2.  ドイツ表現主義運動の概要

19世紀末、造形芸術の領域に見られた表現主義的傾向の萌芽が1910年代にドイツの思想、文化、芸術全般に渡って大きな影響を与える運動となって浸透していく過程は、ドイツの近代国家としての成立、及び当時のドイツ人の国民意識と密接な関係がありました。

イギリスやフランスのような文化的中心を持たず、封建的な小邦分立国家であったドイツでは、政治、経済、及び文化面においても市民階級の力が制限され統一的な国家としてのアイデンティティーの形成が困難であったため、他のヨーロッパ諸国に比べて近代国家としての成立が著しく遅れました。

1871年にドイツはプロイセン主導の下に、ようやく国民国家としての統一を果たしますが、その成立はイギリスやフランスなどで見られる封建的な貴族支配に対する市民革命という構図ではなく、殆ど捏造されたような歴史を拠り所として、対外諸国の圧力に抗した普仏戦争の結果であり、表向きには国民主権国家として成立したのですが、その実体は依然として封建的、権威主義的伝統が根強く残ったままでした。

この帝国成立以後、ドイツは急激な勢いで農業国から都市工業国へと変貌を遂げ、労働力の需要増加に伴い、農村部から都市部へと人口が流出するにつれて、各地に工業の中心地が生れました。1900年には工業生産力がイギリスとほぼ肩を並べるまでに成長し、その主力が重工業、電気、化学工業に推移するにつれて、資本の集中及び独占化が進み、社会構造にも大きな変化が生じました。

しかし、このようなあまりにも急激な進展を見せた経済的発展の裏側で、それを支える一般市民層の間では、合理的な機械文明に取り込まれる不安や、帝国主義政策伸張に伴う軍備の拡大に暗示される戦争勃発の恐怖などから喚起される危機感が、悪化する社会状況のなかで次第に高まりつつありました。

「ドイツは(第一次)世界大戦が始まった時、ヨーロッパ諸国のうちで、経済では最強の国、管理でも最良の国、そして統治では最悪の国だった。」という当時の人の証言からも分かるように、表現主義運動があらゆる芸術分野で活発化し始める1910年前後になっても、ドイツでは制度としての議会政治は成立していたものの、時代が要請していた民主主義的な意味での議会政治は確立されておらず、内政面での統治は単なる権力による管理であり、市民階級においては依然として貴族、ブルジョワ、農民、労働者などの各階層間の格差は大きく、封建的伝統と因習が未だ色濃く支配していました。

トーマス・マンは「ドイツとドイツ人」という講演の中で、ドイツ国民の特殊性について要約すると次のように述べています。

フランスにおいて、国民とは「革命と自由の概念であり、人類的なものを内に含み、内政的には自由を、外政的にはヨーロッパを意味するもの」であったのに対して、ドイツでは国民という概念が自由という概念と結びついたことは歴史上殆どなく(1813年に始まる解放戦争前後には、封建的領邦国家を打ち破り市民社会を実現しようという自由主義の理念と国民意識が結びつき、統一国家が目指された時期もあったのだが)、ドイツ的自由の理念は国粋的且つ反ヨーロッパ的であり、その意味していたところは、専ら外部に向けられた自己中心的防御という抗議的概念であり、「外部との関係における反抗的な個人主義が、内部においては奇異の感をもよおすほどの不自由、幼稚さ、鈍感な卑屈さと両立」しており、こうしたドイツに特有である精神的自由と政治的自由の分裂、思弁的理想と大きく掛け離れた未成熟な政治が、内部的な不自由さに起因する外部に対する歪んだ自由衝動を引き起こし、それが結果的には後にナチズムという一民族による世界奴隷化の思想につながることになったのである。

ここでトーマス・マンの指摘している内部の不自由さとは、市民階級に重く圧し掛かっていた伝統的な権威の壁を意味しており、20世紀になってもドイツでは教会や学校、また家庭においても厳しい秩序の観念を盲信し、義務に盲従することが強く求められていました。

こうした権威主義に対して、世紀末から20世紀の初頭にかけてワンダーフォーゲルやドイツ青年運動という、ある種の抵抗運動が始まりますが、これは主にギムナジウムや大学の学生たちによって担われたものであり、差し当たってその矛先は時代に適合しない形骸化された教育制度に向けられました。当時の教育は社会構造の変化によりもたらされた中間層の増大により、資本主義経営や官僚制支配に結びつくための資格制度へと変質し始めており、それまで教育の核であった古典的教養重視に対する不満が学生間につのりつつありました。

このような状況に端を発した若者たちの反抗は、次第に伝統的な教会や学校、家庭などの因習的システムに向けられましたが、実際には都会の喧騒から逃れて自然のなかに中世的なものや神秘的なものへの憧れを求めることにより自らを解放しようというロマン主義的傾向の復活という形をとって現れました。

こうしたワンダーフォーゲル等の運動がある種の逃避的なもので、その反抗が直に自らの学校や家庭などに向けられなかったのとは対照的に、先に述べたような時代状況の悪化に伴う不安や緊張と相俟って、表現主義の時代になると、反抗はダイレクトに権威主義的伝統と秩序に基づく価値観や理想に向けられるようになります。

表現主義運動の主体である若者は、ドイツ人のあらゆる隷属本能の源泉を厳格な家父長制度にあると考え、父権や伝統的権力に対する激しい反抗を見せ、父と子の対立というモチーフ(Hasenclever の「息子(der Sohn)」や Bronnen の「父親殺し(Vatermord)」等の戯曲に見られるように、表現主義文学においても重要なテーマとして取り上げられるようになりました。

こうした重苦しく、若者たちにとっては自己実現の道を殆ど塞がれていた時代の中に、強烈な破壊的意志と精神的昂揚を伴ったドイツ表現主義運動の生れてくる土壌がありました。

 

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