「J、ちょっと手ぇかして」
背を向けていたINORANが急に振り向いてそう言った。
人気のない控え室。無造作に置かれた椅子をニ脚使って半ば寝そべるように座り、見るともなく雑誌を見ていたJには、意味がわからなかった。
ドアを開ければその向こうでは他のメンバーの撮影やらインタビューやらが進んでいる。スタッフが駆け回る音も時折聞こえたが、順番待ちで暇を持て余している二人を呼びに来る者はまだいない。
「いーから。手。どっちでもいいよ」
窓際に椅子を寄せてこちらに背を向けていたINORANが、立ち上がって歩み寄ってくる。
その背後に、白っぽく景色を霞ませる冷たい雨が見えた。
「手? はい」
どっちでもいいと言われたので、Jは煙草を指に挟んだ右手ではなく前髪をかき上げた左手を差し出した。
二人の間に位置していたテーブルに上体を乗り上げるようにして、INORANが伸ばしてくるのは右手。
Jが手のひらを上に差し出した左手はくるりとひねられ、指が上になるように手のひらをINORANに向けさせられた。
その状態で止められたJの左手に、INORANの右手がぴたりと重ねられる。手のひらと手のひらを合わせて、互いに指をぴんと伸ばして。
わずかに熱を孕んだその温かさを不意に意識してしまって、Jはなんとなく息を詰めてしまう。
INORANはそのまま動かない。じっと重ねた手を見ているだけ。
その向こうで、雨は軽い音を立てて降り続いている。12月の冷たく強い風に煽られて、部屋の中へ吹き込んでくる雫もある。
寒いから閉めてくれと頼んでも頼んでも、INORANが開け放したままにしていた窓から見える、四角い空。
雲に色はなく、霞のような雨が距離感を失わせる。東京の冬にはあまり多くない、色のない空。すべてのものを、ない色の向こうに閉じ込めたような、理由のない寂寥感が漂う。
世界中でこの部屋だけ取り残されたような感覚の中、二人は手を重ねたまま動かずにいた。
Jの視界の一番手前で、姿勢を変えないままゆっくりと呼吸すること数回。INORANが突然、大きく息を吐いてうなだれた。
「……一関節分も違う……」
溜息に続けて落とされたINORANの言葉はそんなものだったりして。Jは動かすに動かせなかった左手のことも忘れてその意味を考える。
手の大きさ、特に指の長さが、INORANとJとではかなり違う。INORANが何故急にそれを確認しようとしたのかはわからないが、なんとなく気になったとか、大方そんなところだろう。
重ねた手を見上げては溜息をついてうつむくのを、飽きもせずに繰り返すINORANに、効果なしと知りつつJは口を開く。
「デカきゃいいってもんでもないじゃん」
実際そうなのだ。デカいだけで役に立たない手だってある。デカさがマイナスポイントになることだってよくある。
Jはむしろ、細めだけれど骨がしっかりしていて必要な筋肉だけで構成されてる割にごつごつしていないINORANの手の方が羨ましい。学生時代からずっと、指の細さや指先の動きの細やかさに密かに嫉妬していたりもしたのだ。なによりJが羨んだのは、ギターの弦交換が容易だということ。Jの指ではゴツ過ぎて、細かい作業がうまくいかないことも多かったのだ。
それなのに。
「ギター弾くには俺の手じゃ小さいよ」
「でも弾けるじゃん」
「かろうじてね」
INORANはやっぱり恨めしそうな顔でJと自身の手を見比べては溜息を落としている。
確かに、INORANの手では少し小さい気もする。ギターを覚え始めた頃のINORANには、指の長さや手の幅が足りなくて押さえられないコードが山のようにあった。それも現在は、モニター契約しているメーカーの尽力でINORANの手に合ったパーツがギターに使われているから、基本的には問題ない。INORANの指が柔らかく動くようになったせいでもあるだろう。ただし、オールドを含め他のメーカーのギターを持った時に、感触が違い過ぎて苦労する、ともJは聞かされている。正確には、INORANがぽつりと零したのをたまたま聞いてしまったことがあるのだけれど。
手の大きいJにしかわからない悩みと同じで、INORANにはINORANにしかわからない悩みがあるのだろう。それも、成長が止まってしまった今となっては、溜息をつくぐらいしかできない悩み。
しかし、同じようにJにはJなりの悩みがあるのだ。成長が止まったからまだ救いはあるけれど、成長してしまったものは小さくはならないのだから。
煙草をもみ消したJは、INORANの10分の1くらいの小さな溜息をつくついでに、右手の指のストレッチなんかしてみる。左手は変わらず、INORANの右手と重ねたまま。
手持ち無沙汰をごまかすように、黙ったままそんなことをしていたら、不意に左手を強く締めつけられた。
右手を動かすのをやめたJの眼に、INORANの右手にしっかりと握られた自分の左手が映る。
痛みを感じるほどではないけれど、簡単には振りほどけないくらいにJの左手を握り締める、INORANの一回り小さな白い右手。
温かな血の流れが感じられるくらいに、近い。
「……どした?」
力が弱められることもなく、強められることもない。左手を引き寄せられることもないし、解放されることもない。
Jの左手をしっかりと握って、ただじっとそれを見つめるINORANに、Jはそっと問いかける。
「――この手は、いつか離れるのかな」
視線を少しも動かさないまま、INORANがぽつりと呟いた。
その言葉は重ねた二つの手の上に落ちて溶けて、皮膚から染み込み血に乗って全身へ行き渡り、Jにのしかかる。
「INORAN?」
唐突な問いに少しだけ戸惑って、JはINORANの顔をのぞき込む。
体温は確かに重ねた手から伝わるのに、温度の感じられない声でINORANは繰り返す。
「俺たちはいつか、この手を離すのかな」
Jの左手を握るINORANの右手が、少しだけ力を強めた。
手が離れてしまうことを恐れるように、ほんの少しだけ。
「さぁな。先のことなんかわからねぇよ」
ずっと手を繋いできた。離したことはなかった。今も手は互いに繋がれたまま。
けれど、この先どうなるかは誰にもわからない。
手を離さないかもしれない。離すかもしれない。離す気がなくても離れてしまうかもしれない。
体温を感じられるこの指が、込められるわずかな力の差もわかるほどに近いこの手が、離れてしまうのかどうか。
それは、JにもINORANにも、他の誰にもわからないことだった。
ただ、唐突にそんなことを言い出したINORANの右手を、Jは左手で強く握り返した。
離れるか離れないか、離すか離さないか、それはわからないけれど、今この場で手を離してはいけない気がしていた。
だから、それ以上なにを言うこともなく、JはただINORANの右手を握り締めた。
その方が言葉よりも伝わるような気がしたし、口下手な自分たちらしいとも思ったから、ただそうしていた。
繋いだINORANの右手にもう一度力が込められるのを感じながら、JはINORANの向こうの空を見ていた。
色のない空のどこか、雲の隙間から細く漏れる光の中、雨はいつしか雪に変わっていた。