4.  作品テーマ

ここではトラークルの作品テーマに見られる表現主義的傾向について考察しますが、その前に彼の作品を構成し、支配している主な要素について簡単に触れておきます。

トラークルの作品において、その根底に流れているテーマは初期から中期、後期を経て最後期に至るまで不変です。それは、「死」、「滅び」、「没落」であり、このテーマこそが表現主義的傾向の現れとも言えるのですが、初期において現実世界に投影されていたこの滅びのヴィジョンは、時間の経過と共に深化し、次第にトラークルの内面を覆い尽くし、それが非現実的な言語的抽象の世界となって中期以降に現れるようになり、更に最後期においては超個人的な黙示録的世界にまで結実されることになります。

この世界崩壊のヴィジョンがトラークルの作品にとって如何に本質的なものであったかを探るため、「死」、「滅び」、「暗闇」、「影」という四つのイメージを直接、および間接的にも強く喚起するさせる語について(名詞、形容詞、副詞的用法を全て含めて)前記の分類に従い調べてみたところ、これらの要素を一つも含まない作品は、『詩集』の中に4編(Frauensegen、Zu Abend mein Herz、Im Winter、Trompeten)と、『夢のなかのセバスチャン』に3編(Nachts、Karl Kraus、In Venedig)、つまり112編中に僅か7編あるのみで、この7編についても「Karl Kraus」を除いては、不安や苦悩、下降的な意識が感じられる作品ばかりです。

また、作品に現れる「死」、「滅び」、「影」を表わす語の比率は、各時期を通じて殆ど同じですが、「暗闇」や「暗さ」を表わす「dunkel」の使用される回数が初期は19編なのに対して、中後期には35編と際立って増加しており、これはある面で、翳っていく彼の意識が投影された結果であると理解できます。

次にトラークル作品に特徴的な季節と時間についてその傾向を探るために、季節と時間を表わす単語の出現頻度を各時期別に調てみると下記のような結果になりました。

季  節
 

初 期

2

2

15

4

中後期

9

9

25

11

最後期

2

-

5

5

13

11

45

20

 

時 間
 

夕暮れ (薄明)

初 期

1

8

44 (13)

21

中後期

-

2

54 (18)

33

最後期

-

-

12 ( 3)

12

1

10

100 (34)

66

 

これはかなり大まかな分類で、季節は春(Frühling)、夏(Sommer)、秋(Herbst)、冬(Winter)という単語の現れる詩の編数であり(雪:Schneeだけは直接イメージを喚起させる冬に含めてあります)、時間は朝(Morgen)、昼(Mittag、Nachmittag)、夕暮れ(Abend)、夜(Nacht)という単語が直接現れている編数です。夕暮れの隣に括弧で示されている薄明(Dämmerung)という単語は、夜明けにも用いられるものですが、トラークルの場合、その殆ど夕暮れ時を示すもので(明らかに夜明けを意味するものは「魂の春:Frühling der Seele」1例のみ)、夕暮れの編数はこの薄明を含めたものです。

しかし当然のことながら、一編の詩に複数の季節や時間が含まれる場合も多々ありますし、比喩的な用法で直接、季節や時間を意味しない場合も有り得るので、厳密に言えばそれらの相関も考慮に入れなければならないのですが、ここに見える結果からでも傾向の概略は把握できるものと思われます。

ここから引き出せる結論は至極単純なもので、トラークルの作品テーマから察すれば用意に予測のつくものです。つまり彼の作品世界の背景に現れる季節は秋から冬が他を圧倒しており、そこに流れる時間は夕暮れから夜が大半を占めているということです。秋は豊かな実りの時であると共に、生き生きとした情熱に翳りが見え始め、やがて訪れる厳しい静けさに包まれた冬を予期させる季節であり、夕暮れは昼間の明晰な事物の輪郭が失われ、不安と静けさの帰ってくる時間で、それはトラークルが優しい狂気の翼で非現実世界へと飛び立つ時なのです。

