太陽・作

第 2 部

 

第2章 風と空と海と

 

 

登場人物紹介

 

エミーが彼女に付いて来るように声を掛けた。
「本当に動きが速いですね、私もあれからトレーニングうんと増やしましたよ。」
「ずっと馬車に乗りっぱなしだったから、ちょっと動きが鈍かったような気もする。今日はトレーニングもしていないし。」
「後でトレーニングに付き合いましょうか?」
「そうだな、頼もうかな。」

士官用のメスルーム(食堂)に行くと、レジーはもう食事を済ませ、一人優雅にコーヒーを飲んでいた。ラップ少将もすぐ降りてきて、オスカルと エミーと一緒に食事をとるべくテーブルに付いた。
「今見学させて貰ったが、噂以上だな。」
「は? 見て居られたのですか。」
「近衛を辞めて、うちにこないか? 是非とも欲しいな。」
「また、ご冗談を。」
「ははっ・・・。冗談だという事にして置かないと、誰かが怒るかな。」
レジーがコーヒーカップを手にしたまま、ものすごい顔で睨んでいた。
「でも、真実を知ったときの皆の驚く顔が早く見てみたいな。レジーとなかなか面白いコンビになりそうだ。でも、二人とも喧嘩っ早いのは困りものだな。誰か止める者がいないと。」
ラップ少将は、レジーの顔を見ると意味深に笑った。
「8点鐘(*1)(午後8時)が鳴ったら、司令 長官室に集まってくれ。仕事の説明をする。」
「はい、解りました。」

オスカルは食事を済ますと、8時まで特にすることもなかったので、甲板で海を見つめ風に当たっていた。
水夫長が後ろからオスカルに声を掛けた。
「船はどうだ、気に入ったか。」
「もちろん、なかなか面白いぞ。この船は どのくらいのスピードが出るのだ?」
「そうだな、風が全くなければ全然進まないが、良いときで8ノット(*2)、平均すると 5ノットというところかな。」
「ふーん、思ったより船って速くないのだな。」
「そうかも知れないな。でも、今回は、きれいな貴婦人が乗るって噂だったから、 楽しみにしていたのになあ。女は一人乗っていることは乗っているが、あいつは前にも 何回か乗ったことはあるし、しかもきれいとはちょっと言い難い。俺は細めの美人が好みなのだ。いつもの乗組員と違うのはお前一人しかいないし、噂なんて当てにならないな。 お前何か知らないか?」
「いや、残念だが知らないな。それより、マストに登ってみたいのだが、構わないか?」
「マストに登ってみたいって? 変わった陸軍将校だな。今まで海軍以外の将校で登ったやつはいないぞ。構わないが、一人で登れるのか?」
「大丈夫だと思う。」
「そこのシュラウド(*3)に捕まって、ラット・ラインを踏みしめて登れ。気をつけろよ、トップ(見張台)の高さは、約30mだから、落ちたらひとたまりもないぞ。」

オスカルはシュラウドに手を掛けて、登り始めた。帆走している船の上なので、いくら 今日が凪いでいるとはいっても多少の揺れと傾きは感じていた。子供のころから高いところが大好きだったオスカルは、喜んで登っていった。トレーニングで腕の筋力もかなり付いていたので、思ったより簡単にトップまで登りきることができた。トップにいた ワッチの二人が急に登ってきたオスカルに驚いていた。トップに立つとオスカルはまず甲板を見下ろした。さすがに高く、甲板に立つ水夫長がすごく小さく見える。周囲を見まわすと夜空の月と星、そして海しか見えない。こんなに高いところに登ったのも初めてだし、心配性のアンドレや乳母に怒られないので、うれしくて仕方がなかった。

見張りの一人がそんなオスカルに声を掛けた。
「嬉しそうですね。昔、ブロンドの海軍士官が初めてこの船に乗ったときのことを、思い出しましたよ。やっぱり綺麗な顔でからかわれて、その頃の水夫長と先程と同じように喧嘩になったのです。」
「それでどうなった?」
「もちろん、彼が勝ちましたよ。あのころからずば抜けて強かったですね。気も短かったですが、その辺は今も余り変わってはいませんね。」
「そうか。」
「その後、やっぱりここに嬉しそうに登っていましたっけ。今では偉くなって、この船のセカンド・コマンダンテになりましたがね。」
(レジーだな、ふふっ、自分だって同じじゃないか。)
「彼はもう登らないのか?」
「いいえ、今でも考え事や、辛いことが 在った時、そこのヤード・アーム(帆桁)の端に鳥のように止まっていますよ。」
カン・カン・・・カン・カン・・・カン・カン・・・ カン・カン。
「あっ、8点鐘だ。行かなくては。おもしろい話しを聞かせてくれて、ありがとう。」

