太陽・作


第 4 部

 

第 1 章 祈  り


 

登場人物紹介


ラップ少将はレジーの様子を見に来ていた。
彼の指示通りにレジーの身体は自傷できないように完全に拘束されていた。
「どうだ、様子は?」
「どうにもいけませんや。見ているのが辛くて・・・」
レジーの面倒を見ている水夫長のエドモンが答えた。 

レジーは目を開けてはいた。が、その目は焦点もうつろで何が映っているのか見当もつかなかった。痛みは凄まじいらしく全身が硬直している。このまま彼の体力はどこまで持つのか。猿轡を咬ませているせいで聞こえないが、レジーの唇はずっとうわごとのように同じ言葉を繰り返していた。それが愛する人の名前だと分っていたが、彼にはどうしてやることもできなかった。

ラップ少将は自分の命令のせいで苦しんでいるレジーを見て、自分自身を責めていた。彼もレジーが戻って以来、まともに食事も睡眠も取っていなかった。

「ラップ少将、彼を助ける方法はないんですかい?」
「手配はしてある。間に合えば良いが・・・。とにかく、気付けにラム酒を飲ませてやってくれ。」
そう言い残すとラップ少将は足取りも重く階段を登っていった。

 


  
オスカルがベルサイユに戻って既に 1 週間が経過していた。いろいろと情報を集めてはいるが、『レイヴン』の動きは今のところ感じられない。同じ諜報員の『サザンクロス』と『ドラゴンノアール』からも『レイヴン』についてもレジーについても、何ら情報は入ってこない。レジーが乗っている筈の「ル・ブロンニュー号」の行方もようとして知れない。ラップ少将はベルサイユで何かが起きるようなことを言っていたが、それは彼女をレジーから遠ざけるためのうそだったのか? それとも本当にベルサイユで何かが起こるのか? シルビィとエミーは本当に無事なのか?
  オスカルの神経は常に張り詰めていた。自分自身の不甲斐無さに腹が立って、まともに眠れず、食欲もなかった。
 
オスカルは、この日も寝不足で痛む頭をなんとか誤魔化しながら出仕した。
「隊長、おはようございます。」
副官のジェローデル大尉は、明るく挨拶をしながら自然に彼女の様子を伺った。彼は暫く隊を留守にしていたオスカルが戻ってきたことを喜んでいたが、日を追う毎に元気が無くなって行く彼女を心配していた。
 オスカルは自分の机の上に置かれた一通の手紙に気がついた。差出人の名前は表には書かれていない。
「これは?」
「先ほどまで何もございませんでしたが、変ですね。」
手紙を裏返して封蝋の印を確認したオスカルは、ジェローデルに部屋を出るように命じた。彼は何か言いたそうだったが、オスカルの表情が思いのほか険しかったので黙って退室した。彼の退室を見届けると、オスカルは急いで封蝋をナイフで切った。封蝋には諜報員同士の連絡用の印、五つ星が印されていた。
   
 
 

 エル・ドールへ 

  明日夜 10 時に下記の場所に一人で来られたし。 

 サザンクロスより 

 


 

 

指定された場所はベルサイユに近い大きな墓所の一角だった。
「『サザンクロス』か。『ドラゴンノアール』と共にフランスの『レイヴン』の支部に潜入していた筈だな。『レイヴン』の罠かも知れないが、行くしかないな。」

オスカルは地図を出し、墓所の正確な位置や方角等を入念に調べた。


   
  


  

かすかな呻き声が聞こえる。
かなり弱々しい声で。
もう、抗うだけの力が残っていないのか。
  
「レジー!」
オスカルは開く筈もない鉄柵を握り締め、大声で彼の名を呼んだ。
彼はそれでも彼女の声に反応し、ほんの少し目を開けるとオスカルに向かって優しく微笑みを返した。
その彼の顔の変貌振りにオスカルは一瞬息を飲んだ。むくみ、青ざめて精気が感じられず、別人のようだった。
オスカルは驚きと悲しみで喉が塞がり、声が思うように出なかったが、努めて普通に言った。
「頑張ると約束しただろう? 負けるな、レジー」
すると、かすかに彼の唇が動いた。
「オス・・・カ・・・ル、愛して・・・い・・・」 

(そうだ、レジー。いつものお前の笑顔で、もう一度その言葉を聞かせてくれ)
 けれど、いくら待っても彼の声はそれ以上聞こえては来なかった。
オスカルの目の前で、彼の身体からすべての力が抜けた。
彼女に向けられていた微笑が消え、すみれ色の瞳が空を泳いだ。
目は開いてはいるが、光は完全に失われていた。
今はもう呻き声さえも聞こえてこない。 

「レジー・・・?」

彼女の耳には、激しく船底にぶつかる波の音も、聞こえなくなっていた。
何の音もしない。見事なまでの静寂。
オスカルは声にならない悲鳴を上げた――。

 
 


 

オスカルは自分の悲鳴で飛び起きた。
「ゆ・・・夢か・・・。良かった・・・」
夢だと分っても、あまりにも現実味を帯びたその夢のために彼女の心臓は早鐘のように鳴り、喉の奥がちりちりと焼け付くように痛む。
彼女は自分が泣いていることにさえ気がついていなかったが、子どものようにしゃくりあげて泣いているのだった。

オスカルは、しばらく寝台の上で半身を起こしたまま動けずにいた。まだ眠ってから大した時間は経っていないらしく、屋敷は物音一つしない。だが彼女は、今夜はもう眠ることは出来ないだろうと寝台を抜け出した。窓に近づきカーテンを開ける。空には儚く輝く三日月が見えた。オスカルは月に向かって、長い間レジーの回復を神に祈った。 