また、ここに見られる初期から最後期に至る時間的経過における秋から冬、夕暮れから夜へというモチーフの増加も、彼のテーマの内面化と呼応したものと考えられます。

以上、簡単にトラークル作品のテーマとその背景について見てきましたが、次に具体的な作品に則して、その特徴と表現主義的傾向を探ってみることにします。先ず始めに極初期に作られ(1990.6)、彼の詩的ヴィジョンを明確に示している「滅び:Verfall」という作品を取り上げてみます。

 

Verfall

Am Abend, wenn die Glocken Frieden läuten,
Folg ich der Vögel wudervollen Flügen,
Die lang geschart, gleich frommen Pilgerzügen,
Entschwinden in den herbstlich klaren Weiten.

Hinwandelund durch den dämmervollen Garten
Träum ich nach ihren helleren Geschicken
Und fühl der Stunden Weiser kaum mehr rücken.
So folg ich über Wolken ihren Fahrten.

Da macht ein Hauch mich von Verfall erzittern.
Die Amsel klagt in den entlaubten Zweigen.
Es schwankt der rote Wein an rostigen Gittern,

Indes wie blasser Kinder Todesreigen
Um dunkle Brunnenräder, die verwittern,
Im Wind sich fröstelnd blaue Astern neigen.

 

滅び

方々で穏やかに鐘の響きわたる夕暮れ
私は鳥たちの華麗な道行を追っている
秋の澄みわたる広がりのなかに消えてゆく
厳かな巡礼者のように、長い群れなす連なりを

夕闇に包み込まれる庭をすり抜けさまよいながら
私は鳥々の卓越した業を夢み
もはや時の針の動くのを知らない
雲を超えこうして私は彼らの飛行にしたがう

すると微かな滅びの気配が私を揺るがし
一葉もない枝々でツグミが嘆きはじめる
錆び付いた格子に赤く染まるブドウは揺れ

蒼ざめた子供たちの死の輪舞のように
暗い噴水の朽ちかけた縁を囲んで
風のなか アスターの青い花々は細かに震え身を傾ける

 

このソネット形式で書かれた詩は、トラークルには珍しく一人称で語られており、彼の意識の流れを探るには格好の作品と言えると同時に、彼の詩の特徴を示す重要な要素が散りばめられています。この作品の構成を簡単に辿れば、第一節で詩人は秋の澄んだ夕暮れに飛ぶ渡り鳥の群れを静かに見つめ、第二節で自らも羽ばたくことを夢見ながら、時の経つのも忘れて、雲を越え鳥たちの後を追うのですが、第三節の第1行で突然「滅び」の気配に襲われ非現実の世界に引き込まれてしまうのです。地上に目を移せば、今までの穏やかさは消え失せ、ツグミは嘆き、第四節、青いアスターの花が亡霊のように、暗闇に包まれた噴水の周りで傾く不気味な光景に出会うのです。

つまりこの作品は先に見た、季節は秋、時は夕暮れから夜、そして「滅び」、「没落」(Verfallは没落という意味合いも含んでいます)、「死」という彼の作品に特徴的な全ての要素によって構成されているといっても過言ではありません。

また、トラークルは視覚(この詩全体から感じられる極めて絵画的なヴィジョンなど)はもとより、聴覚(鐘の音、鳥の声)や臭覚(気配:ein Hauchには香気という意味もあります)にも敏感な詩人で、こうした共感覚を用いて一つのイメージを生み出す手法は、象徴主義の影響を窺がわせるものであり、群れをなして飛び去る鳥や夕闇に響く鐘の音は、非現実世界に人々を引き込む前触れとして、彼の作品にしばしば登場するモチーフでもあります。

一方、表現主義的傾向の兆候とも言える動的な描写(揺れる、震える、傾く等)が、この作品にも見えますが、次に彼の作品に特徴的な下降的意識が更に顕著となる例についてみてみます。

トラークルにおいて没落のヴィジョンは、殆ど何らかの下降的方向性を伴なって表現され、「滅び」でも見られたneigen(傾く)の他に、beugen(屈む)、fallen、stürzen(落ちる)や、これらの動詞の中で最も使用回数が多く112編中、30編に現れるsinken(沈む)、またunter、herab、niederといった下方を示す副詞と動詞が結びつく例も数多く見られます。

