言ったつもりだった。
そしてJはたぶん、INORANが礼の言葉に込めた全部の意味を、ちゃんとわかっている。
わかっていてこんなことを言うのは、Jの照れ隠しみたいなものなのだろう。
それもわかるからINORANは、久しぶりに小さく笑って、助手席側のドアを閉めた。
INORANの声が出なくなって2週間ほど経ったある日の、仕事が終わった直後。
INORANは誘われるままにRYUICHIの車に乗り込んだ。
「海行くんだけど、一緒に行かない?」
RYUICHIの言葉にINORANがうなずいたのは、ただの気まぐれだった。
夜半過ぎ、海へ向かう車の中、RYUICHIは一言も喋らなかった。少しアクセルを踏み込めばかき消されるくらいのボリュームで、ビートルズのCDがエンドレスで流れるだけ。
声が出なくなるより少し前から、ストレスでも溜まっていたのか、妙に眠りが浅かったINORANにとって、それは格好の催眠剤になった。
目を覚ましたことで自分がまどろんでいたことを知ったINORANが身体を起こすと、車はどこかの海岸に駐まっていて、隣にいたはずのRYUICHIはいなかった。
車の中から外を見回すと、すぐそばのガードレールに寄りかかって立つRYUICHIの背中が見えて、INORANはドアを開けた。自分の身体に掛けられていたジャケットはRYUICHIのもので、それを手に持って車を降りる。
空はもう闇を脱ぎ捨てて、仄かに白く染まっていた。
太陽はまだ顔を覗かせていなかったが、冷えて湿っているのに清々しい空気は、紛れもない朝の訪れを意味している。
「おはよ」
INORANがドアを開けた音で振り返ったRYUICHIが、柔らかく微笑んでそう言った。
時間の感覚が失くなるスタジオでいつも言われるのと同じ言葉を、朝の空気の中で言われるのが、なんだか不思議だった。
「それ、着てなよ。寒いでしょ? 俺は慣れてるから平気だけど」
RYUICHIに返そうと差し出したジャケットを、軽く押し返しながら言われて、INORANは大人しくそれを羽織った。RYUICHIの隣に並んで立ち、海を見下ろす。
波は穏やかだった。
『海はすべての生命の根源。すべての生命は水から生まれたんだよ』
そんなことをSUGIZOが話してくれたのは、いつのことだったろうか。
はっきりとはわからないけれど、INORANはその時のSUGIZOの口調や表情を思い出すことができた。
SUGIZOが話してくれたことを思い出したせいか、静かに寄せては返す波を見ているだけで、ほんの小さなきっかけでも波立つようになってしまった心が、少しずつ落ち着いていく。
軽く息をついてINORANが顔を上げると、自分の様子を見ていたらしいRYUICHIと目が合った。
RYUICHIは、まばたきもせずにじっとINORANを見つめたまま、口を開いた。
「ねぇ、INORAN。声がなくたって、人は人とコミュニケーションを取れるよね。筆談でも手話でも、手段はあるよね」
今のINORANに「声」や「言葉」の話は、正直きつい。そういう話になると、自己嫌悪に陥るINORANは、唇を引き結んでうつむいてしまう。
けれど、RYUICHIの口調に自分を責める雰囲気が欠片もないのを感じ取って、INORANは怯えかけた心を自分の中で支えて、RYUICHIの言葉を待った。
RYUICHIは、INORANの瞳に怯えも戸惑いもないことを見て取って、言葉を紡ぎ出した。
「でもね、声じゃなきゃわからないことがあるんだよ。例えば、文字だけで相手をからかおうと思っても、笑いながら軽く言う感じって、文字だけじゃ伝わりきらないと思う。文字だけしか相手に伝わらない時はどうすればいい? 相手は、からかわれてるんじゃなくて本気でこっちがそう思ってるって取ってしまうかもしれない。文字を手書きしてる時に相手が目の前にいてくれたら、表情で語ることもできる。でも、そうじゃない場合は?」
答えを求めているようで、そうではない口調。RYUICHIはあくまでも穏やかに言葉を紡ぐ。
「声じゃなきゃ伝わらない。口から発したリアルタイムの言葉じゃなきゃ伝わらない。そういうことって、まだまだたくさんあると思うんだ」
RYUICHIはいつの間にか、INORANから視線を外して、不規則に打ち寄せる波を見つめていた。
けれど、RYUICHIの気持ちまでが海に向けられているわけではない。隣に立っているからこそ、RYUICHIの気持ちが自分に向けられているのを、INORANは感じ取ることができた。
「それに、INORANにしか言えないことっていうのも、多いはずだよね。INORANの声で、INORANの言葉でなきゃ伝わらないもの。INORANの気持ちって、そういうものだよね。誰かにINORANの思ってることを伝えようと思ったら、INORANの言葉じゃなきゃ届かない。伝わらない。それは誰だって同じことだけど」
そこまで言って、RYUICHIは視線だけでなく身体ごとINORANに向き直った。
深く澄んだ瞳が、まっすぐに自分を見つめている。
思わず視線を合わせてしまったINORANは、まばたきすらできずに、ただRYUICHIの視線を受け止めることしかできなかった。
「だからね、『話す』ことを怖がらないで」
怖がっている。
RYUICHIが言ったその言葉の意味を理解した瞬間、INORANの中でなにかが動いた。
心の一番深いところにあるなにかが、確かに。
「INORANは怖がってるんだよ。自分の考えてることをちゃんと人に伝えられるかどうかを。でも、それで声を出さなくなっちゃうのは、逃げてることにしかならないよ」
RYUICHIの口調には、INORANを責める感じはまったくない。
真摯に、不器用にさえ思えるくらいまっすぐに、INORANの心まで届くように。
そんな口調だからこそ、届いてくる。
心の一番奥の、一番大切な、けれどINORAN自身すら気づかなかった場所まで。
凍りつかせてしまった、嘘偽りのない真実が眠る場所まで。
「逃げないで。ちゃんと伝えようって思うなら、人と本音で話したいっていう気持ちがあるなら、逃げちゃダメだよ。INORANにしか言えないことを、他の誰も言えないんだから。INORANにしか言えないんだから」
言い募るRYUICHIの方が、泣きそうな顔をしている。
だから、わかる。
今RYUICHIが言ったことを、文字だけで見たら、たぶんINORANは傷ついた。
けれど、表情が、口調が、言葉と一緒になって混ざり合って、RYUICHIの想いを伝えてくれる。
心の底から、本当にINORANを心配しているのだと、わかる。
(…………)
言いたいことは、たくさんあるような気がした。けれど、なにも言わなくても伝わるような気もした。
だからINORANは、黙って小さくうなずいた。
それを見たRYUICHIが、安心したように微笑んだ。
二人の視界の隅で、新しい日が始まりを告げた。