レジーは地下の麻薬工場に飛び込むとマントノン医師を探した。工場の中は組織の人間の手によって証拠隠滅のために、破壊されていた。どこを探してももう『ストーム』の残骸さえも見つけることはできないだろう。飛び散った精製器具の破片で足を切らないように気をつけながら室内をくまなく歩き回ったが、マントノン医師は見つからなかった。ただ彼の足に着けられていた鎖だけが転がっていた。彼はしゃがみ込むと鎖を手に取って調べた。 そのときレジーは鋭い殺気を感じ、後ろへ飛びのいた。 「本気か?」 その昔14〜18世紀に栄えたアユタヤ王朝で、隣国ミャンマーによる侵略の危機に、素手で相手を倒すために編み出された武術。ムエタイは頭、両手、両肘、両膝、両足を武器としており、そのため立ち技最強の格闘技といわれている。 レジーは彼と間合いを取りながら、深く膝を折り、しなやかな豹のような独特のポーズで構えた。その柔らかな構えからレジーの反撃が始まる。 「その構えは、中国拳法か。太極拳でもないし少林拳でもない。」 オスカルの待つ船へ向かいながらレジーは指笛でふくろうの“パック”を呼んだ。彼の腕に舞い降りた“パック”の足に連絡事項を書いたリングをつけ空へ放つ。まもなく夜が明けてしまう。“パック”が飛べるぎりぎりの時間だった。 レジーはこの頃からまた身体の不調を感じていた。 「遅かったな。」 二人は船に乗り込むと湖に出た。 “パック”の連絡を受けた仲間が馬車で待っていてくれ、ル・ブロンニュー号の停泊地へ向かった。馬車の振動はレジーになお一層の痛みをもたらしたが、オスカルの膝の上に頭を乗せ、子どものときのようにそっと髪を撫でられて「レジー、大丈夫だ。あと少しの辛抱だ。」とやさしく声をかけられていると、身体はこの上なく辛いが、ほんのちょっぴり幸せだった。 レジーが彼女の膝に頭を乗せたままそっと目を開けると、髪を撫でながら心配そうに覗き込むオスカルの顔が見えた。それが嬉しくて一瞬痛みを忘れ微笑んだ。 オスカルとレジーは、やっとル・ブロンニュー号へ戻ることが出来た。だがそこには一緒に戻る筈だったシルビィとエミーの姿もなく、もちろんブラックオルカの姿もなかった。ル・ブロンニュー号の船員たちはレジーたちの仕事がうまくいかなかったことは知っていたが、レジーの悲惨な状況までは分っていなかった。いつもの颯爽としたレジーではなく、青ざめ、ふらついていた。
レジーは激しい苦痛を耐え、精神力だけでここまで戻ってきたのだった。途切れそうになる気力を必死で保ち、自らの足で何とか立とうと頑張っていた。が、既に自力で立つこともままならない状態だった。
レジーは現在で言う「カメラアイ」という特殊能力を持っており、一度見たものをカメラで撮影したかのように正確に記憶することが出来るのだった。 そしてレジーは、自分の不手際を陳謝し、今渡した『ストーム』の現物とマントノン医師の作った解毒作用のあると思われる薬を至急分析して何とか対応策を考えて欲しい旨訴えた。 レジーがすべてを話し終えたとき、ラップ少将の利き腕がレジーのみぞおちを強打した。彼はそのまま気を失い、床の上に音を立てて崩れ落ちた。 船底にある狭い営倉にレジーを降ろすとエドモンはレジーの口をこじ開け、猿轡をきつく噛ませた。そして営倉の床に取り付けられた金属の輪にレジーの手首・足首を通し拘束した。彼は意識の戻ったレジーが自らを傷つけることのないように細心の注意を払っていた。 エドモンは熊のような巨体に似合わぬ小さな優しい目でレジーを見つめていた。 レジーの意識はまだ完全に覚醒していなかった。 なぜ、ここまできつく拘束されているのだ 鼓動が一気に早くなり、早鐘のように打ち続ける。呼吸は浅く速くなり、汗が吹き出る。意識がない間だけは忘れられていた痛みを、己が身体で改めて思い知らされた。 ラップ少将が・・・ ラップ少将の思いやりは嬉しかったが、果てしなく続くであろうこの地獄の痛みを本当に耐え切ることが出来るのか自信がなかった。 苦しい、身体が軋むほど痛い いつまでこの痛みは続くのだろう 痛みは間断なく彼を襲い、しかもどんどんその度合いは強くなっていく。 薬が欲しい・・・ 『ストーム』が 彼はその最悪の願いを打ち消すように最愛の人の名を呼び続けた。 愛している 愛している・・・オスカル それは正気を保つための最後の呪文だった。 深夜――。 夜明け前――。 その声に弾かれるように呻き声はぴたりと止んだ。 なぜもっと早く彼の変調に気がつかなかったのか。あんなに近くにいたのにまるで気がつかなかった自分の迂闊さが悔しかった。麻薬の禁断症状の辛さは本などで得た知識でしかなく、実際どれほど辛いのか分らない。オスカルの脳裏にスタンフォード城の地下牢で見た精神を破壊された人々の姿が思い出され、その姿がレジーと重なった。 彼を永遠に失うかも知れない? オスカルはその幻影を必死で振り払おうとしたが、身体はガクガクと震え、涙が溢れてきた。 「レジー約束してくれ。『ストーム』になんか負けないと。いいな、絶対だぞ。私はお前を信じて待っている。」 オスカルは涙を拭うと立ち上がり、後ろを振り向かずに階段を登って行った。 ベルサイユ? なぜ・・・
第3部 終
2005/7/20
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