その下降性と滅びのヴィジョンについて、「詩篇(Psalm、1912.9)」を例に取り、考察しますが、この作品は一節九行、四節プラス一行の計37行からなり、彼の作品にしては長編の部類に属するものなので、部分的な引用により、その構成の概要だけを述べることにします。

先ず第一節は Es ist ein Licht, das der Wind ausgelöscht hat.(風に吹き消される光がある)というこの詩を象徴するような不安なイメージから始まります。四行目までは先に触れたランボーの影響が指摘されている Es ist 〜という形式で書かれており、それぞれ、昼間になってようやく酔っ払いが去って行く荒野の酒場、虫に食い荒らされクモの巣の張り巡らされたブドウ畑、ミルクで塗り込まれた部屋という現実と非現実の中間にあるようなイメージが語られます。五行目になると突然、南国の島の描写に移行し、九行目の O unser verlorenes Paradies (おお、我々の失われた楽園よ)という深い喪失感で第一節は閉じられています。

第二節は、黄金の森を去るニンフ、パーンの息子という神話的な世界が四行目まで展開された後、貧しい少女、ソナタの響く部屋、曇った鏡の前で抱き合う影、病院で暖をとる患者などの姿が羅列され、最後に Ein weißer Dampfer am Kanal trägt blutige Seuchen herauf. (運河に浮かぶ蒸気船が血に飢えた疫病を運んでくる)という不気味なイメージが出現します。

次に問題の下降的ヴィジョンが現れる第三節ですが、先ずその四行目までを引用してみます。

Die fremde Schwester erscheint wieder in jemands bösen Träumen.
Ruhend im Haselgebüsch spielt sie mit seinen Sternen.
Der Student, vielleicht ein Doppelgänger, schaut ihr lange vom Fenster nach.
Hinter ihm steht sein toter Bruder, oder er geht die alte Wendeltreppe herab.

ふたたび見知らぬ妹が誰かの悪夢に現れ
ハシバミの茂みで憩いながら 彼の星々と戯れる
学生が、たぶん夢見る人の分身が、窓からじっと彼女を見つめている
その後ろには彼の死んだ兄が立ちすくみ、またある時は古びた螺旋階段を下りてゆく

この四行のイメージは非常に錯綜しており、その意味するところを明確に把握することは困難ですが、ここに描写されている非日常的なヴィジョンはトラークルの下降的意識の深化を示すものと言えます。つまり、ここに設定されている場は、誰かの悪夢という一歩現実から内面へ入り込んだ世界であり、そこに見知らぬ妹(Die fremde Schwester)が再び現れ、彼の星と戯れるのですが、この星(Stern)という語はトラークルの作品にしばしば象徴的に用いられ、ここでは運命的なものを意味していると考えられることから、この誰かを詩人自身に置き換え、fremd は「見知らぬ」の他に「よそよそしい」または「奇妙な」という意味合いを含んでいるので、この二行を誤解を恐れずに解釈してみると、彼の夢のなかに異様な姿で妹が現れて彼の運命を翻弄するとも取れますし、更に深読みすれば、彼の妹に対する禁じられた思いが夢のなかに現れ、深い罪の意識を彼に呼び起こさせたとも考えられ、だからこそ邪悪な夢(bösen Träumen)と言われているのかも知れません。

しかし、それはひと先ず置くとして、次に悪夢のなかにもう一人の人物、学生あるいは ein Doppelgänger が現れるのですが、この語は自分と同一人物が同時に同じ場所に現れることを意味していることから、悪夢を見ている本人が夢のなかに登場し、その妹を見ているということになります。

