太陽・作

プロローグ



オスカルは、明日からはもうここ、陸軍幼年士官学校に来ることもないのだと、夕陽に茜色に染まった校舎を眺めながら、感慨深く中庭を一人ゆっくりと歩いていた。

国王陛下のご命令により、まだここを卒業もしていないのに、女だという特別な理由で近衛隊に入隊することが決まったのだった。

短い間だったが、ここでの学校生活は彼女の今までの人生では出会ったことのない感情と、初めて出会えた場所でもあった。

級友たちとの確執、傍から見れば特別扱いとも思える彼女の立場への嫉妬、誹謗、中傷、普通の女性として生きていたら、絶対に知ることの無い世界を経験した。それらに時に涙し、傷つき、殴り合いの喧嘩もし、精神面を鍛えられた。彼女の顔には良く見るとこの頃の喧嘩の名残が左眉の上にほんの少し残っているのだった。彼女自身はこの傷を全く気にしてはいなかったが、彼女の乳母が残ってしまった傷を見て、大騒ぎして泣いたらしい。

自分以外は全員男だけの世界で、文字通り血の滲むような努力を重ねて、理論だけではなく、銃や剣の扱いまで含む実務でも首席の座を今日まで守り通してきたのだった。彼女の銃と剣の腕前は、今や伝説的でもあった。

(そんな子供時代も、今日でお別れだ。明日からは、近衛隊か・・・。)
感傷に浸るオスカルの後ろからレジーが声をかける。

レジーヌ・フランセット・ド・フォーレ。
陸軍幼年士官学校のオスカルの同級生だが、オスカルと正反対に男なのに女の名前を持っていた。海軍で名を馳せる父フォーレ将軍は彼女の父ジャルジェ将軍とも旧知の仲だった。彼はフォーレ伯爵家の三男だが、上の二人の兄は生まれると直ぐに亡くなってしまっていたため、彼が嫡男だった。彼の両親は、男の名前を付け、男として育てては決して育たないという占い師の言葉に従って、彼に女の名前を付け、幼年仕官学校に入学するまでは女として育てたのだった。

それはオスカルが女で、男の名を持っていることと同様に他の同級生からは苛めやからかいの原因となり、二人は他の同級生とよく喧嘩をする羽目となった。

レジーは(レジーヌと呼ぶとまず間違いなく殴られる)、肩まだかかる蜂蜜をとかしたような色のストレートの金髪とすみれ色の瞳を持つ、見目麗しい美少年だった。少女たちが彼を見かけたら、10人が10人とも微笑みながら振り返るような好感の持てる容姿をしていた。

その為に父フォーレ将軍は、自分の所属する海軍の士官学校ではなく、近衛連隊に入隊させるべく陸軍士官学校に彼を入学させたのだった。 けれど、きれいで優しそうな外見とは違い、かなり喧嘩っ早い正義感の強い少年だった。

レジーとオスカルのコンビは、仕官学校でかなり有名だった。二人黙って歩いていれば、二人とも少女と見間違えるような、華麗な容姿だった。
(但し、ここで女みたい若しくは女だなどと言うと今度は二人に殴られる。彼女も彼に負けず劣らず喧嘩っ早かった。)
そして、実技でも学科でも、オスカルが首席で、彼が次席だった。それだけに他の同級生や上級生、下級生の嫉妬と羨望を一手に引き受けてしまっていたのである。
この二人は性別こそ違うが、良く似ていた。無鉄砲で激しやすい性格と強情なところは瓜二つと言っても過言ではなかった。

「おーい、オスカル。」
レジーは、前方に見えたオスカルに手を振りながら声をかけた。
「あっ、レジー。」
オスカルは振り返って彼を認めると立ち止まり、彼と二人で並んで歩き出した。
「お前、今日で学校辞めるんだって。」
「うん、女だから特別に王太子妃付きで、近衛連隊に入隊することになったんだ。嬉しいのか、寂しいのか良く分からないんだけどな。」
「そうか、お前がいなくなると寂しくなるな。でもこれで、同期の間では少しは喧嘩が減るだろうな。」
「レジー、お前のおかげで退屈しなかったよ。でも、お前も確か近衛が希望なんだろう? 待っているから、早くこいよ。でも、きっとその頃には私の方が上官だけどな。」
「そうだな、いつかまた会おう」

