三条にも荘園があったのですか? 


まず歴史を復習します。奈良時代の始め、政府によって土地などの管理支配が行われていました。当時、人口の増加が進み、それに伴って経済の規模が拡大していきました。そこで政府は大規模な開墾計画を進め、税収の増加を図りました。学校でも習いましたが、三世一身法が定められ、一時的ですが開墾した農地の私有を認めたのです。
 けれども返還の期限が来ると苦労して耕した田を返さなければならないため、次第に開墾する人々が少なくなってきました。そこで次に考えたのが墾田永年私財法といって開墾した田の所有を永年にわたって認めるというものでした。

 さあそうすると、財力を持つ中央の貴族や地方の豪族、力のある寺院や神社がこの時ぞばかりにこぞって開墾を行ったのです。その結果、広大な土地を所有する者が次々に出てきたのです。特に近畿地方に顕著に現れました。そしてこの私有となった土地を「荘園」と呼んだのです。

 また大規模な私有地を管理運営するため、荘と呼ばれる、その土地土地に穀物などを補完する倉庫やそれを管理する人々の屋敷が作られました。しかしこれらを管理するために経済的に相当な負担を強いられました。そのため10世紀の終わりごろにはこういった荘園の形は次第に姿を消していったのです。(こういった荘園を初期荘園と言います)

 さてこの時、越後に初期荘園はあったのでしょうか?
それでは市史を紐解いてみましょう。
越後の荘園が史料の上に現れる最初は、宝亀11年(780年)の「西大寺資財流記帳」に出てくる・・・とあります。この「西大寺資財流記帳」とは何でしょう。分かりやすく言うと、奈良時代の西大寺の詳細な寺院の所有する財産目録だということです。

 西大寺を調べてみますと、このお寺は奈良市西大寺芝町にあって奈良時代に孝謙上皇の願いによって建立されました。当時は南都七大寺の1つとして壮大な伽藍を誇りましたが、平安時代になると一時的に衰退したとあります。

 ここで京都大学附属図書館所蔵の西大寺資財流記帳を見てみます。(バナーをクリック)このなかで田園山野図として諸国の荘園・荘家等が列記されていることがわかります。

 越後國七巻
  一巻頸城郡櫻井庄 印在國印
  一巻同地津村庄  紙在國印
  二巻蒲原郡鶉橋庄 一布 一紙 並白
  一巻同庄 紙在國印
  一枚同郡槐田庄  紙在國印
  一巻志郡三枝庄  白紙

確かに越後に初期荘園は存在したのです。
しかも下から二行目 「一枚同郡槐田庄」すなわち蒲原郡槐田庄、これが
 三条に関わる荘園と言われているのです。しかしこれ以後槐田庄の
名前は史料には出てこないのだそうです。

つまり西暦780年ころ、荘園を管理運営する建物や人たちがいた槐田庄なるものが三条のどこかにあったのです。

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