ここまででもかなり錯綜したイメージですが、それに加えて更に彼の後ろに今度は死んだ彼の兄が現れるのです。この兄(Bruder)という単語は弟や神父を意味するものでもあり、ここでは具体的に何を示すものかは特定できませんが、この夢を見ている人とは別次元の存在であることは明らかであり、その兄が一度ならず見る悪夢の、ある時は彼の後ろに現れ、またある時は古びた螺旋階段を下りて更に下方に行くのですから、ここにトラークルの意識が複雑に絡まり合い内面へと深く沈潜して行く様子を窺い知ることができます。

この死んだ兄が階段を下りて行き着く先には、初期の「滅び」ではまだ気配しか感じられなかった彼岸の世界が広がっているはずですが、ひと呼吸置くかのように、五行目から彼の視線は再び地上へと戻り、若い修道士の蒼ざめた姿、夕暮れに包まれた庭、羽ばたく蝙蝠、夕映えを追う子供たち、震えながら並木を抜けて行く盲目の少女などが描写されて第三節は終わります。

そして続く第四節で遂に詩人は滅びの世界へと入って行くことになります。その冒頭は Es ist ein leeres Boot, das am Abend den schwarzen Kanal heruntertreibt. (夕暮れ黒い運河を下りゆく空の小船がある)で始められ、下降的なヴィジョンと共に再びトラークルは滅びの世界に引き込まれるのです。二行目の In der Düsternis des alten Asyls verfallen menschliche Ruinen. (古い隠れ家の暗がりで人の廃墟が崩れ落ちる)、で人間の肉体的な崩壊を暗示し、三行から五行目では、庭の壁に死んだ孤児たちが横たわり、灰色の部屋から汚物にまみれた翼の天使たちが現れ、黄ばんだ瞼から蛆虫を滴らせるという、凄まじく不気味な死の光景が描かれます。続く第六、七行目では、ほの暗く物音ひとつ聞こえない教会まえの広場や、銀色の足取りで滑るように過ぎ去っていった幼い頃の生活が回想され、八行目、 Und die Schatten der Verdammten steigen zu den seufzenden Wasser nieder. (永劫の罰を受けた者たちの影は、ため息のような音をたてる水のもとへと下りていく)のであり、最後の9行目で In seinem Grab spielt der weiße Magier mit seinen Schlangen. (墓のなかでは幾匹もの蛇と白い魔術師が戯れる)という最深部へと辿り着きます。

そこでは救われることのない白い魔術師(これは詩人の分身とも取れますが)と邪悪な蛇が戯れ、救いのない永遠の闇(墓)のなかに封じ込まれてしまったかのように見えますが、最後の一行のみの第五節で、 Schweigsam über der Schädelstätte öffnen sich Gottes goldene Augen. (ゴルゴダの丘のうえで押し黙る神の黄金の目が開く)という救いのイメージが出現し、この詩は閉じられます。

このゴルゴタの丘はキリストが磔刑に処された場所であることから、ここに現れる神はキリストと考えて間違いないであろうし、この詩の題名が旧約聖書中の神を賛美する詩を集めた「詩篇」であることから、この最終行の意味するところは、トラークルの感じていた滅びのヴィジョンや深い罪の意識が、人間の原罪を背負って天に召された神によって救われるということなのか、あるいは作品中にこう記すことで彼自身が救われようとしたのかも知れませんが、実際には、その神の目の光は、最早トラークルの苦悩を癒すほどには強くなかったものと思われます。

それは彼が麻薬に溺れていったことにも、またある手紙で「あまりに僅かしかない公正さ、同情心、そして常にあまりにも僅かな愛情、それに反して、あまりに多くの非常さ、高慢、そして様々な犯罪性、それが僕なのです。(中略)僕は魂が憂愁によって毒されたこの呪われた体にこれ以上宿ろうとしない、いや宿れない、そういう日々がやって来ることを、魂が、この神のいない呪われた世紀のあまりに忠実な写しでしかない、汚物と腐敗から形作られた嘲りの姿を離れる、そういう日がやって来ることを切望しています。神よ、純粋な喜びのただひとかけらのきらめきを ― そうすれば救われるのに、愛を ― そうすれば解き放たれるのに。」と告白していることからも明らかです。

またトラークルは自分も含めて、人間の没落はこの世に生れてきた時から始まると考えていたいたことが作品から知ることができます。

Schön ist der Mensch und erscheinend im Dunkel,
Wenn er staunend Arme und Beine bewegt,
Und in purpurnen Höhlen stille die Augen rollen.