二人ともお互いを憎からず思っていたのは確かだった。
今日でもう会えない、そう思って初めてお互いが大事な存在だということにおぼろげながらも気が付いたのだった。でも、まだほんの子供の初恋だった。

さよならの握手をする為にオスカルが差し出した右手を、彼は一瞬躊躇した後、捕らえると引き寄せてオスカルに口づけた。唇が軽く触れ合うだけの、かわいいキスだった。オスカルは、何が起こったのか分からず、ぼーっとしていた。彼はそのまま腕を離すと、
「さよなら、オスカル。君が好きだったよ・・・。」
そう言って走り去ってしまった。オスカルは蜂蜜色のブロンドを夕陽に赤く染めて、小さくなって行く彼の後姿をただ見つめ、柔らかだった彼の唇の感触を思い返して、一人頬を染めていた。
「さよなら、レジー・・・、私は・・・」
彼女の呟きは誰にも聞かれずに消えていった。
本当は彼女も言いたかったのかも知れない。
でも、言うことは許されなかった。彼女は既に武官としての道を歩き始めることが決まったのだから。

オスカルの脳裏には、初めてのキスの感触と、目を閉じても赤かった、色鮮やかな夕陽だけが、淡い初恋の相手、レジーとの最後の思い出として鮮明に焼きついていた。



第 1 章

 


枯葉の舞い散る近衛隊の錬兵場で、訓練の指揮を終えたオスカルは、冬の澄み切った空気に尚赤さを増す夕陽を見つめて、遠い少女の頃の初恋を思い出していた。

レジーは、今どうしているのだろう。彼は結局近衛にはこなかった。
風の噂で父上と同じ海軍に行ったらしいと聞いていた。
どうだ、レジー? 
私はもう近衛連隊長で、准将だぞ。お前よりきっと昇進は早いだろう。
同期で私が出世頭だからな。今お前はどこで、何をしているのだ? 
レジー、会って見たいな・・・。

「隊長、オスカル隊長。」
レジーとの思い出に浸っていた彼女に、首席副官のジェローデル大尉が声をかけた。
「何だ? ジェローデル大尉。」
「実は内密にお話しが・・・。」
「よし、ここでは何だから。では連隊長室で話を聞こうか。」
「はい。」二人は、連隊長室に向かって歩き出した。

二人は部屋に入ると彼がドアに鍵を掛け、彼女は自分の執務机に座った。
ジェローデル大尉は、部屋の中に他に誰もいないことを確認し、そして部屋の窓とカーテンをきちんと閉めた。
「何だ、内密な話というのは? 穏かな話しではなさそうだな。」
オスカルも彼の用心深い態度に尋常でないものを感じ、声を落として聞いた。彼はオスカルの机の前に立つと、
「実は王妃様暗殺計画が進んでいるらしいのです。」と声を潜めて言った。
「何だと。情報の出はどこだ。」オスカルの蒼い瞳がキラリと光った。
「フランスbP諜報員『ブルーシャーク』からです。あのテロ組織の『銀狼』が動き出したらしいのです。」
「何だって、あの『銀狼』が・・・。冷徹で目的の為には手段を選ばない、『銀狼』か。拙いな。もうすでにあの組織の所為であちこちでかなりの被害が出ているからな。他に詳しい情報は何か入ってきていないのか。
それだけでは、王妃様を守りようがないではないか。」
「今入っている情報は、『銀狼』のボスと目される人物が近々ベルサイユに現れるということなのです。コードネームは『ホワイトタイガー』と呼ばれています。国籍、性別、身長、体重、髪・瞳の色、一切が不明です。もちろん顔を知っているものは誰もおりません。『ブルーシャーク』からも何か掴めたらもう少し情報も入ると思いますが。」
「よし、では取り合えず、王妃様の警護の人数を今までの倍にしておいてくれ。それと、ここ1ケ月間くらいの王妃様のスケジュールの確認を頼む。副官を全員呼んで、相談しておいてくれ。くれぐれも情報の漏れのないように。しばらくは、王妃様を警護しにくいところへお連れすることのないように、気をつけてくれ。確認調整が終わり次第、私まで報告を。それと、過去の『銀狼』が係わったと思われる事件の総ての資料を 集めてくれ、こちらも悪いが明日の朝までに頼む。」
「はい、了解致しました。」
「では、頼む」
「失礼します。」
ジェローデル大尉は静かに部屋を後にした。

