三条という地名はいつから使われていたのですか?


三条市史に、初めて「三条」の文字が出てくる古文書があります。

「僧都覚有一跡配分目録」です。永徳2(西暦1382)年に「熊野御師覚有が、
三条七日市場政所左阿ミた仏引の旦那株などを慶達房に譲った」という文のなかに 三条という地名が出で来るのです。この古文書は熊野本宮大社に所蔵されています。つまり西暦1382年、分かり易く言うと応仁の乱の17年前に三条と言う地名があったということなのです。

また京都府福知山市の桐村家所蔵の「大中臣氏略系図」の中に三条庄の地名があるのです。桐村家は中世の武士大中臣氏の一族で、鎌倉時代後期に、丹波金山郷地頭に赴任した大中臣経久を元祖とする家系です。この家系図は延慶二年(西暦1309)に記されたものです。この家系図を辿るとこの一族が、日本各地の土地を管理していたことが分かります。 この「大中臣氏略系図」の中に、越後国三条庄、大槻庄小河山と記されている文面があるのです。またこの古文書のなかに三条三郎国実の名前や大槻四郎左衛門尉実村の名前も見て取れます。ここにも三条と言う地名が出てくるのです。

さて延慶二年は鎌倉時代になります。学校で習ったように12世紀末に、源頼朝が 鎌倉幕府を開きました。頼朝は地方を支配するため地頭職を設置。具体的には荘園・国衙領を管理支配しました。地頭職自体は平氏統治時代より以前からありましたが、源頼朝が朝廷からの認可を得て、正式に全国に設置したのです。地頭は在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領の軍事・徴税・行政、土地、百姓などを管理したのです。

前に述べたように三条三郎国実の名前や大槻四郎左衛門尉実村の名前を見ての通り、彼らが三条、大槻の庄を管理統治していたことが推測できるのです。そして鎌倉時代には既に三条と言う名前が使われていたことが分かるのです。