瓦礫の街
1
月も星もない、暗い夜だった。
夜目にも鮮やかな長い緋色の髪を乱して、夜半をとうに過ぎた時刻とは思えないほどの喧騒の中を、SUGIZOは走った。
目指す先には、天上に輝くものを持たない夜を照らす、大きな炎。闇とは違う色の黒煙が上がり、まだ距離はあるのにSUGIZOが走っているこの通りにまで熱が伝わってくる。
走っても走ってもそこは遠く思えて、焦燥に胸を焼かれる。間に合わないかもしれないと思いかけてはそれを必死で打ち消しながら、SUGIZOは走った。
「……神よ……そこから見下ろしているのなら、どうか……!」
黒煙に遮られた天を見上げて、神に祈る。祈らずにはいられなかった。
彼だけはどうしても救いたかった。自分のエゴだとわかっていても、彼に死なれるのは嫌だった。
彼の命が途切れてしまう前に、燃え盛る炎に呑まれてしまう前に、どうしてもたどり着きたかった。
SUGIZOがわき目もふらずに目指すその先で、炎がまた少し大きさを増す。
やっとの思いでSUGIZOが駆けつけたのは、小さな教会だった。
敷地の正面には様々な武器を手にした男たちが居並び、教会に入ろうとする者を退けている。
まだ走っているうちにそれを見て取ったSUGIZOは、手前の脇道に入って教会の裏手を目指した。闇に紛れ、炎の影をぬって、教会の裏側に出る。
熱が視界を揺らす。汗を吸って重くなり始めていた髪がすぐに乾いて、熱風に踊る。煙を吸い込んでしまった喉の粘膜が痛む。皮膚が熱を遮りきれずに噴き出す汗までもが熱に奪われる。かさついた唇を舐めようとした舌先すら、熱に乾いていく。
狭いながらも綺麗に整えられた裏庭に遠慮もなしに足を踏み入れ、すぐにSUGIZOは舌打ちした。
武装した男たちがいる正面側に礼拝堂がある。礼拝堂の裏から渡り廊下で繋がる家が神父の自宅なのだが、火の手はその神父の自宅から上がっていた。神父の家から教会の礼拝堂まで隈なく彼を探し回ることは、難しく思われた。
だが、彼の生死だけは確かめたかった。生きているなら無論、死なせるつもりはない。
裏庭に面した部屋は神父の寝室や応接間が並んでいるはずだった。
SUGIZOは、常に持ち歩いている組紐で後ろ髪を適当にまとめてしまうと、神父の家の窓に炎以外の灯りがないことを確認する。
そして、首にかけたロザリオを強く握りしめ、まだ炎の影が見えない神父の寝室の窓を叩き割った。この部屋からなら、すでに原型を留めないほど炎に焼かれているであろうキッチンの辺りを通らずに礼拝堂まで行ける。
神父の寝室は無人だった。夜半過ぎ、神父ももう床に入っていただろうに、夜具に乱れもない。
寝室を数歩で素通りし、廊下に出る。炎に近い分、熱気は桁違いだったが、SUGIZOは気にしたふうもなく礼拝堂へ走る。
しかし、途中でふと足を止めた。煙で麻痺した嗅覚に引っかかった、濃厚な臭気。
炎の勢いの強い右手からではなく、まだ煙が走るだけの左手の部屋から漂うその臭いの正体に、SUGIZOはすぐに思い当たった。
左手の部屋は応接間。テーブルと数脚の椅子、客人にお茶を振る舞うための道具一式があるだけの、小さな部屋だったはずだ。
その部屋のドアを勢いよく開けたSUGIZOの鳶色の瞳に映ったのは、明らかに絶命している数人の男たちが折り重なって倒れている光景。
見覚えのある顔ばかりだった。いずれも、鋭利な刃物で正確に頚動脈を切り裂かれている。
一人だけ、他の男たちとは離れた壁に寄りかかって座っている初老の男は、うつむいているので顔が見えなかったが、SUGIZOはその顔を確かめることをせずにドアを閉めた。
寝室にいなかった神父が、未だ夜着にも着替えず、こんな場所で天に召されていた。そうと理解しても、感傷に浸る暇は今のSUGIZOにはない。
ロザリオを握りしめた手を祈りの形に組み合わせて短く祈りの言葉を呟くと、SUGIZOはすぐにその場を離れ、礼拝堂へ向かった。