オスカルは甲板へ降りると、司令長官室へ 向かった。中に入るとラップ少将、レジー、エミー そしてシルビィがいた。
「全員揃ったな、そこへ座ってくれ。」
全員がテーブルを囲んで座った。そしてラップ少将がおもむろに口を開いた。
「今回はかなり厳しい任務だ。最近フランスにある新種の麻薬が入ってきている。これは今までの麻薬と全く違って、かなりの即効性、中毒性を持つ、悪魔の薬だ。」
「そう言えば、聞いたことがあります。確か "ストーム"(*4)と呼ばれている薬ですね。」
レジーが答えた。
「そうだ、今は金持ちの貴族にだけ手に入るらしく、被害もまだ少ないが、これが フランス中に広まったら、大変なことになる。この"ストーム"を扱っている組織が最近イギリスからフランスに上陸したと先に潜入していた諜報員から、情報が入った。但し、組織の本部はイギリスにあるらしい。かなり大掛かりな組織らしく、まだ全容が掴めていないのだ。それに潜入していた諜報員からその後の連絡は途絶えたままになった。彼の身に何か起こったと考えるのが普通だろう。」
「『ブラック・オルカ』ですか?」
「そうだ。」
前回のアメリカでの任務でレジーと組んでいた男だった。 諜報部に入ったのがレジーと同じ頃だったので、かなり親しい付き合いがあった。
「彼の現在の状況は全く解らないが、何とか救い出したい。それと我々の動きとは別にオスカルの試験の相手を務めた『サザン・クロス』と『ドラゴン・ノアール』の二人も別行動で組織のフランス支部に潜入を試みている。」
ラップ少将はレジーとオスカルに視線を移すと言葉を続けた。
「そして、君たち二人は金持ちの貴族の夫婦という振れ込みで組織の焙り出しをして貰いたい。イギリスを旅行中の金持ちのフランス貴族が暇で刺激が欲しいというやつだな。 向こうが近づいてくるまで、派手に遊んで貰おうか。」
「解りました。」
オスカルが答え、レジーはただ、頷いた。エミーはオスカルを男だと思っているので、不思議そうな顔をしていた。
「そして、組織の正体を調べ、イギリスの本部、フランスの支部、すべてを撲滅し、麻薬を一掃するのが我々の目的だ。かなり厳しい任務になると思うが、頑張ってくれ。」
「エミー、君は二人の従僕、そしてシルビィは侍女の役だ。」
「はい、そうすると彼は女装する訳ですか?」
彼の真剣な問いにラップ少将は答えた。
「女装? そうだな、そんなものか。」
エミーとオスカルを除く3人は笑い出した。エミーはみんながなぜ笑っているのか理解で きずにいたし、オスカルはかなり不機嫌な顔をしていた。

「船はイギリスのポーツマスへ向かっている。 上陸後は馬車でバースへ向かって貰う。その間この船はポーツマスの沖で錨泊する予定だ。細かい打ち合わせはまた、それぞれでやってくれ。シルビィ、衣装や小道具も用意してあるから、みんなに合わせておいてくれ。」
「はい、解りました。」
「それとオスカル。君は今回が初仕事になる。レジーと一緒だから大丈夫だと思うが、相手の組織もまだ全容が解らない状態だし、先に潜入している諜報員もどうなっているのか解らないくらい、危険な任務だ。一人で勝手な行動を絶対に取らないように、気を付けてくれ。」
「はい。」
「以上だ。」

オスカルとエミーは、そのまま船室には戻らず、甲板でトレーニングを始めた。オスカルはここ何日かは馬車に乗りっぱなしでトレーニングが出来なかった為、身体が重く感じられていた。

一人残ったレジーはラップ少将に尋ねた。
「以前、お願いした件はどうなっていますか?」
「頼まれた時点ですぐ手を打ったから、もう、それなりの成果も出ている頃だろう。でも、 本当にお前はそれでいいのか?」
「いいのです。今回の仕事を引き受けたときに決めたのですから。」
「もう少し器用に立ち回れないのか。ばかだな、お前は。」
ラップ少将は窓から海を見つめたまま静かに言った。
「そうかも知れませんね。」
ラップ少将の気持ちは嬉しかったが、レジーはそれ以上何も言わず、司令長官室を後にした。

