太陽・作


第 3 部

 

第11章 そして海へ


 

登場人物紹介


レジーは地下の麻薬工場に飛び込むとマントノン医師を探した。工場の中は組織の人間の手によって証拠隠滅のために、破壊されていた。どこを探してももう『ストーム』の残骸さえも見つけることはできないだろう。飛び散った精製器具の破片で足を切らないように気をつけながら室内をくまなく歩き回ったが、マントノン医師は見つからなかった。ただ彼の足に着けられていた鎖だけが転がっていた。彼はしゃがみ込むと鎖を手に取って調べた。
「遅かったか・・・鎖を外して行ったということは、とりあえず無事か。」

そのときレジーは鋭い殺気を感じ、後ろへ飛びのいた。
今までレジーがしゃがんでいた位置に短剣が深々と突き刺さった。
「ほう、さすがだな『ブルーシャーク』。見たところ何も武器を持っていないようだが?」
「余計なお世話だ。」
「お前とはチャンスがあれば勝負をつけたいと思っていた。素手で勝負と行こう。」
ウォルター・バートンは床から引き抜いた短剣を鞘に収めると、身構えた。
「残念だが、そんな時間はない」
レジーはマントノン医師のいない今、ここを一刻も早く出て『レイヴン』を追い、シルビィを助けたかった。
彼に背を向け歩き出したレジーに「逃げるのか?」と追い討ちをかける。
それでも無視して歩き続けたレジー対して、素早い蹴りの連続技が仕掛けられた。その攻撃を肘と腕で確実に防御しつつ、レジーはこのまま逃げられないことを悟った。

「本気か?」
「もちろん、本気だ」
ウォルター・バートンは両足で軽やかに足踏みするような構えで、レジーの周囲を巡り、目にも留まらぬ速さで連打を繰り出す。その手足、肘、膝を使った多彩な攻撃をぎりぎりで見切って最小限の動きで避ける。ものすごいスピードのハイキックがレジーの頭を目掛けて飛んできた。左腕で辛うじてその蹴りを受け止めたが、あまりの衝撃に受け止めた腕が痺れ、瞬時に腫れあがる。
「ムエタイだな。」
「そうだ」

その昔14〜18世紀に栄えたアユタヤ王朝で、隣国ミャンマーによる侵略の危機に、素手で相手を倒すために編み出された武術。ムエタイは頭、両手、両肘、両膝、両足を武器としており、そのため立ち技最強の格闘技といわれている。

レジーは彼と間合いを取りながら、深く膝を折り、しなやかな豹のような独特のポーズで構えた。その柔らかな構えからレジーの反撃が始まる。
相手の攻撃を受け止め、その相手の力を利用して反撃に転じる独特の拳法。故に一見不自然と思われる姿勢からでも、無理なくしかも連続して繰り出すことのできる突き及び蹴り。破壊力がなさそうに見えて、その実正確に相手の急所のツボを突き、様々な効果をもたらすことが出来る。ただ自分の気を注入する技なので、むやみやたらに使うことは出来ない。

「その構えは、中国拳法か。太極拳でもないし少林拳でもない。」
ウォルター・バートンはレジーの攻撃を受けながら不思議に思った。
(スピードは確かにある。しかしどうだ、この威力のない攻撃は? まるで痛くない。ただ、触れられた所が徐々に熱を帯びてくるような・・・。)
「あ?」
ウォルター・バートンの身体の動きが突然止まった。自分では指一本動かすことも出来ない。
「くっ・・・もしかして・・・あの中国拳法の奥義を窮めたという・・・蠍拳・・・」
「そのとおり。では急ぐので失敬。」
「待て! どうなるのだ、私は。」
「ああ、妻に失礼なことをした御礼に2時間ほどそのままだな。」
レジーは、彼に背を向けて悠々と歩き去った。
「2時間だって? 卑怯者、ふざけるな!」
後に残されたウォルター・バートンは、身動きのとれぬまま喚き続けていた。


オスカルの待つ船へ向かいながらレジーは指笛でふくろうの“パック”を呼んだ。彼の腕に舞い降りた“パック”の足に連絡事項を書いたリングをつけ空へ放つ。まもなく夜が明けてしまう。“パック”が飛べるぎりぎりの時間だった。

レジーはこの頃からまた身体の不調を感じていた。
(何とかしてオスカルを連れて、ル・ブロンニュー号まで戻らなければ。そのためには“パック”お前が頼りなのだ。)
レジーは祈るような気持ちで“パック”の後姿を見つめていた。

「遅かったな。」
オスカルは戻ったレジーの顔を見た瞬間、彼の体調が優れないことを見て取った。既に呼吸は乱れ、顔色が蒼白となっている。
「すまん、待たせたな。すぐ出発だ。」
彼が無理をしているのは分ったが、オスカルはあえて何も言わなかった。

