導火線に火をつけろ!






「くすぐったいって……」
「だめ。俺がいいって言うまでだめ」
「はいはい」
 広いバスルームに響く小さな笑い声。Jの苦笑いとINORANの楽しそうな笑い声とが混ざって、換気口に吸い上げられる蒸気に紛れて消えていく。
 Jが全身を洗い終えた頃に乱入してきたINORANが、自分と入れ替わりにシャワーを浴びるつもりなのだろうとJは思った。ところが、INORANはJがバスルームを出るのを許さなかったのだ。
 その結果。
「だーかーら、くすぐってえって言ってんだろうが! 俺で遊ぶのいー加減やめろよ!」
「やだ。楽しいんだもん」
「んなこと言ってると後でいじめんぞ?」
「それはもっと嫌だなぁ……」
 Jの全身をもう一度、今度は自分の手で洗うことにしたINORANが、Jの身体のあちこちをくすぐっては遊ぶという光景が展開されている。
 つい先刻までの甘く濡れた空気は跡形もない。まるで幼い子供が初めて親の手を借りずに入浴しているかのような、そんな戯れ方。
 殊に、INORANの機嫌の良さは滅多にないほどのもので。そんなに他人の匂いがするのが嫌だったのかと、Jは心の奥で溜息をつく。
 それほどのINORANの嫉妬心が、嬉しいと思う反面、心配でもあった。
 自分たちの関係をこれ以上深くすることを、INORANもJ自身も避けてきた。なんとなく、でしかなかったけれど、この関係にいわゆる恋愛感情を持ち込むことは、しない方が互いのためだと思ってきた。そういった感情は、それぞれ特定の女性に対して持つべきものであって、いくら付き合いが長いとは言え昔馴染みの親友に抱くべき感情ではない。二人ともそう思っていた。思っていたはずだった。
 けれど、今日のINORANはなにかが違っていた。嫉妬心を剥き出しにしている自覚などINORANにはないだろうが、Jに言わせればかつてないほどはっきりと、Jの周りの他人に対して嫉妬している。
 その嫉妬心が、それ以上の感情を呼び覚ましてしまうのではないか。
 二人で長年バランスを保ってきたこの関係が、これを機に崩れてしまうのではないか。
 そんな気がしてならなかった。
 今だって、INORANはJが本来持っていない匂いをすべて落とそうとするかのように、しつこいくらいに髪や身体を洗い続けている。髪なんてJ自身が洗ったのも含めればこれで三度目。ただでさえ普段から健康とは言えない髪が傷んでしまうし、身体の方もバスタブに浸かりっ放しでのぼせかけているので、そろそろ終わりにしてほしいと思う。なのに、INORANの手は止まらない。
「……指ふやけてきた」
「え、うそ」
「マジ。ほら」
 本当にふやけてしまっている左手の指先をINORANの眼前に差し出して、Jは苦笑い。ほんの数時間前までベースの弦を押さえていたのだから、いつもならたったこれだけの時間で柔らかくなるはずもない。硬さを残したまま朝を迎えるのが当たり前だというのに、Jにしては長い入浴に、指先はすっかり硬度をなくしてしまっている。
「そろそろ終わりにしてよ。のぼせちまう」
 Jの言葉にINORANは渋々ながらうなずいて、Jの髪に残る泡をシャワーで流した。髪を長く伸ばしていた頃が嘘のように、泡はすぐにJの髪から離れて、排水溝へ吸い込まれた。
「INORAN、まだ入ってる?」
 顔に伝った湯を腕で乱暴に拭って目を開けて、Jはバスタブに浸かったままのINORANを振り返った。普段からシャワーだけで充分なJとは正反対に、INORANは割と長風呂派である。
「んー……もうちょっと」
「のぼせんなよ」
 案の定なINORANの答えに、Jはそう言い置いてバスルームを出た。INORANが使うシャワーの音が、なぜか楽しそうに聴こえた。





 再びベッドに倒れこんで、今度はバスルームでしていたように互いの身体に触れ合って遊ぶ。
 火照った肌の温度を計るように身体中に触れて、軽いキスを幾つも交わす。
 なのに。
「……ぁ……ふ……」
「…………………………それが喘ぎ声だったらかわいいのに」
「んー……っるさいなぁ……」
 合間にINORANが、噛み殺すつもりもないらしい欠伸を連発するものだから、セックスの前戯のつもりがただのスキンシップにとどまってしまう。
「なんでそんなに眠いんだよ?」
「んん……? わっかんないぃ……」
 Jからのキスを受け止めて気持ち良さそうに小さな欠伸をしたINORANは、そのままうっとりと目を閉じた。これはもう完璧に寝る態勢。
 こうなってしまったINORANを止められるのが、時と場合を選ばずINORANの中に浮かんでくる音だけだと、Jは知っている。JではINORANを現実に引き止めておけないのだ。
「……しょーがねぇなぁ……」
 溜息を苦笑いにすり替えて、JはINORANを抱き込んだまま身体を横に倒した。横向きに抱き合って、ちょっとだけ仕返し、とINORANの額に自分のそれを軽くぶつける。痛みを感じるほど強くぶつけたわけではないが、ぶつけられたINORANは痛そうに額をさすっていた。
「なぁんだよー……かわいー」
 かと思うと突然こんなことを言い出す。
「その脈絡の無さはなんなんだ……」
「ちゃぁんとあるじゃん、脈絡ぅー」
 言葉がいちいち間延びするのは意識が飛びかけている証拠なのだが、意識を飛ばしかけている本人がそれに気づくはずもない。
「へぇ? 説明してみてよ」
「だからー…………………………」
 そこまで言って、INORANはぱたりと喋るのをやめてしまった。
「……INORAN?」
 訝しげに声をかけたJを無視して、INORANは眉間に薄く縦ジワを刻んで考え込む。
 もしかしてまさかとは思うけどこれはあのパターンだろうか、とJが内心で溜息をつきかけた時、INORANが目を上げた。
「…………………………なんだっけ?」
 案の定、である。Jの溜息は内心に収まりきらずに口からこぼれ落ちて、INORANの前髪を揺らした。
「も、いーよ。寝ろ」
「ん……」
 INORANが眠りに落ちたのは、わずか数分後のことだった。
 Jの溜息がまた前髪を揺らしたことにも気づかず、INORANは幸せそうに眠っている。
 ちなみにINORANの腕はしっかりとJの首に回されたままだった。従ってJは、色々な意味で昂ぶってしまった身体と心と意識を紛らわすために一服することすらできずに夜を明かすハメになった。








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