人間、それは暗闇のなかに現れ、
驚いたように手足を動かし、深紅の洞窟のなかで
静かに目をまわしているときには美しいのだ

これは「ヘーリアン:Helian」という詩の一節であり、人間は母親の胎内にいるときには美しいものであると歌われているのですが、それが「晴れやかな春:Heiterer Frühling」では

Wie scheint doch alles Werdende so krank !

すべての生れいづるものは何と病んでいることか!

と嘆かれることになります。

つまり、こうした彼の苦悩や罪の意識は、魂が彼の肉体を離れるまで癒されることのないほど深いものだったのであり、「魂の春:Frühling der Seele」では、Es ist die Seele ein Fremdes auf Erden. (魂は地上では異邦人である)とも歌われているように、彼は魂の救われる場所を求めて、更に深く滅びの世界への下降を続けていったようにも感じられます。

再び先の「詩篇」に戻りますが、この作品は、第一節で語られる深い喪失感、第二節に現れる不安なフチーフ、第三節における悪夢と夕暮れ、そして第四節の死のイメージから第五節の救いへ、という緻密な構成に支えられ、多彩なイメージにより深遠なテーマが表現されており、この詩的想像力の広がりは押韻抒情詩には見られなかったものであることから、トラークルの詩的技法の変化と深い内面化の傾向は急速に生じたものと思われます。

また一行一行に意味的、時間的関連を無視した様々なモチーフを羅列することにより、現実描写的性格を縮小するモンタージュ的手法の他、醜悪なものの積極的な取り込みなどに表現的傾向が現れているとも言えます。この詩では「汚物にまみれた翼の天使」や、「その瞼から滴る蛆虫」等と言った醜悪なイメージが見られますが、「フェーンの吹く郊外(Vorstadt im Föhn」という詩では、夕暮れ、屠殺場から流れ出した血の固まりが、ゆっくりと河を下ってゆくという不気味な光景の後に、夕映えの雲が、きらめく小道や美しい馬車、またバラ色のモスクの屋根といった美しい形象に変わっていく様子が描かれるのであり、こうした美醜の著しいコントラストにより、作品に強いインパクトを与えるという手法は他の表現主義詩人たちにも見られる特徴です。

以上、「詩篇」からの引用が少し長くなりましたが、次に中後期から、最後期にかけてのトラークルの詩的テーマについて考察してみます。

初期から中後期へ移行するに連れて、トラークルの作品は次第に抽象化の度合いを深め、イメージは更に現実と非現実的世界の混在するなかで複雑に絡まり合い、そこに写し出されるヴィジョンには個人的な苦悩や詠嘆を超えて、時代の孕む危機感や不安感が反映されるようになります。

「黙したものたちに:An die Verstummten」(1913.11)を例に取り、こうした変化の現われを見ることにします。

 

An die Verstummten

O, der Wahnsinn der großen Stadt, da am Abend
An schwarzer Mauer verkrüppelte Bäume starren,
Aus silberner Maske der Geist des Bösen schaut ;
Licht mit magetischer Geißel die steinerne Nacht verdrängt.
O, das versunkene Läuten der Abendglocken.

Hure, die in eisigen Schauern ein totes Kindlein gebärt.
Rasend peitscht Gottes Zorn die Stirne des Besessenen,
Purpurne Seuche, Hunger, der grüne Augen zerbricht.
O, das gräßliche Lachen des Golds.

Aber stille blutet in dunkler Höhle stummere Menschheit,
Fügt aus harten Metallen das erlösende Haupt.

