
村山半牧
文政11年(西暦1828年)2月4日、村山半牧は三条古城町に生まれました。
父の名は左内といい、新発田藩の尾本竜渕に就いて学問を学び、のちに小須戸から三條古城町に移り住み塾を開きます。半牧には7人の兄弟がいました。長男は俊貞、幼名周治といい、後に三条小学校の筆頭教諭となりました。またのちに早苗と名を変えます。つぎに右琴(おこと)という長女がいましたが、13歳で亡くなっています。半牧は村山家の次男として生まれます。三男は善治といい、四ノ町で筆屋を営んでいました。別名遯軒、鳳池斎ともいいました。この遯軒の残した書により、後日半牧に関する様々なことが分かってくるのです。
その遯軒の残した書によると15、6歳の頃半牧は水原町の芋川家で商人奉公をしていたようです。その奉公中、天保15年(西暦1844年)正月、母奈加が42歳の若さで亡くなってしまいます。半牧はこの母の死を契機に奉公先を辞め、父の郷里の小須戸で子供達に手習いなどを教えるようになります。この小須戸時代に絵を描くことが多くなり、特に墨竹に熱を入れるようになりました。
絵を書くことに次第に興味が増してきた半牧は本格的に絵の修行をしたいと思うようになります。弘化3年(西暦1846年)半牧19歳の時、当時江戸で画家生活を送っていた長谷川嵐渓が三条に帰って来た時、半牧は嵐渓の弟子入りをします。翌年、嵐渓に伴われて江戸に出たのち約2年間、嵐渓の下で南宋画の画法を学びます。嵐渓は中国の元朝代から明・清代に至る諸家の作品を臨模することを指導しました。さまざまな作品の臨模を通して特に中国明代の沈周の作品が半牧の画風に深い影響を与えたと言われています。
ある日嵐渓が大切にしていた菅井梅関の描いた水西荘画巻が盗まれてしまいました。嵐渓は弟子の半牧を疑います。もちろん半牧が盗むわけがありません。自分が疑われていることを知った半牧は憤慨し、嵐渓の家を飛び出してしまいます。もはやこの師の下では絵の修行はできないと考え故郷三条を去ることを決意します。そして長崎を目指して一人旅立って行くのです。
半牧は、南宋画家斉藤畸庵とともに画の勉強に勤しみます。当時長崎には南画壇の三筆と謳われた祖門鉄翁、木下逸雲、三浦悟門等がおりました。半牧はその中の祖門鉄翁と木下逸雲に師事し、本格的に南宋画の勉強をします。
半牧の長崎での生活振りはどうだったかというと残念ながら史料が少ないためよく分かっていないようです。
安政元年の秋から冬にかけての頃、半牧は長崎を旅立ち、豊前の山国谷へ向かいます。山国谷、現在の耶馬溪を探勝したのち、羅漢寺を訪れています。一時樋山寺村(現在の大分県下毛郡耶馬溪町)に寄宿しここで水野鴬谷、村上醒石等と交友を深めました。
安政2年10月、半牧は京都に移ります。浄土宗知恩院内の支院常称院に住んでいたとされていますが、はっきりとはしていません。半牧はこの住まいを「読古書室」と名付けていました。京都に落ち着いた半牧は江馬天江、山中静逸、藤本鉄石と親交を結ぶようになります。とくに藤本鉄石との交友は半牧に大きな影響を与えました。このころから半牧の画風が変わってきたようです。それまでは長谷川嵐渓の影響を色濃く受けていましたが、柔らかく伸びやかに画かれたものが見られるようになったといいます。そして安政6年(1859)に初めて半牧の雅号を使うようになるのです。文久元年(1861)には京都、二条木屋町通り下ルの地に住み替えています。
この年の四月になると淡路島に渡り、お寺や商家、豪農の家などに滞留し、画を描き続けました。ところが翌年半牧は病になり、京都に帰ることができなくなってしまうのです。同年、播州赤穂の富商前川覚助の家に逗留し、療養することになったのですが、このとき半牧は覚助の妻千鶴に画を教えており、後にこの前川千鶴は「采藻女史」として赤穂地方にその画名を残すようになるのです。
