米百俵の重さは何キロあったのか?

 当時の一俵の米の容積量は、およそ四斗三〜四升(80リットル弱)
 運ぶ途中でこぼれる分の名目で、少し割増されていたとおもわれる。
 重さは、約60キログラム、大人の男性がかつげる重さ。
 三根山藩から届いた百俵の米約六トンを運ぶのに、
 二人がかりで押し引きする荷車で六俵ずつ、計算上では、17台が必要だった。

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小林虎三郎 (1828〜1877)

 小林虎三郎は佐久間象山に学び、その才能が非凡で、
吉田 寅次郎(松陰)とともに「象山門下の二虎」と称されました。
病翁(へいおう)と名のり、戊辰戦争後、長岡藩大参事に推 されました。
焦土のなかで「国がおこるも、まちが栄えるも 、ことごとく人にある。
だから人物さえ出てきたら、人物さ え養成しておいたら・・・」と
教育第一主義を唱え、支藩三 根山藩からの救援米百俵をもとに、
国漢学校を設立し、多く の人材を育て上げました。
戊辰戦争の戦火で、250年余りをかけて築き上げた 城下町長岡は廃虚と化した。
藩士たちの生活は苦しく、 食うや食わずの毎日がつづく。
明治3年(1870)困 窮した長岡藩を見かねて支藩・三根山藩(西蒲原郡巻町 )
より救援米百俵が贈られた。米の配分を一日千秋の思 いで待つ藩士。
やがて藩からの通達が出る。
「この百俵 の米は文武両道に必要な書籍、器具の購入に充てる」。
いきりたつ藩士。「その日くらしでは長岡は立ち上がれ ない」と、
教育の大切さを説く大参事小林虎三郎。そし て新生長岡のため、藩は百俵の米を売却し、
貴い代価を 国漢学校の費用に充てたという。これが有名な「米百俵 」の故事であり、
文豪山本有三の同名の戯曲により広く 知られることとなった。