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それから数日を経て、出なくなった時と同じように唐突に、INORANの声は戻った。
これまた自宅で猫をかまっている時に、声が出るようになっていることに気づいた、というのは後でINORAN自身が話したこと。
自ら電話してまずマネージャーを驚かせ、次いでメンバーにも順番に電話して驚かせて、INORANはその都度、声を上げて笑った。
「ま、結果オーライってとこかな。よかったね。原因がわかんないまんまってのが引っかかるけど」
「うん。でも、なんとなくわかる気もしないでもないけど」
「そうなの? まぁ、INORAN自身が把握してりゃあ大丈夫か」
「うん。そうだと思う。っていうか、大丈夫なようにする」
「今度お前のおごりな」
「……一回だけね」
スタジオのミーティング・ルームでそんな言葉を交わしているところへ、遅れてきたRYUICHIが顔を出した。
振り返ったINORANと目が合うと、満面の笑顔で歩み寄ってくる。
「おはよ」
「……おはよ」
INORANがなんとなく小声で挨拶を返すと、RYUICHIはいきなりINORANにしがみついてきた。
「ちょっ、なに?」
INORANが慌てても動じることなく、RYUICHIはしっかりとINORANの背中にしがみついて、肩口に顔を埋めた。
「……よかった」
小さな小さな声で囁かれた言葉はきっと、他のメンバーには聞こえなかっただろう。INORANの耳にだけ入った言葉。
その声で、言葉で、口調で、わかってしまう。
RYUICHIは、文字通り心の底からINORANを心配していたのだと。
この一言がなければきっと、INORANは一生気づかなかっただろう。
言葉にされたからこそ、わかること。
「……うん。ありがと」
INORANは小さな小さな声で、顔を上げないRYUICHIにだけ聞こえるように囁いた。
弾かれたように顔を上げたRYUICHIに、INORANが向けた笑顔に、曇りはなかった。
「よく、わかったね。俺が怖がってるんだって。俺自身でさえわかってなかったのに」
その日、スタジオから自宅まで送ってくれるというRYUICHIの車に乗り込んだINORANは、少し走った頃にそう言った。
RYUICHIに指摘されるまで気づかなかった自分の情けなさには目を瞑って、RYUICHIがなぜそこに気づいたのか、それを聞いてみたかった。
「うん……なんとなく、なんだけどね。根拠はなかったけど、強いて言えば、アレかな」
前の車のテールランプをじっと見つめながらハンドルを切り、RYUICHIは特になんの感情もこもらない声で言う。
「アレ、って……なに?」
赤信号で停止してから、RYUICHIはINORANの方を向いて、その質問に答えた。
「声が出なくなるちょっと前から、INORAN、人の目を見ないまま話すようになってたよ。自分で気づかなかった?」
「……うん……」
そんなことに気を回す余裕が、その頃のINORANにはなかった。
「この前は『言葉じゃなきゃ伝わらないものがまだたくさんある』って言ったけど、言葉じゃないからこそ伝わるものもあると思う。INORANって、普段なら人の目をけっこうじーっと見て話すことあるから、逆に気になったんだ」
信号が変わって滑らかにスタートを切ってから、RYUICHIはそんなことを言った。
「しばらく前のINORANは、間違いなく人を避けたがってたんだと思う。人と話すことを、かな。でも、話さなきゃいけないことが多すぎる……疲れてたのかな?」
「……人と話すことに?」
聞き返すと、RYUICHIは無言でうなずいた。
「……わからない……」
INORANにはそうとしか答えられなかった。
声が出なくなった原因を、自分でわかっていたわけではない。RYUICHIに言われるまで気づかなかったのだから。
人と話すことに疲れていたから、話すことから逃れるために声を失くした?
自覚があってやったことではないから、わからないとしか言えない。
RYUICHIはまっすぐに前を見つめたまま、また口を開いた。
「INORANがインタビュー受けてる時によく思ったんだけど、INORANはさ、言葉数が少ないじゃない? 数が少ないのに、本音じゃない言葉で埋め尽くすっていうのは、けっこう苦痛なんじゃないかなって思ったんだけど……」
「べつに、建前ばっかり並べてたつもりもないけど……」
ただ、誰にでもわかる言葉を選ぼうという気は、あったかもしれない。文字だけしか伝わらない雑誌などのインタビューの時は、特に。
「うん。ただ、建前がゼロだったわけでもないよね?」
その問いにINORANは、うなずくしかなかった。
「本音を言葉にして、それが相手にどう受け取られるかっていうのを、いつも考えてるんじゃない?」
「……うん……それは、すごく……ううん」
重ねて問われて、INORANは言い淀んで、そして。
「それが……怖い……」
怖い。
それこそが、INORANの本心だった。
言葉にしてみて初めて、INORAN自身が自覚したこと。
「……そうだよね。俺も怖いよ。『自分が思ってるのと違う受け取り方をされたら』って思うと、怖い。でも、怖がって逃げ回ってばかりじゃ、いつまで経っても建前並べるしかない」
怖い。
INORANと同じ言葉を口にしながら、RYUICHIが怖がっているようには、INORANには思えなかった。
それは、RYUICHIが逃げ回っていないからなのだろう。
「だけどそれは、少なくとも俺は、いやなんだ。すごくいやなんだ」
また赤信号で停止する。ギアをニュートラルに入れて、RYUICHIは上半身ごとINORANに向き直った。
その視線が痛くて、責められているのではないとわかっていても、INORANはうつむき、視線をそらしてしまう。けれどRYUICHIはそんなことにかまわなかった。
「逃げ回って建前並べ続けるくらいなら、自分が狙ったところと近いところで相手が俺の言葉を受け止めてくれるまで、どんなに時間と言葉を費やしても本音を並べ続ける。俺なら、そうする」
RYUICHIは強い。
強いから、そうすることができる。言ったことを実践できる。
けれど、自分は?
