抱き合うのは久しぶりだった。半年振り、もしかしたらもう少し長い間、抱き合うどころか触れ合うことすらなかった。
常日頃からべたべたとじゃれ合うような仲ではない。
抱き合うのはいつも、レコーディングやツアーの後だった。だから、だいたい数ヶ月間が空くのが普通で。
二人ともちゃんと決まった相手がいるし、その女性をちゃんと愛している。性欲処理と「愛」という名の甘ったるい感情の確認を兼ねて抱き合う相手は一人でよかったし、その女性との都合がつかないのを理由に知らない女を誘ったり、女の誘いに乗ったことだってあった。だから性欲処理に困ったことはなくて。
なのに、男同士で抱き合うことがある。
時折そういう時間を持たないと、互いの間にあるはずの絆という名のなにかが壊れてしまいそうで。だから。
「……っ……、ジェ……や、ぁ……」
「……さっきからうるせぇよ、お前……」
「んっ! っあ、……だ、って」
「うるせぇって……黙ってろよ」
「や、やだ……、ぅあ……!」
「なにが嫌なんだよ……言えよ、ちゃんと……聞いてるから」
そんなことを耳元で囁かれても、耳元で揺れる空気に呼び起こされる快感が辛いだけで。INORANは小さく頭を振って、せめてJの吐息からだけでも逃れようとした。
J vs zilchという形で始まったイベントの、初めてのツアーの追加公演。大騒ぎで終わったそのステージをJが降りてから、まだ三時間も経っていない。
打ち上げを早々に抜け出した二人は、ライヴの日程が決まると同時に押さえていたホテルの一室にいた。久しぶりに抱き合う、そのためだけに。
けれど、軽くシャワーを浴びただけでまだ汗ばんでいるJの腕に抱き込まれることを、INORANは拒んだ。Jは気にすることなくINORANの肩をベッドに縫いつけて、気が急いているのか少し乱暴な愛撫をしてきたけれど、INORANはそのすべてを嫌がった。
嫌なのは、久しぶりに抱き合うことではない。そんなことだったらINORANはこの部屋に来なかったし、ライヴにも顔を出さなかっただろう。
抱き合うことが嫌なわけではない。ちゃんと理由があって一時的にJを拒んでいるだけなのだけれど、その理由を口にする余裕が、今のINORANにはない。
懸命に腕を突っ張ってJの胸板を押し返す。Jの、むせ返るような汗の臭いが、INORANの神経に嫌な刺激ばかりを与えてくる。
本気でINORANが嫌がっているのだとわかったらしいJは、わずかに眉根を寄せて身体を起こした。ベッドの上に座って、ナイトテーブルの煙草に手を伸ばす。
Jが幾度か紫煙を吐く間に呼吸を整えたINORANは、ゆっくりと身体を起こしてJに擦り寄った。
煙草を持つJの右手を避けて、ベースの弦を押さえる左手を自分の両手で包み込む。自分の手からはみ出した、鉄の匂いの残るJの左手の指先を、INORANは殊更ゆっくりと舐め上げた。爪の形を舌先でたどってから、硬い指の腹を歯でそっと挟み、甘く噛む。
INORANがJの親指以外の四本全部の指先を唾液で濡らした頃、じっとINORANを見つめていたJが、右手の煙草をもみ消した。
ゆっくりとINORANの手から自分の左手を抜き取り、唾液に濡れたその指先でINORANの頬に触れてくる。ひんやりとした四本の軌跡を残して指先が離れると、熱を含んだ柔らかな肉塊の感触がその軌跡をたどった。
頬を舐め上げられる間にも、髪を撫でられ、背に回された腕に触れるか触れないかの距離で煽られ、ゆるやかに熱は上昇していく。
嫌なわけじゃない。抱き合うのが嫌なわけじゃない。
それだけを伝えたくてINORANはJに触れ、Jも返事の代わりにINORANに愛撫を返す。なにも言わなくてもそこまでは通じ合える。
ただ。
「……言えよ。なにが嫌だって?」
そこから先は言葉でなければ伝わらない。
頬からこめかみへ上がり、目元から唇へ降りた舌先での愛撫の最後に、Jはそんな言葉を落とす。ちゃんと聞いてるから。そう言った手前、このままもう一度INORANを押し倒すつもりはないらしい。
そういう律儀なところがJらしいと、心の中で小さく笑って、INORANは軽く溜息をついた。熱を少し逃がさないと、言葉がうまく繋げられない気がした。
ああ、この先に続く言葉はきっと、Jを少し落ち込ませてしまう。ぼんやりとそう考えながら、INORANは次の言葉を選ぶ。言うべきことをきちんと言わないと怒るし、嫌なことをきちんと言えば改善しようとしてくれる。Jはそういう男だから。
「……Jの匂いがしない」
「俺の?」
「そう……他の人と一緒にステージに立って汗かいたせいだろうけど、JからJの匂いがしないから……だから」
「……他のヤツみたいで嫌なんだ?」
本当は、少し違う。けれどそれを上手く説明できる自信がなくて、小さくうなずいてみせたINORANに、Jは煙草を持っていた右手の指先で触れてきた。耳をかすめて、こめかみから頬を通って、首筋を滑り降りて、うなじに絡む後ろ髪で遊ぶ。右手に染みついた、吸ったばかりの煙草の匂いは間違いなくJのそれで、INORANは途端に安心する。
Jに抱かれている時に、他の存在を思い知らせてくれるような匂いなど感じ取りたくなかった。
例えばJが吸っているものとは違う煙草の匂い。
例えばJが滅多に飲まない種類の酒の匂い。
例えばJがつけるはずもない種類の香水の匂い。
例えばJが漂わせるはずもない他人の身体の匂い。
そういったものは全て、抱かれているINORANを虚しくさせるだけのもので。だから嫌だった。だから今のJにはまだ、抱かれたくなかった。
抱き合う時だけは、JはINORANのものだったから。他のどんなことも考えなくていいようにさせてくれるのがJで。そのJが誰かのものであることなど、抱かれている間だけは考えたくなかった。
本当は、Jは他の誰のものでもない、J自身のものだとわかっている。誰かに、なにかに束縛されることを甘んじて受け入れるような男ではない。そんなことはINORANもよくわかっている。
けれど、一緒に隣を走っている者がいるのなら、今のJはその誰かと同じ時間を共有するべきであって。
束縛されるのではなく、J自らが望んで共に走っている者がいるのなら、今のJの時間はINORANと共有するべきものではないはずで。
それでも。
抱き合うために扉を閉ざした部屋に二人きりでいる時くらいは、Jの隣を走る誰かのことを考えなくていいように、Jの匂いだけ感じていたかった。
「……シャワー浴びてくる」
INORANの髪を一房手にとって小さく口づけると、Jは立ち上がってベッドルームを出て行った。
Jが動かした空気がゆらりと流れた。INORANの鼻先まで漂ってきたそれはまだ、Jと誰かの匂いが混ざっていた。