文久2年(1862)7月、ようやく半牧は京都に帰りました。そのころの京都は尊王攘夷運動が盛んになり、暗殺が横行するなど市中は不穏な空気に包まれていました。翌年、孝明天皇の賀茂両社への行幸を見た後、新しく弟子となった筒井香山を伴って、再び播州赤穂の前川家を訪ねます。
文久3年(1863)8月14日、孝明天皇の大和行幸の詔に呼応し、19歳の前侍従中山忠光を擁した吉村寅太郎、藤本鉄石等が、攘夷先鋒の勅命を奉じると、大和で討幕の挙兵をします。17日には五条代官所を襲撃して、大和を天皇の領とすることを宣言しますが、その翌日、禁門の政変が勃発し、京都の尊攘派は急速にその力を失っていきます。孤立した藤本鉄石たちは高取城攻撃にも失敗、更に天皇、幕府の追討命令を受け、ついに、9月下旬、吉野で壊滅してしまいます。
そしてこの訃報を半牧は赤穂の地で知ることになるのです。
元治元年(1864年)6月。ついに半牧は故郷三条に帰ってきます。当時、半牧の弟村山善次郎は四之町で筆屋を営んでいました。最初半牧はここに身を寄せました。しかも弟子の筒井香山と一緒でした。善次郎(遯軒)の居宅はわずか10坪ほどでしたから窮屈な生活を強いられたことでしょう。香山はまもなく新潟の生家へ帰っていきます。
半牧は新潟へ行ったり、柏崎へ行ったりと転々としていたようです。帰郷してから半牧は次第に討幕運動にのめり込んで行きます。慶応元年(1865年)11月、 古城町の三社様の前の一軒家に居を構えます。 実はこの半牧の三条での居宅場所については旧二之町、森山歯科医院あたりにあったと言われていましたが、善次郎の書いた記録などから、現在の元町、長野さん宅であることがわかりました。
半牧はこのアトリエを「吹塵亭」とか「吹塵舎」などと呼んでいたようです。生活が定まった半牧はこのアトリエで数多くの作品を描いています。慶応3年の春には、弥彦神社の社家荒川家から妻たけを迎えます。ようやく半牧にも至福の時が訪れたようですが、旧幕府軍から次第に半牧の行動がマークされるようになってきます。
慶応4年(1868年)、薩摩藩・長州藩を中心とする新政府軍は鳥羽・伏見の戦いの後、北陸道から越後へ進軍して行きます。ついに新政府軍は5月19日に信濃川を渡り、長岡城下への奇襲攻撃をかけ、わずか半日で落城させ、長岡藩兵は栃尾まで退却させられました。旧幕府側も討幕運動に加担する人々の取締を厳しくします。
同じ5月、三条は集中豪雨に見舞われます。同月20日古城町の半牧の屋敷も床上浸水してしまったため、単身で片口の松尾与十郎宅へ避難します。半牧を迎えた与十郎は、この時長岡城が既に落城し、敗走した総督河井継之助は藩の残兵とともに加茂に集結していることを知っていました。23日与十郎は危険が迫った半牧を内町村(現見附市)の近藤祐次郎宅へと逃がします。24日になると半牧は与板城下で一泊し、25日に再び内町村へと戻ってきます。そして26日に半牧最後の地となる焼田所山の山麓にある物置小屋に潜伏するのです。
翌月13日の午後、半牧の弟善次郎が訪ねてきます。この時善次郎は半牧に同志の小柳春堤、雛田松渓らが捕らえられたこと、半牧自身に対しても村上藩主の探索が始まったことを告げ、そしてどこか別の所へ逃げるよう進言します。弟が帰ったあと、半牧は御領主までが自分を捕まえようとしていることに強い衝撃を受け、思案のあげく遂に自ら命を絶つことを決意するのです。運命の日の6月13日、半牧は夜が明けるまで三通の遺書を書上げます。二通は兄早苗と善次郎宛に、一通は妻の実家宛のものでした。そしてその遺書の中に次の辞世歌がしたためられていたのです。
すめらぎの 道とふミちはあれは わくかたもなき 世こそつらけれ
もう一首
月も日も みな常暗となれる世に 我ひとつぎの 魂はものかわ
実はこの二首、実際は変体仮名で書かれているのです。世に紹介された二首とは内容が違っているのです。後日弟などが歌の意を改ざんしたようなのです。14日の早朝、半牧は遂にその命を絶ちます。半牧41歳。あまりにも若い死でした。
(丸橋康文著「村山半牧小伝」) (「村山半牧展」丸橋康文氏解説文より)