オスカルは『サザンクロス』との連絡の件を頭の中で整理し直していた。そして精神を落ち着かせるために、寝る前に既に終わっていた武器の手入れをもう一度始めた。拳銃を分解し、掃除して、組み立てる。組み立てた拳銃を磨きながら、何かももう一手、進められることはないか考えていた。そして、ジャルジェ家に代々伝わる古地図があることを思い出した。通常の地図には書かれていないことを特別に書き記してある地図。オスカルは図書室まで行くと、その地図を広げた。

「ここが、例の待ち合わせの場所だな。とするとここが入り口でここが・・・。よし、見つけた」

 


  
     

すまない、オスカル・・・
もう、駄目かも知れない。
ここまで、必死で耐えた。
けれど、薬の禁断症状は少しも治まらない。
辛い、痛い、苦しい。

狂気と正気の境目はどこなのか、夢と現の区別がつくことぐらいか?
もう、すでに俺は狂っているのか?

  
彼はかろうじて正気の世界にいた。目を閉じたら狂ってしまいそうで、必死で目を開けていたが、焦点が徐々に定まらなくなってきていた。目を開けている筈なのに、何も見えてはこない。まぶたはどんどん重くなって行く。暗闇に引き摺り込まれるような感覚に、恐れ慄いていた。 

重さに耐え切れずについ目を閉じると、真っ暗闇の向こうに、明るい光が差し込みきれいな花が咲いていた。その花の側にオスカルが座っていた。


ああ、オスカルが笑っている・・・
オスカルが俺を呼んでいる。
そこに行ったら楽になれるのか?
 
今行くぞ、オスカル

  
レジーは今、狂気の扉を開けようとしていた。
  
そのとき誰かが側に立ったことに気がついたが、もう彼は目を開ける気力もなかった。
「何を弱気になっておるのじゃ、この馬鹿者が。しっかり目を開けろ。」
その聞き覚えのある声に驚き、レジーは目を開けた。
「師匠(マスター)・・・」
白髪で長い髭を蓄えたその老人は、レジーの拳法の師匠で、蠍拳の唯一の伝承者であった。
彼は苦虫を噛み潰したような顔でレジーの手首をつかむと、彼の脈を見た。
「ふん、ぎりぎりというところかの。」
老人はそう言うと懐から布製の袋のようなものを取り出して広げた。中から出てきたのは長い極細の針の束だった。案内をしてきた男にレジーの拘束を解き、服を脱がすように言った。その針の束を口にくわえると素早くツボを探し、針を打った。見る間にレジーの身体に数十本の針が打ち込まれて行く。

針の数が増えるたびにレジーから苦痛が減り、ぼんやりしていた精神が霧が晴れるようにはっきりとしていくのを感じていた。 

老人はレジーの猿轡を外してやると、彼の体を少し起こし、持ってきた水を飲ませた。
「あの山の水じゃ。ゆっくり飲むのだぞ」
水はかさかさだった彼の喉を潤し、身体に染み渡っていった。
「もう大丈夫だ。少し休むが良い。」
レジーは捨てられた子猫のような表情で恩師を見つめると、小さく頷いた。
老人が最後の針を打ち終わり安堵のため息を漏らしたとき、レジーは緊張していた心を開放し、やっと安心して意識を手放した。


老人は残った針を懐に片付け、後ろを振り向くと心配そうに覗き込んでいたラップ少将に向かって言った。
「危ういところでしたな。なんとか間に合ったようだ。」
「李大龍先生。こんなところまでお呼びだてしまして、本当に申し訳ありませんでした。」
「少し休ませたら、しばらく私が預かりましょう」
「やはり船の中では回復は難しいですか?」 
「新鮮な水がたくさん必要ですからな。それにもう一度鍛えなおさなくては使い物にならない。」 

 




ベルサイユに住居を構えるルベル伯爵夫人のサロンでは午後のお茶会が開かれていた。そして女性たちはあちこちから集めた珍しい菓子をつまみながら、いつもの他愛のない噂話に講じていた。

「みなさん、今日はイギリスから私の友人が参りましたの。ご一緒させていただいてよろしいかしら?」
ルベル伯爵夫人は友人を部屋に招き入れた。
「まあ、あなたって素晴らしいプロポーションなのね。羨ましいわ。私なんてこのお肉が邪魔で・・・。」
「そういえば、最近話題になっているあのお茶の話ご存知?」
「あの痩せられるとかいうお茶・・・?」
「本当なのかしら、本当だったらいいわねえ。」
「本当なら私も欲しいわ。」
「どちらで手に入るのかしら?」
「お土産代わりにお持ち致しましたわ。試してみます?」
イギリスから来た夫人は得意そうに言うと侍女を呼んだ。
「レティシア」
赤毛の侍女はワゴンの上に茶器を乗せて静かに入ってきた。皆の注目の集まる中、ティーポットからカップにお茶を注ぐと一人一人に配った。

「不思議な香りね」
「このお茶にはミルクや砂糖を入れてもいいのかしら?」
「さあ、どうぞお好きに召し上がって。」
夫人の薦めに皆神妙な顔で、お茶を口にする。

「薬を飲んでいるようね。」
「そう・・・ね。あまりおいしいとは言えないかも。」
「でも、なんとなく効き目がありそうだわ。」
「このお茶どちらで手に入るのかしら?」
「私も欲しいわ。」
「私も。」
夫人は皆の反応を確かめるとにっこりと微笑んだ。
「お任せ下さい。皆さんには特別にお分けいたしますわ。その代わり他の方には内緒にして下さいね。」
  


− つづく −

 

 

2006/7/20