 

黙したものたちに

おお、大都会の狂気よ
そこでは夕暮れ黒い壁際に歪んだ木々は身じろぎもしない
銀色の仮面から悪霊が顔をのぞかせ
磁石の鞭で明かりは石と化す夜を押し退けている
ああ、晩鐘のくぐもった音色よ

冷え切った身を震わせて娼婦は死児を産みおとす
荒れ狂う神の怒りが邪悪に憑かれた者の額を
深紅の疫病や、緑色の目を粉砕する飢餓を激しく鞭打つ
おお、黄金の下卑た笑いよ

しかし暗い洞窟でじっと黙したままの人間は、血を滴らせながら
硬い金属で救いをもたらす頭を組み立てるのだ

 

この冒頭に現れる大都会の狂気は、戦争と並んで表現主義の画家や詩人たちに頻繁に描かれるモチーフであり、トラークルもまた急激な機械文明の取り込みにより生じた暗部を鋭敏に察知しています。verkrüppelte Bäume (不具にされた木々)は近代文明の中で歪んでゆく人間の象徴であろうし、銀色の仮面からのぞく悪霊は、繁栄の影に隠れた不安感や醜悪なものを暗示していると思われます。

また、die steinerne Nacht (石のような夜)と表現されているように、彼を包み込み外界は冷たく非情なものと感じられているのであり、こうした「石のような」、あるいは「石化する:versteinern」という初期の作品には見られなかった言葉が、中後期から最後期にかけて数多く(20例以上)用いられるようになったことからも、彼にとっての現実が非日常的なものに変貌していったことを窺い知ることができます。

第二節に現れる「娼婦」というモチーフも、表現主義詩人に多く取り上げられるているものですが、この他にも彼の作品には「癩病患者:Aussätige」、「不具者:Krüppel」、「殺人者:Mörder」、「孤児:Waise」といった病人や社会的な弱者、犯罪者など様々な人々が登場します。これは醜悪なモチーフの導入と並んで、表現主義に見られる傾向のひとつであり、シュナイダーによれば、こうしたものの現れは、市民社会やその価値基準の否定を意味するものであるとされています。トラークルにおいては必ずしもそうした傾向が意識的に強調されているとは思えませんが、この詩に限って言えば、死児を産み落とす娼婦の悲惨な姿は、堕落した社会への批判、あるいは健全な生命をもはや生み出すことのできない世界に対する絶望とも取れなくはありません。

そして、この詩に現れる神は、「詩篇」で見られたような救いのイメージを暗示させるものではなく、悪に魅入られた者の額を、近代文明がもたらした疫病や、生き生きとした目を打ち壊す飢餓を激しく断罪するかのように打ち据える、怒りの神に変貌しています。

更に最終節では、神のいない暗い世界で、人間は黙り込み、血を流しながら、硬い金属で救いをもたらす頭(das erlösende Haupt)を作っているというのですが、この最終行は難解です。硬い金属を機械文明の暗喩であるとすれば、人間が新たな救世主を自らの手で作り出そうとしているとも取れなくもないのですが、もはや神のいない世界にはトラークルにとっての救いは存在しないのであるから、非人間的なものに支配されつつある人間が、いくら自力で自らを救済するために救いをもたらす頭(近代文明)を築いたとしても、人間性を喪失したものによって生み出されるものは、所詮血の通わない金属の固まりでしかなく、本質的に人間を救う力などは持ち得ないのであるという深い絶望を示しているとも思われます。

また、この詩に現れる人間(Menschheit)は人類全般を表わす集合名詞であり、この他にも、初期の作品には1例(ヘーリアン:Helian)しか見られなかった、Geschlecht(種族・一族)あるいはVölker(人間・民族)といった語が、中後期から最後期にかけて計10例にも及ぶことからも、トラークル個人の不安や苦悩が世界の受苦へと敷衍されていったことが分かります。

以上見てきたように、この「黙したものたちに」という詩は、彼の作品のなかでも極めて表現主義的傾向が強く現れているものと言えます。

次に、初期作品に見られた「死」や「罪」の意識、「没落」や抽象的なヴィジョンが中後期にどのような形で現れてくるのかを部分的に抜き出して見てみることにします。

 

O die Nähe des Todes. (おお、死の近さよ:Sebastian im Traum)