熱は一秒刻みに密度を増し、SUGIZOをも呑み込もうと擦り寄ってくる。それを振り切るように走って渡り廊下を抜け、礼拝堂の裏口のドアを一気に引き開けた。
「INORAN!」
神父の家に部屋を与えられ、この教会で育てられていた幼馴染みの名を叫ぶ。
彼の部屋に人の気配はなかった。だから、SUGIZOは礼拝堂へ走ったのだ。
応接間に彼の遺体がないことは一瞬で見て取れた。だから、SUGIZOはここまで走ったのだ。
色白の頬を半分ほども漆黒の髪で隠した幼馴染みは、SUGIZOの予想通り礼拝堂にいた。
まだ、生きていた。
ドアを押し開けた瞬間に、INORANの漆黒の瞳が見開かれるのを見たSUGIZOは、間に合ったことを内心で神に感謝しながら、INORANに大股で歩み寄った。
「……SUGIちゃん……?」
祭壇の前で膝を折り、小さな神像に祈りを捧げていたらしいINORANは、その姿勢のままぼんやりとSUGIZOを見上げてくる。白い顔を半分ほども隠す長い黒髪が、その動きに合わせて小さく揺れた。
まるで、そこにいるSUGIZOが幻だとでも言いたげなINORANの表情に、SUGIZOは少し不安になる。
「間に合った……!」
だから、ここにいる自分を感じさせようと、INORANの肩を力一杯抱きしめた。
長く伸ばしたINORANの黒髪ごと抱きしめると、ぼんやりしたままのINORANはそれでも、SUGIZOの背に腕を回してきた。熱を受けて乾いた皮膚に、INORANの冷たい腕は心地良かった。
「どうしたの、逃げないの? 火はもう書庫にも回ってるだろうし、もうすぐここにも燃え移るよ。お爺様も、もう」
その言葉でわかる。INORANはこの火事を知っていて、逃げていないのだと。育て親である神父が死んだことも知っているのだと。
そして、INORAN自身もこの礼拝堂で死ぬつもりだったのだと。
「……神父様に頼まれた。お前を連れ出してくれって。言われなくてもそうするつもりだったけど、間に合ってよかった。ほら、立って」
SUGIZOは咄嗟に嘘をついた。神聖な礼拝堂で嘘を口にすることをためらった分、言葉が遅れた。
神父にINORANのことを頼まれてなどいない。INORANを探しに来たのはあくまでもSUGIZO自身の意志で。けれど、育て親の遺言だとでも言えば、ここで死ぬつもりだったはずのINORANの心も動くかと思ったのだ。
「連れ出すって……連れ出して、どこへ行くの?」
SUGIZOに手を引かれて立ち上がりながら、INORANは不思議そうに小首を傾げる。
この教会でずっと暮らしてきたINORANの「世界」はあまりにも狭い。連れ出されたところで、行き先の見当などつかなくて当たり前なくらいに。
けれど、「世界」が狭いのはSUGIZOも同じことで。
「どこでもいい。どこかへ。俺たちが一緒に生きていける所へ」
だから、こう答えるしかなかった。
「……一緒に……生きて……?」
死ぬつもりだったINORANに、それはあまり現実味のない言葉だろうと、SUGIZOもわかっていた。わかっていて、一緒に生きようと言ったのだ。
一緒なら、本当の「世界」の広さを知らなくてもなんとか生きていけそうな気がするから。
一緒なら、今度こそ死んでしまうかもしれなくても、怖くない気がするから。
「そうだよ、INORAN。お前が死ななきゃいけない理由なんてなにもないんだ。黙って死んでやる必要なんてないんだよ。俺が一緒に行くから、だから。一緒に生きていこう」
まっすぐにINORANの瞳を見据えて、SUGIZOはINORANの手をしっかりと握りしめた。この手を放すつもりはないという想いを込めて、強く。
その視線を受けるINORANの顔に、表情と呼べるものは浮かんでいなかった。人形のようにも見えるその瞳が、じっとSUGIZOを見つめている。
けれどSUGIZOはそんなINORANの無表情が、なにかを考えている時のINORANの癖だと知っている。だから、INORANの頭の中で答えが出るのを待った。