オスカルがトレーニングを終え、船室に戻るとシルビィが待っていた。
「オスカルさま、着替えのお手伝いをさせて頂きます。」
「自分でするからいいよ。別に今は任務ではないのだから。ドレスは一人では脱ぎ着が出来ないから頼むけど。」
オスカルは軍服を脱ぎ、汗を拭きながらシルビィに尋ねた。
「シルビィは、レジーにずっと付いていたのか?」
「いいえ。最初は奥様付きでした。レジーさま付きになったのは、何年か経ってからです。あの日から、ずいぶんと経ちました。」
「シルビィ、結婚は?」
「いいえ、私は結婚致しません。」
「なぜ、好きな人はいないのか。」
「好きな人ですか? 居りますよ、片思いですが・・・。」
「なら伝えたらいいのに。」
「私がオスカルさまのように何もかもお持ちでしたら、伝えたかも知れません。でも、私はこの通りですし・・・。」
「シルビィの好きな人って、外見だけしか見ないような男なのか?」
「いいえ、決してそんなことはありません。女性の長所をお探しになるのが上手な方で、 とても優しいのです。私などのことも誉めて下さいますし、きっと顔の美醜や体型など気になさらないと思いますわ。」
「なら別に構わないではないか。」
「でも、気になるのが女心というものですわ。それにあの方に私は相応しくないのです。私はただあの方のお側に居られれば、それで・・・。」
「ふーん、そんなものなのか。」
オスカルはこの辺の事情に疎い方なので、彼女がここまで言っても、彼女の想い人が誰なのか解っていなかった。 シルビィにしてもレジーのことが好きだからこそ、諜報部に入ってまで彼の側にいようと思いつめていたのだった。
オスカルさまこそ、お好きな方はいらっしゃらないのですか?」
「私か? そうだな、今はいないな。」
「レジーさまのことは?」
シルビィは内心の不安をオスカルに悟られないようにさり気ない声で尋ねた。
「レジー? どうして、ここであいつが出てくるのだ。ただの友人だ。それとトレーニングの鬼コーチかな。」
「そうですか。」
「それに私はいつも私の側にいてくれて、 私だけを見てくれる人がいいのだ・・・。ふふっ、 何を言っているのだ、私は。ばかみたいだな。 さあ、もう休もうか。仕事のとき以外はオスカルでいいよ。おやすみ、シルビィ。」
「分かりました、オスカルさま。おやすみなさいませ。」

ベッドに入ったオスカルは、リギン(*4)を切る風の音や、船首が波を切る音、そして帆が風を受けてマストがきしむ音を聞きながら、いつしかレジーのことを考えていた。

あの取調室で、愛していると唐突に告白され、そして情熱的な熱いキスを受けた。
あれは 冗談? 
それともただの気まぐれ? 
あちこちの女に同じことを言っているのか? 
オスカルは取り止めもなく考えていたが、ギィー、ギィーとマストが歌う子守唄と、今日一日の興奮と疲れで、いつしか眠ってしまった。

船上での初めての朝を迎えたオスカルは、早速甲板に出ると辺りを見まわした。明るいところで見る新たな風景に心を踊らせていた。

360度海という初めて見る景色、風を孕んだ大きな帆の美しさに、そしてマストの高さに驚いた。トップマストを真下から改めて見上げた。トップにはもちろん、ワッチの人間が見えたが、その横のヤード・アームに 座り、船の進行方向を見据えたまま、身じろぎもしないレジーを見つけた。 オスカルはまたシュラウドを登ると、ヤード・アームに渡った。自分に一瞬視線を移したレジーの横に座るとしばらく黙っていたが、
「何を考えている?」と静かに声を掛けた。
「別に・・・。」
そう答えたレジーだったが、彼の心に澱のように溜まった哀しみ、それを潮風に癒して貰う為に、ここにいるのだった。彼の一番好きな場所、風と空と海と自分が一体となり、大空を飛ぶ鳥になれる場所、それがここ、ヤード・アームの上だった。今までに、彼は一体何人の仲間を失ったことだろう。そしてこの仕事を続ける限り、彼のこの哀しみは続くのだ。そして、今最愛の女性をその危険の只中に連れて行かなくてはならない自分の運命を呪いたかった。彼が顔を上げると、穏やかな表情でオスカルが自分を見つめ微笑んでいた。その蒼い瞳は何も心配はいらない、とレジーに訴えているようだった。
「ここは俺の指定席だ。」
「そうか・・・。でも私もここが気に入ったのだ。」
「降りたら、またトレーニングだぞ。」
「望むところだ。」
二人は軽く笑うとそれ以上何も言わず、ただ風に吹かれ、空と海を見つめていた。





―つづく―





8点鐘(*1) 時刻を告げる鐘。零時半を1点とし、30分毎に1点づつ増して4時の8点鐘で一区切りとして、また1から始まる。
4時、8時、12時が8点鐘となる。各8点鐘が当直交代の時間である。

ノット(*2) 船の速力を測る単位。 一時間で一海里(1852m)を走る速度。

シュラウド(*3) 帆船のマストを両舷側に張りをとって支持する静索で各舷に数本ずつを備え、これに足掛になる段索(ラット・ライン)を結びつけてマストに昇降する梯子として使用する。

ストーム(*4) こんな麻薬はありません。本物の麻薬名を使用するのは問題があると思いますので、架空の薬名・薬能を使用しています。

リギン(*5) ロープやワイヤー類の総称。




 

      

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