Leise läutet im blauen Abend der Toten Gestalt.
(青い夕暮れ、死者の影が静かに鐘をならしている:Verwandlung des Bösen)

Ein Toter besucht dich. (死者がおまえを訪れる:同上)

Seele sang den Tod, die grüne Verwesung des Fleisches
(魂は死を、肉体の緑色の腐敗を歌った:An einen Frühverstorbenen)

Silbern zerschellt an kahler Mauer ein kindlich Gerippe.
(剥き出しの壁で子供の骸骨が銀色に砕け散る:Föhn)

Fiebernd saß er auf der eisigen Stiege, rasend gen Gott, daß er stürbe.
(熱に浮かされながら、彼は凍てつく階段にすわり、一心に自らの死を神に願った:Traum und Umnachtung)

Biiter ist der Tod, die Kost der Schuldbeladenen ;
(死、その罪深きものの糧は苦い:同上)

 

以上は死に関する死行を数例取り出したもので、もちろん前後の脈絡なしに語ることはできませんが、この例からもトラークルが積極的に死に歩み寄っていく姿が感じ取れます。

同様に罪の意識と没落のヴィジョンについて次に幾つか例を引いてみます。

 

O! Verzweiflung, die mit stummen Schrei ins Knie bricht.
(おお! 絶望よ、声にならない叫びをあげて、ひざまずかずにはいられない:Verwandlung des Bösen)

O, wie alles ins Dunkel hinsinkt ;
(おお、すべては闇のなかへ崩れ落ちるのか:Anif)

Groß ist die Schuld des Geborenen.
(生れ落ちたものの罪は深い:同上)

unter saugenden Bäumen wandert ein Dunkles in Abend und Untergang,
(深く大気を吸い込む木々の下で、暗いものが夕暮れと没落のなかをさまよう:Siebengesang des Todes)

O des Menschen verweste Gestallt :(おお 朽ちていく人間の姿よ:同上)

O, die bittere Stunde des Untergangs, (おお、没落の苦い時よ:Abendländisches Lied)

Der Erde Qual ohne Ende. (終わりのない地上の苦しみ:Vorhölle)

die Nacht das verfluchte Geschlecht verschlang
(夜が呪われた種族をむさぼるように覆い尽くした:Traum und Umnachtung)

 

ここにも初期にも増して深化していく罪と没落の意識が明確に窺がえます。

また、抽象的な表現を幾つか引き出してみると次のようになります。

 

Ein blauer Aungenblick ist nur mehr Seele.
(青い瞬間はもはや魂にすぎない:Kindheit)

Blaue Tauben
Trinken nachts den eisigen Schweiß,
Der von Elis'kiristallener Stirne rinnt.
(青い鳩が 真夜中、エーリスの水晶の額から流れる 氷の汗を飲む:Elis)

Ein blauer Falter aus der silbernen Puppe kroch.
(青い蝶が銀色の蛹から這い出した:Sebastian im Traum)

Im Dunkel der Kastanien lacht ein Rot.
(栗の木の暗がりで、赤いものが笑う:Die Verfluchten)

O, die purpurne Süße der Sterne. (おお、星々の深紅の甘さよ:An einen Frühverstorbenen)

Mond, als träte ein Totes / Aus blauer Höhle,
(月は青い洞窟から死んだもののように姿をあらわす:Abendland)

 

上記の例に見られる抽象的なヴィジョンは、殆ど何らかの色彩を伴なって表現されていますが、その色彩語は多くの場合、通常の気分的価値を含まない色彩抽象として用いられており、こうした自律的な色彩の使用は表現主義の画家たちにも見られる特徴です。

この色彩語については後に考察しますが、テーマの最後として、彼の最後期の作品を見てみることにします。最後期の「ブレンナー」誌に発表された14編の詩は、すべて1914年3月以降に書かれたもので、従軍後の作品も3編含まれており、彼の予期していた「死」と「滅び」の世界が現実に戦争という形で出現し、生々しい凄惨な光景が純粋な悲劇的結晶となって描かれることになります。

 

Klage

Schlaf und Tod, die düstern Adler
Umrauschen nachtlang dieses Haupt:
Des Menschen goldnes Bildnis
Verschlänge die eisige Woge
Der Ewigkeit. An schaurigen Riffen
Zerschellt der purpurne Leib
Und es klagt die dunkle Stimme
Über dem Meer.
Schwester stürmischer Schwermut
Sieh ein ängstlicher Kahn versinkt
Unter Sternen,
Dem schweigenden Antlitz der Nacht.