そうしている間にも、熱気は礼拝堂へ容赦なく近づいてくる。早くここを出なければ、INORANが一緒に行くと言っても間に合わなくなる。
SUGIZOが内心で焦り始めた時、天井近くの窓を埋め尽くすステンドグラスが一斉に割れた。押し寄せる熱気に耐え切れなかったのだ。
神像にも祭壇にも二人の頭上にも、色とりどりのガラスの破片が降り注ぐ。割れた窓から、まだひんやりとした空気が漂っていた礼拝堂にも熱気が吹き込んでくる。
もう、時間がない。
「……わかった。一緒に行く」
INORANが答えを出さなくても、とにかくここから逃げなければ、とSUGIZOが覚悟を決めた瞬間、INORANが小さく呟いた。
その顔にはやはり表情はなかったけれど、迷いのないその声に、SUGIZOはうなずいた。
「もうなにも持ち出せないけど、生きてさえいればどうにでもなるだろうから、いいよな」
礼拝堂の正面を固める男たちに見つからないよう、渡り廊下を抜けて神父の家に戻る。
神父の家の廊下はすでに、ドアや壁の隙間から炎が顔をのぞかせていた。キッチンに近いINORANの部屋もドアが吹き飛び、中から大きな炎が手を伸ばしている。身の回りの物を持ち出そうにも、これでは持ち出す物もすでに燃えてしまっているだろう。
「うん、ロザリオは持ってるし」
SUGIZOの言葉に答えたINORANは、首にかけたロザリオをシャツの襟に入れて見せた。それを見てSUGIZOも同じようにロザリオを襟にしまい込む。
熱を受けた金属は、少しだけ肌に熱を伝えてきた。
これもすでに火が回った神父の寝室と、神父たちが死んでいた応接間との間にある小さな物置に、炎を連れ込まないように二人で飛び込む。庭の手入れなどに使う道具を乱雑に置いてあるこの物置は、奥の壁に二人の背丈の半分ほどしかない小さなドアがあるのだ。
バケツやらシャベルやらを乱暴に蹴り飛ばして奥のドアにたどり着き、二人は窮屈な思いをしてどうにか外へ這い出した。
熱に乾いた庭を転がるように駆け抜けて、教会の敷地を出る。
普段走り回ることなどほとんどしない二人は、煙を吸ってしまっていることもあって完全に息が上がってしまっていた。
それでも、武装した男たちに見つかることだけは避けなければならない。今の二人にとって、休息は自らの最期と同じことだった。
家々の角を回り、二人と同じようにあちこちの通りを駆け回る男たちの視線から逃れて、SUGIZOとINORANは走った。
回り道に回り道を重ねて、家並が途切れる辺りまでやっとたどり着いた二人の眼前に広がったのは、漆黒の闇に沈む砂漠。
背後には、月も星もない空を焼く炎。もう、教会全体が焼け落ちる頃だろう。
「……見て」
SUGIZOの言葉に、INORANも背後を振り返る。礼拝堂の屋根に立っていた十字架が、今、崩れ落ちた。
INORANの家であり、SUGIZOの学び舎であり、二人の遊び場だった教会の焼失にも、二人の心はあまり揺れなかった。互いに、相手が隣に存在していれば、それで生きていけると思っていたから。
一際大きく上がった黒煙を見つめながら、SUGIZOがぼんやりと口を開いた。
「……INORAN、こういう質問は酷だってわかってるけど……このことについての『神託』は、なかったの……?」
「……うん……なかった……」
躊躇いがちな質問に、INORANは力なく髪を左右に振った。うつむいたままのその表情はわからない。
「そっか……ごめんな」
「ううん……」
答えづらいことを聞いてしまったということはSUGIZOもわかっている。だからそれ以上はなにも言わずに、ほんの少し顔を上げて淋しそうに微笑んだINORANに謝って、なにかを振り切るように炎に背を向けた。
「……『神託』なんてあるわけないんだ……」
SUGIZOの長い緋色の髪を追いかけるINORANが、炎に背を向ける瞬間に呟いたその言葉は、SUGIZOの耳に入ることなく闇に溶けた。