一人残ったオスカルは、近衛連隊長として『銀狼』には絶対に思い通りにはさせないと、決意を新たにしていた。間もなく、王妃主催の舞踏会が盛大に開かれることになっていた。それだけに警護に万全を期さなくてはならない。オスカルの両肩には、王妃様を無事に守りぬかなくてはならぬ責務が重く圧し掛かっていた。

勤務を終えてジェルジェ家へ向かう馬車の中で、オスカルは、アンドレにはことの顛末を話した。本当は彼は軍人ではないので、秘密にしておくべきことではあるが、彼はオスカルと常に行動を共にしている為、彼に内緒のまま、動くのは難しい為だった。

そのとき、突然馬車が大きく揺れた、御者の悲鳴が聞こえる。
「オスカル!」
「有難くない、お客さんみたいだぞ。アンドレ、剣を。」
馬車の周りをかなりの人数の黒装束の輩が取り囲んだ。
オスカルは、剣を持つと馬車から降りた。
「近衛連隊長、オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェと知っての狼藉か?」
背筋を伸ばし、凛とした声で叫んだ。
「そうだ、我らは『銀狼』だ。」黒装束の一人が良く通る声で答えた。
「『銀狼』が私に何の用だ。」
「あなたのお命、頂戴する。」
「頂戴すると言われて、はいそうですか、と渡すわけには行かないな。 持っていけるものなら、力ずくで持っていけ。」
オスカルは剣を抜くと、シニカルな笑みを浮かべて、前へ進んだ。
「アンドレ、気をつけろよ。雑魚が多いからな。」
「解った。オスカル、お前もな。」
「雑魚だと! この野郎、かかれ。」
「生憎、野郎ではないのでね。剣の扱いに慣れていないのではないか?」
オスカルはアンドレと背中を合わせて、賊と向かい合うと華麗なる剣捌きで、賊と剣を合わせた。剣と剣がぶつかる金属音が、辺りにリズミカルに響く。

相手の利き手を狙って剣を一本、また一本と次々に落としていった。相手に致命傷を与えず、戦えないように軽い傷を負わせていった。士官学校に伝説となって残るオスカルの剣の妙技。それは基本に忠実で 生真面目で、そして動きに無駄のない、素早くしなやかな剣捌きだった。それは真似しようとして真似できるようなものではなかった。もちろん彼女の努力もあるが、天性の才能といえるだろう。 踊りでも踊っているような美しい動きに敵も圧倒されていた。

しかし、敵の人数の多さに、さすがにオスカルも疲れてきていた。何せ多勢に無勢だ。動きが少しずつ、鈍くなってきた。剣の切っ先にも鋭さが感じられなくなってきている。拙いなと密かに彼女が思ったとき、相手の攻撃を受け損ねて、自分の剣を落としてしまった。
「し、しまった・・・。」
「オスカル!」
アンドレも自分と対峙する敵と戦うだけで精一杯で、彼女の応戦に回る余裕はなかった。
「どうした、連隊長殿。もう、お終いか?」
じりじりと間合いを詰められる。オスカルは少しずつ後ろに下がりながら背を伝う冷や汗を感じていた。
そのとき「オスカル!」と自分を呼んだ声があった。
瞬時にその声の方を振り返ると、一振りの剣が抜き身のまま自分に向かって投げられた。その剣をはっしと受け止めると、賊の手を一突きに貫いた。
「畜生! 覚えていろよ。退けーっ!」
決まり文句を残して、ばらばらと黒装束の輩は、森の奥に消えていった。

辺りは急に静けさを取り戻した。
「オスカル、大丈夫か?」
アンドレは、彼女の剣を拾うと声をかけた。
「ああ、危なかったな。この剣のおかげで命拾いをしたぞ。しかし、この剣は一体、誰が?」
オスカルは、残された剣を見て、フランス海軍の剣だろうと見て取った。
「『銀狼』め、私を襲うなどと、必ず思い知らせてやるからな。アンドレ、何か他に残っているものはないか一応確認してくれ。少しでも、手掛かりになればいいのだが。」
「解った。」
アンドレは、馬車の周りを手掛かりを求めて、捜索していた。
結局、森の中から先ほどの剣の鞘が一つ見つかっただけだった。

オスカルは、これが『銀狼』との戦いの第一歩だと感じた。
これから続くだろう厳しい戦いに自らの心を引き締め、必ず『銀狼』を潰してやると心に誓うのだった。


-つづく-