二人は船に乗り込むと湖に出た。
レジーは痛みに耐え、歯を食いしばりながら、操船作業を続け、簡易な帆を上げた。なんとか風を捕らえることができ、このまま舵だけ握っていれば目的地まで船が運んでくれるだろう。
「後は私がなんとか操船してみよう。お前は少し休め。」
オスカルはレジーの手から舵を取り上げた。
「まもなく、日が昇る。東に向かってくれ。東側の対岸に仲間が馬車で迎えに来てくれる筈だ。」
レジーは素直にオスカルに場所を譲り、座り込んで目を閉じた。閉じた目の奥に派手な色が溢れる。原色が渦を巻き、身体が浮いて振り回されているような感覚に吐き気がする。痛みと吐き気に、脂汗を流して耐えているレジーの背中をオスカルは優しく擦り続けた。
「レジー、少しでも楽な姿勢を取ってくれ。私の膝でよければ枕代わりに横になったらどうだ。」
気休めなのだろうが、オスカルが触れるとその部分が一瞬でも痛みが和らぐような気がした。

“パック”の連絡を受けた仲間が馬車で待っていてくれ、ル・ブロンニュー号の停泊地へ向かった。馬車の振動はレジーになお一層の痛みをもたらしたが、オスカルの膝の上に頭を乗せ、子どものときのようにそっと髪を撫でられて「レジー、大丈夫だ。あと少しの辛抱だ。」とやさしく声をかけられていると、身体はこの上なく辛いが、ほんのちょっぴり幸せだった。

レジーが彼女の膝に頭を乗せたままそっと目を開けると、髪を撫でながら心配そうに覗き込むオスカルの顔が見えた。それが嬉しくて一瞬痛みを忘れ微笑んだ。
「どうした? 何か私に出来ることはあるか? 何でもしてやるぞ。」
「ふふっ、じゃあ、キスしてくれ。」
「な・・・なんだって」
「だめか?」
「う・・・何でもしてやると言ったのは確かだが・・・」
レジーは覗き込んでいたオスカルの後頭部をつかむと自分に引き寄せ、ゆっくりと味わうようにくちづけた。


オスカルとレジーは、やっとル・ブロンニュー号へ戻ることが出来た。だがそこには一緒に戻る筈だったシルビィとエミーの姿もなく、もちろんブラックオルカの姿もなかった。ル・ブロンニュー号の船員たちはレジーたちの仕事がうまくいかなかったことは知っていたが、レジーの悲惨な状況までは分っていなかった。いつもの颯爽としたレジーではなく、青ざめ、ふらついていた。

レジーは激しい苦痛を耐え、精神力だけでここまで戻ってきたのだった。途切れそうになる気力を必死で保ち、自らの足で何とか立とうと頑張っていた。が、既に自力で立つこともままならない状態だった。
オスカルは彼のプライドを傷つけないようにさりげなく彼の肩を支え、司令長官室まで連れて行った。ラップ少将を前にしたとき、レジーはうなだれていた頭をキッと上げ、ラップ少将に向かって敬礼した。


そのいつもの彼とはまるで違う鋭い眼光を放つすみれ色の瞳を見たとき、レジーの精神はもう既に限界ぎりぎりに達していることをラップ少将は感じ取った。
「これを・・・ 。」
彼は胸の内ポケットから『ストーム』とマントノン医師から貰った薬を渡した。
それから部屋に居た船の書記に向かって言った。
「今から私が言うことを正確に書きとって下さい。」
レジーはあのときスタンフォード伯爵夫人に取り上げられた『ストーム』の製造方法等について書かれていた書類の内容を苦しい息の下から、一言一句間違えずに話した。

レジーは現在で言う「カメラアイ」という特殊能力を持っており、一度見たものをカメラで撮影したかのように正確に記憶することが出来るのだった。

そしてレジーは、自分の不手際を陳謝し、今渡した『ストーム』の現物とマントノン医師の作った解毒作用のあると思われる薬を至急分析して何とか対応策を考えて欲しい旨訴えた。

レジーがすべてを話し終えたとき、ラップ少将の利き腕がレジーのみぞおちを強打した。彼はそのまま気を失い、床の上に音を立てて崩れ落ちた。
「弱っている者に何をする!」
オスカルがラップ少将に食って掛かろうとしたとき、水夫長のエドモンが黙って割って入りオスカルを制した。
「営倉へ連れて行け。舌を噛ませないように。」
「はい、承知しました。」
エドモンはその巨体を揺らし、レジーの腕をつかみ軽々と肩に担ぐと船底にある営倉へ運んだ。
「待て、レジーをどうするのだ。」
エドモンの背に向かって追い縋ろうとしたオスカルに対して、ラップ少将は静かに言った。
「この船は今フランスへ向かっている。彼のことは我々に任せて、君はすぐベルサイユに戻りたまえ。」
「すぐにベルサイユに・・・なぜですか? 彼がこんな状態なのに納得できません。」
「理由の一つは『レイヴン』がベルサイユに潜入しているとの情報があったからだ。ベルサイユでの仕事は、諜報部の中で君が一番相応しい。あと一つは・・・聡明な君なら説明せずとも解る筈だ。」



