2.  トラークルの生涯

ゲオルク・トラークルは、1887年2月3日、オーストリアのザルツブルクでシュバーベン ・ハンガリー系の父親とチェコ・南ドイツ系の母親のもとに七人兄弟の第五子として生れました。表現主義者の中にはユダヤ系の血を引く人たちも数多くいますが、トラークルにはユダヤ系の血縁はないものの、母方のスラブ系の血を受け継いでいることから、後に見られるドストエフスキーへの傾倒(トラークルには「罪と罰」のソーニャを題材にした詩がある)には、この血縁が少なからず関与しているのではないかとも言われています。

トラークルの幼少時代、父親が鉄鋼業を手広く営んでいたので家庭は裕福でしたが、その母親は古美術の収集に熱をあげ、子供に無関心な愛情の薄い人でした。この母親はトラークルの作品に、ある時は血の通わない蒼白な顔で、またある時は石のような硬い表情をして現れます。「冷たいベットに横たわると、言い知れぬ悲しみが彼を襲うことがあったが、その額に優しく手をおいてくれる人はいなかった。」(夢と狂気:Traum und Umnachtung)と散文詩で回想されているように、彼の幼少期は暗く愛情に飢えたものであったと推察されます。

彼の生涯および作品を考えるうえで、最も重要な位置を占めると思われる人物は、5才年下の妹、マルガレーテであると言われています。彼女は音楽的な才能に長けており、後にピアニストになりますが、トラークルにとってこの妹は理解し合い、尊敬できる唯一の女性でした。彼らの近親相姦的な関係がトラークル研究のうえでクローズアップされることも多々有りますが、事の有無は別として、この道ならぬ感情が後にキリスト教の原罪の意識と分かち難く結びつき、彼の作品の底流に深い苦しみとなって存在することは否定できません。こうした妹の姿は作品中に直接「妹(Schwester)という語で表現される(112作品中、16作品)以外にも、異郷の娘(Fremdlingin)、少女(Mädchen、Junglingin)、尼僧(Mönchin)という様々な形で出現し、その影は、姿と意味合いを変化させながらも最後期の作品に至るまで見え隠れすることになります。余談ですが、この妹も薄幸の女性であり、兄の死後三年目に短銃自殺を遂げました。

次にトラークルのパーソナリティに関して少し触れてみることにしますが、彼もまた多くの詩人たちの例に洩れず自己破滅的な性質を有していました。彼は1897年にギムナジウムに入学しますが、ラテン語、ギリシア語、数学などの成績不振のため第7学年で卒業を断念し、薬剤師の資格取得のために勉強を始めます。この時期に彼の詩人としての生涯に大きな意味を持つことになる麻薬との出会いがありました。

「僕は病気で絶望的な気分にいる。僕ははじめは沢山、そうとても沢山勉強した。その後に起こった神経の緊張を乗り越えるために、残念ながら僕はまたクロロフォルムに逃げてしまった。効果は凄まじいほどだった。八日間、僕は苦しんで、神経は壊れてしまった。だが僕はこうした方法で自分を沈静させることに抵抗する。僕にはもう破滅が間近に見えているのだから。」と1905年に友人に宛てた手紙からも分かるように、鋭敏な詩人としての感性と実生活との間に漂う堪え難い苦悩から逃れるために、彼が麻酔剤を用いていたことは明白であり、またそのことに強い罪悪感を抱いていたことも窺い知ることができます。

作品にも麻薬を暗示させる芥子(Mohn)という単語が現れる詩は11編を数え、「呪わしき暗い毒薬、白い眠りよ!」(眠り:Der Schlaf)とも表現されており、彼はこの逃避剤から生涯逃れられなかったのですが、この幻覚剤を用いた言わば詩の疑似体験ともいえる行為が、後に彼独特の彼岸から現世を覗くような視点や、夢と現実の交錯した多彩なイメージを産み出す要因のひとつになっていることは否定できません。

表現主義運動の起こり始めた1910年、彼は薬剤師試験に合格すると共に、独自の詩的世界を展開するようになりますが、同年に父親が他界し、これを境にして家業が傾き始めました。そのため兵役を追えた後、彼は薬局や官庁の書記などに職を求めましたが、どれも長続きはせず、暮らしは次第に貧窮し、友人への金の無心の手紙なども多く見られるようになります。しかし、こうした生活苦と自身の家庭の没落が、社会を包み込む世界的な不安感などと相俟って、後に民族の没落、更には世界の没落というトラークルの作品世界に特徴的な下降的ヴィジョンへと深化されていったということは想像に難くないところです。

1912年、彼はココシュカやカール・クラウス、フィッカーらと知り合い、「ブレンナー」や「ファッケル」誌に作品を発表する機会を得て、1913年に処女詩集である「詩集(Gedichte)」を出版しますが、彼の生活および精神における苦痛は日に日にその度合いを増し続け、不安は自虐的な自己破壊の欲求までに高まり、世界の崩壊は彼自身の崩壊として鋭敏に感受されるようになりました。

「僕はもうどうしていいのか分かりません。世界が二つに割れてしまうとは何と言いようのない不幸でしょう。おお、神よ、どんな裁きが僕のうえにやって来たのか。言って下さい、僕にはまだ生きていく力があると、真実を行う力があると。言って下さい、僕は狂っていないと。石のような暗黒がやって来た。おお友よ、僕は何とちっぽけに、不幸になってしまったのでしょう。」

「憂鬱と酩酊の間で途方にくれ、日々ますます不吉な形となっていく状況を変える力も、気もなく、ただもう雷雨がやって来て、僕を清めるか、破壊してくれることを望むばかりです。おお神よ、一体どんな罪と暗黒のなかを、僕たちは歩んで行かなければならないのでしょう。」

上記のように、彼の悲痛な叫びは友人宛ての告白となって如実に現れ、1914年7月、第一次世界大戦が勃発すると、正に死に場所を求めるかのようにトラークルは衛生隊の薬剤士官として出征しました。

そして同年9月、凄惨な戦闘が繰り広げられたグロデークにおいて、彼は百人近い負傷兵を十分な医薬品もなしに一人で看護しなければならない状況に陥り、その世界中の悲惨さを一箇所に集めたような地獄絵図が、彼に拭いがたい恐怖と衝撃を与えずにはおきませんでした。苦痛と死の恐怖に震える傷ついた人々の呻き声のなか、痛みに耐え兼ねた一人の兵士が自らの頭を打ち抜く様を目撃した彼は、思わず職務も忘れ逃亡しますが、静まり返った広場で見たものは、立ち並ぶ木立の一本、一本に、一体づつ吊るされ揺れている敵兵の姿でした。この余りにも悲惨な光景の連なりに、彼の精神は無残にも粉砕されました。戦争がもたらした悲惨な姿は、彼が予期し、思い描いた人類没落のヴィジョンを遥かに凌駕するものだったと思われます。

それから数日して、彼は「もうこれ以上生きていけない。許してくれ。俺は死ぬ」と叫んで自殺を図りますが、未遂に終わり、精神錯乱患者としてクラーカウの野戦病院に送られたまま、11月3日、その地で27歳の生涯を閉じました。故意か事故かは不明ですが、死因は隠し持っていたコカインの過飲による心臓麻痺であったと言われています。

以上、簡単ですがトラークルの生涯を追ってみました。彼の悲劇的な生き様と呼応するように、その作品世界も次第に暗さと悲惨さを露呈するようになりますが、次に具体的な作品分析により、トラークルの世界および、その表現主義的傾向について考察を進めることにします。

 

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