 

嘆き

眠りと死、陰鬱なワシが
夜通しこの頭のまわりでざわめき
金色に輝く人間の肖像は
永遠という冷たい波に飲み込まれたようだ
鋭く尖る岩礁に深紅の肉体は砕け散り
海では暗い嘆きの声がこだまする
激しい憂愁にわななく妹よ
ごらん、不安に駆られた小舟が
星々のもと
もの言わぬ夜の狭間に沈んでいくよ

 

これは従軍後の1914年9月、死の二ヶ月前に書かれた作品です。ここから聞こえてくるのは陰鬱なワシの羽ばたきと、傷ついた兵士の呻き声だけであり、彼の魂はすでに肉体を離れ、妹の幻と共に滅びの世界へと取り込まれていく人々を遠くから見つめているような印象を受けます。そしてこれは悪夢などではなく、現実に彼の目の前にあった光景だったのです。

こうして「滅び」の現実は、最後の作品である「グロデーク:Grodek」において頂点に達し、その最終6行は次のように結ばれています。

Es schwankt der Schwester Schatten durch den schweigenden Hain,
Zu grüßen die Geister der Helden, die blutenden Häupter;
Und leise tönen im Rohr die dunkeln Flöten des Herbstes.
O stolzere Trauer! ihr ehernen Altäre
Die heiße Flamme des Geistes nährt heute ein gewaltiger Schmerz,
Die ungebornen Enkel.

黙した森をすり抜けて、妹の影が揺らめいている
勇士たちの霊と血みどろの亡骸を迎えに来たのだ
微かに葦の茂みでは、秋の暗い笛の音が響きわたる
おお 揺るぎない悲しみよ! 冷え冷えと立ち並ぶ祭壇よ
今日、心突き刺す苦しみが、精神の燃え立つ炎を
まだ見ぬ子孫らを育むのだ

この最後の作品にも最愛の妹の影が現れるのですが、それはもう深い罪の意識を喚起させる存在ではなく、死にゆく兵士たちに唯一の救いを与えるイメージにまで昇華されています。そして彼の絶叫とも取れる最後の3行を見てみると、そこには恐らく、揺るぎない悲しみ(stolzere Trauer:直訳すれば誇り高き悲しみ)としか表現できなかったであろう純粋な悲しみのみがあったのです。こうした戦争という地獄絵のもたらす ein gewaltiger Schmerz (暴力的な、凄まじい苦痛)によって煽られ、燃え上がった最期の精神の炎が、彼のすべてを焼き尽くして錯乱の闇へ突き落とすことになります。そしてこの苦痛は彼自身のものだけではなく、まだ生れてこない人類が今後背負わなければならないものなのだという恐ろしい予言でこの詩は閉じられます。

以上見てきたように、彼の詩の根底を支える、一貫した「滅び」というテーマは、時の流れと共に深化し、最後には世界の崩壊という現実となって彼自身をも飲み込んでしまいました。しかし、その作品は極限状態に至っても、負の情熱とでも言えるような、ある種の硬質な輝きを放っています。彼は内面に巣くう罪の意識と、迫り来る現実崩壊の不安を「滅び」というヴィジョン一点に集約して描写したのであり、罪の意識や不安感がつのればつのるほど、彼の作品は純度を増し、彼の苦悩は個を超えて普遍的なものにまで昇華されたと言えましょう。

以上、断片的にトラークルの作品テーマについて考察してきましたが、最後に彼の作品において最も特徴的で、表現主義的傾向の現れでもある色彩語についてみることにします。

 

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