船底にある狭い営倉にレジーを降ろすとエドモンはレジーの口をこじ開け、猿轡をきつく噛ませた。そして営倉の床に取り付けられた金属の輪にレジーの手首・足首を通し拘束した。彼は意識の戻ったレジーが自らを傷つけることのないように細心の注意を払っていた。

エドモンは熊のような巨体に似合わぬ小さな優しい目でレジーを見つめていた。
(気を失っている今だけが最後の安息だなんて・・・ 。これからお前の地獄が始まる。未だかつて『ストーム』の中毒から抜け出した人間は一人もいないと聞いた。だけどきっとお前ならできるさ。なあレジー・・・)


レジーの意識はまだ完全に覚醒していなかった。
ここはどこだろう?と窓もない薄暗い営倉で彼はぼんやりと考えていた。
(水あかの据えた臭い・・・船の中か)
周りを見ようとほんの少し頭を動かしただけで目が回り、気分が悪くなった。そして、無意識に起き上がろうとして、拘束されている自分に気がついた。

なぜ、ここまできつく拘束されているのだ
猿轡まで・・・
息がしづらい、苦しい

鼓動が一気に早くなり、早鐘のように打ち続ける。呼吸は浅く速くなり、汗が吹き出る。意識がない間だけは忘れられていた痛みを、己が身体で改めて思い知らされた。

ラップ少将が・・・
ああ、そうだ
この猿轡も、この動かない手足もすべて私の身体を守るため
彼の目にはもう限界に見えたのだろう
あのままだと自分自身を傷付けたかも知れない
これでは、何もできない
舌を噛むことさえ・・・

ラップ少将の思いやりは嬉しかったが、果てしなく続くであろうこの地獄の痛みを本当に耐え切ることが出来るのか自信がなかった。

苦しい、身体が軋むほど痛い
脈と共に痛みが全身を駆け巡る
痛い、痛い、痛い!!
痛む部分が一部なら切って捨てたい
何もできない自分の身体が呪わしい

いつまでこの痛みは続くのだろう
どこまで耐えればいいのだろう

痛みは間断なく彼を襲い、しかもどんどんその度合いは強くなっていく。
先の見えない恐怖は彼の強靭な精神をも崖っぷちに追い込んで行く。暑くもないのに汗が止まらない。時間の感覚がまるでなくなってしまっていた。希望のまるでない苦しみにレジーはずっと打ち消していた、決して叶えられることのない、決して叶えてはいけない望み、それだけを考えるようになっていった。

薬が欲しい・・・ 『ストーム』が
薬を、くれ!!
薬・・・

彼はその最悪の願いを打ち消すように最愛の人の名を呼び続けた。
オスカル・・・オスカル・・・オスカル
愛している
愛している・・・オスカル

それは正気を保つための最後の呪文だった。

深夜――。
耐えて、耐えて、耐えに耐えた男の呻き声が、きつく噛ませられた猿轡からとうとう漏れ出した。その声を船の乗組員全員が信じられない思いで聞いていた。
皆彼の回復を信じていたが、どうしてやることもできず、ただ祈ることしかできなかった。

夜明け前――。
オスカルは音を立てないように静かに船底に向かって降りて行った。下からは到底レジーの声とは思えないような呻き声が聞こえてきた。哀しい響きだった。営倉の前まで行きレジーに直接会いたかったが、レジーがそれを望まないことが分っていたので、階段の上から下の営倉に向かって、話しかけた。
「レジー、私だ。心配しなくてもここからはお前の姿は見えない。これから言うのはただの独り言だ」

その声に弾かれるように呻き声はぴたりと止んだ。
「私は間もなく船を降りてベルサイユに戻る。私が今のお前の側にいても役に立たないだろうから。」
オスカルはそこまで言うと階段に力なく座り込んだが、努めて明るい声で続けた。
「シルビィとエミーも必ず見つけて助け出す、だから安心して早く元気になってくれ。」

なぜもっと早く彼の変調に気がつかなかったのか。あんなに近くにいたのにまるで気がつかなかった自分の迂闊さが悔しかった。麻薬の禁断症状の辛さは本などで得た知識でしかなく、実際どれほど辛いのか分らない。オスカルの脳裏にスタンフォード城の地下牢で見た精神を破壊された人々の姿が思い出され、その姿がレジーと重なった。

彼を永遠に失うかも知れない? 
そんなばかな! 
いやだ、いやだ、レジー

オスカルはその幻影を必死で振り払おうとしたが、身体はガクガクと震え、涙が溢れてきた。

「レジー約束してくれ。『ストーム』になんか負けないと。いいな、絶対だぞ。私はお前を信じて待っている。」

オスカルは涙を拭うと立ち上がり、後ろを振り向かずに階段を登って行った。

ベルサイユ? なぜ・・・
上層部がオスカルを手放す訳がない
もしかして『レイヴン』がベルサイユに?
やめろ、行くな、オスカル!
今の俺はお前を守れない
オスカル――


第3部 終

 

 

2005/7/20