「……みんながみんな、RYUちゃんみたいに強いわけじゃないよ……」
それが、自問したINORANが出した答えだった。
「うん。でもね、一緒にバンドやってるからこそ、逃げてほしくない」
RYUICHIの言葉にはそれでも、INORANの弱さを責める雰囲気がない。
INORANが「言葉」を怖がらないように、ちゃんと自分の考えていることがINORANに伝わるように。
そう思っているのがわかるような、真剣な、けれど温かみのある口調。
言葉だけでは、伝わらないもの。
「俺たちがやってるのは、音楽だよね。だからホントは、『音』を聴いて全部わかってもらえたら、一番いいんだよね」
それはINORANが常々考えていたことでもあった。
なぜ、インタビューで「音」を「言葉」にしなければ伝わらないのか?
その疑問がいつも、頭の片隅に巣食っていた。けれど、答えが出せないまま、インタビューの回数だけが増えていた。
そのことを言う前に、RYUICHIが車をスタートさせた。
「『音』を『言葉』で表そうっていうのがそもそも大変なんだよ。だから俺も、インタビューって得意ではないよ」
INORANが考えていたのと同じことを、RYUICHIは言う。
自分だけではなかったのだと安堵する反面、この後なにを言われるのか、INORANは少しだけ不安になる。
RYUICHIはそんなINORANに目を向けることなく、静かに言葉を紡いだ。
「だけど、『言葉』だからこそ伝わることもあるよね。ラジオとかテレビだったら『声』や『表情』で伝わることもあるよね。でも、雑誌だったら文字っていう形の『言葉』しかない。『言葉』だけで不特定多数の人になにかを伝えようと思ったら、ある程度以上の本音を『言葉』にする必要があるんじゃないかな」
INORANに、答える言葉はなかった。
RYUICHIの言葉はどれもその通りで、否定などしてみようもない。
その言葉はもしかしたら、RYUICHIの経験から来た言葉なのかもしれなくて。
「例えばね、インタビュアーには伝わらなかったとしても、それが雑誌のページを埋め尽くす文字で表された時、それを見た誰かならわかってくれるかもしれない。俺はそう思って、本音を『言葉』にしてるつもりなんだけど」
経験から来るのでなくて、どうしてこんなに説得力のある「言葉」になるだろう。
INORANはRYUICHIの声を聞きながら、RYUICHIの経験を思った。
RYUICHIにも、自分と同じようなことに思い悩んだ時期があったのだろうか?
車はいつの間にか大通りを外れて、住宅地に入っていた。少し間を置いて、RYUICHIはまた口を開く。
「それにね、本音で話さなきゃいけない時ってあると思う。少なくとも……うん、最低限でも、俺たち4人には、本音でぶつかってきてほしいし、俺たちの本音も受け止めてほしい」
メンバーの本音。
その言葉に、INORANはかすかな違和感を持った。
正確には、その言葉で思い浮かぶことがない、自分に。
自分は、メンバーの本音と建前を区別できていただろうか?
答えはたぶん否だろう。自分の本音と建前さえ曖昧になってしまうことがあるのに、同じバンドのメンバーとは言え赤の他人のそれが、区別できようはずがない。
まして、少し前までの自分に、できるわけがない。
メンバーの本音を受け止めるどころか、メンバーの本音を把握すらしていなかった。その事実に、INORANはまた軽い自己嫌悪に陥る。
INORANがなにも言わないのを気にしているのかいないのか、RYUICHIは声の調子を変えずに先を続ける。
「それからね、INORAN。大事なこと忘れてる」
「……大事な、こと?」
なんのことなのか見当もつかないINORANは、いつもの癖で小首を傾げてRYUICHIを見る。
RYUICHIは、車に乗り込んでから初めて、悪戯な笑顔を見せた。
「音で嘘はつけないでしょ。建前の音なんか出せないし、もし出せたとしても、俺たち5人の音の中でそれだけが浮いちゃう。そうでしょ?」
それはもう間違いなくその通りで反論の余地もないことだけれど、RYUICHIの口調と表情がなんとも楽しそうで、INORANはついつられて笑ってしまう。
一緒に声を上げて笑いながら、RYUICHIは車を停めた。サイドブレーキを引いてハザードランプをつける。いつの間にか、INORANの家に着いていた。
「建前並べるのが苦痛なら、インタビューなんか受けなくてもいいよ。音を出す時だけ、本音でぶつかってきてくれたら、俺はそれでいい」
笑うのをやめて表情を改め、真剣に、けれど重々しくならないように、RYUICHIはそう言った。
INORANは少しの間、RYUICHIのまっすぐな視線に向き合って、じっとその瞳を見つめていた。
そして。
「……ありがと……でもね、やっぱり俺、話すよ。言葉じゃなきゃ伝わらないこと、俺にしか言えないことがあるって、RYUちゃんが教えてくれたから。俺にしか言えないことだけは、ちゃんと話す」
RYUICHIの瞳から視線をそらすことなく、INORANはそう言った。
その瞬間こそが、INORANが自分の弱さを認め、「言葉」への恐怖を乗り越えた瞬間だった。
その後、INORANが声を失うことはなかった。