〜もっとも感動的だった祭り〜
裸押し合い  僕がもっとも感動してしまった祭りをあげておこう。
それは連載8回目、新潟県栃尾市の裸押合い大祭である。
 この祭り、けっして有名なものではない。いや、実は有名なのである。この祭りとよく似て、同じ新潟県で行われている「毘沙門堂裸押し合い祭り」のほうは。
 だが「裸押合い大祭」のほうは、内容がほとんど同じなのにあまりに地味である。しかし、祭りの魅力・感動性は、有名無名とは関係ない。そのことを教えてくれたのが、この祭りなのだ。
 祭りは、きわめて小さなお堂の中で行われる。しかもその日は、冬の新潟ではトーゼンのごとく雪が降っていた。雪のせいで、ただでさえ狭い神社は閉ざされ、外部から切り離され、まるで子宮のような、奇妙に魅力的な空間を作っていたのである。
 お堂の中は、人々の熱気で曇っていた。さし込み一枚の裸の男たちが、 「サンヨー、サンヨ!」
 と変な叫び声をあげながら、神官が上空からまく「福の札」を奪いあっていく。
その横では、二人の「恵比寿」が座り込んで、 「天下泰平、極楽極楽!」 というふうにパタパタ扇で扇ぎながら、くじをゆっくり引いていく。
 どこかこの世ではなく、夢のような世界だったのだ。
 僕は、江戸川乱歩の『挿絵と旅する男』という不思議な短編を思い出した。
 男が一枚の絵を持って旅をしている。そこには一人の男と女が描かれているのだが、奇妙なことに、この挿絵の中で男と女は動き、微笑み、抱擁しあっているのだ。
 絵の持ち主は説明する。絵の中の男は、実は自分の兄だ。兄は、この絵に描かれている女に恋をしてしまい、そしてこの絵の中に入っていってしまった。そして今では絵の中の女と愛し合い、むつまじく暮らしているのだ……と。
 裸押し祭りも、これと同じミニアチュアの魅力だった。狭いお堂の中に、宇宙や、人間の喜びと悲しみ、愚かしさや賢さ、栄光と苦悩、世界のすべてが存在するのだ。
 このような祭りを見るにつけ、日本もまだまだ捨てたもんじゃないと思う。そして、次にはどんな魅力的な祭りが待ち構えているんだろうと、僕の好奇心を激しくそそるのである。

 


 新潟の栃尾は、まるで迷宮だった。今回は車で行ったのだが、 凄まじい雪で、行けども行けども着かない。 途中で数回タイヤのチェーンを切りながらも無理やりたどり着いたが、 そこには祭りが行われているはずの巣守神社はなかった。
 いや、地図にはしっかり「巣守神社」と書かれているのだが、
どこにも影も形もないのだ。だいたい、神社でお祭りがあるとすると、人やお店が訳もわからず出ていて、一発で分かるのである。しかたがないので、雪の中にたたずむ駐在所(なつかしい言葉だなあ)にしつこく問いただしてみると、恐るべき事実が判明した。
 この栃尾市には、「巣守神社」という同じ名前の神社が、何ヶ所もあったのである。
そして、今回見に行った「裸押合大祭」が行われているのは、そこからはるか離れた別の「巣守神社」だったのだ。いったいどうなっているんだ。ひっかけ問題としか思えない。これは、人間どもを惑わすための「罠」なのだろうか。
 だが、そんなひっかけ的巣守神社で行われていた裸押合大祭は、いままで僕が見た祭りの中で、もっとも奇妙で感動的な祭りだったので、ここで静かに報告しておきたい。ほら、もう男たちの奇怪な呼び声が聞こえてくる・・・・
雪が降っていた。すでに祭りは始まっていた。
 ふんどし姿の男たちが数十人、巨大なろうそくを手にして、一気に神社のお堂の中に駆け込んだのである。ほとんど冬季オリンピックと同じである。
僕も彼らに便乗して、思わずお堂の中に入ってしまった。
中にはほのかな灯りがともり、その狭い空間には、汗だくのふんどしの男たちが群がり、みななにか取り付かれたような目で上空を眺めていた。
中は壁で仕切られていて、一方の空間の中に裸の男たちは押し込められている。いっちゃ悪いが、強制収容所のような感じである。それほど狭い場所なのだ。
男たちが見つめているのはなんだろう・・・・僕が目を向けると、烏帽子をかぶり長靴を履いた一人のおっさんが壁によじ登り、壁の穴に上半身を突っ込んだ。
いきなり、ふんどしの男たちが叫び始めた。「サンヨー、サンヨ!サンヨー、サンヨ!オッセ オッセ、オッセ オッセ・・・・・」
この意味不明な叫びはなんなんだ、と思うまもなく、烏帽子のおっさんは上空から次々と何か白い物体をばら撒き始めた。
「ワーーーー!」と叫びながら、男たちは先を争って拾っていく。そして拾い上げた小さな物体を、ふんどしの中に次々と押し込んでいく。それが終わると、ふたたび、「サンヨー、サンヨ!」
の意味不明な叫び声が始まった。
このばら撒いていたのは、「お札」だったのである。神官がまるで神のように上空から幸運のお札をばら撒き、そこで男たちは、一人一人自らの「運命」を拾い上げていくのである。
これは、まるで「世界の創造」そのものではないか。 男たちは裸だ。赤ん坊なのである。しかも彼らは、余計な言葉をしゃべらない。僕が聞いた限り、彼らは「サンヨー」と「オッセオッセ」以外の言葉を口にしなかった。その言葉がしゃべれない赤ん坊たちの上に、「神」である神官が、幸運の札をばら撒いているのである。神は存在した。しかもこの神は長靴を履いていたから、「長靴を履いた神」なのである。
この祭りは、まさに「宇宙の創造」のミニチュア版だったのだ。
男たちの間には、ちょうど宇宙のカオス状態のように、まったく秩序がないように見えた。みんな勝手に叫び、お札が撒かれると、みんな先を争って拾い、ふんどしの中に押し込んでいく。
赤ん坊のように、みんな私利私欲のためだけに生きているように見えるが、よく観察してみると、面白いことに気付く。
自分勝手ながらも、そこにかすかな「秩序」が芽生え始めているのが分かるのだ。
赤ん坊たちは、「サンヨー、サンヨ!」と叫ぶ。だが、その呼び声が徐々に「オッセオッセ」に変わっていく。
誰が命令するわけでもない。自然に変わっていったのである。
このあたり、ビッグバン直後の宇宙のカオス状態から、少しずつ秩序が生まれ、星が生まれ、生命体が誕生していく姿を見るようである。今回は、かなり高尚な話で進んでいくのである。。。
ちょうど『古事記』の中で、イザナギとイザナミが世界を創造するために、下界の泥濘を矛でかき回し、その混沌の中から世界が生まれていく・・・・そんな状況を見るようだった。
さて、この祭りはもともと毘沙門天の前で行われるものなのだが、お堂の中に不思議なキャラクターを見た。
「えびす」である。
えびすが二人、座敷に座り込み、しきりにおみくじを引いているのである。
えびすは引き上げたおみくじをわざとらしく掲げ、覗きあげる。そしてしきりにうなづき、隣に控えている女性に手渡す。そして、何度も何度も「天下泰平」という感じで、センスをパタパタするのだった。
聞いてみると、このおみくじは事前に地元の人に買ってもらい、えびすが引いて商品を割り当てていくのである。
ここにもいたのである、「神」が。この祭りは、神々のオンパレードなのである。
それにしても、狭く暗いお堂で、恵比寿がしきりにセンスをパタパタ言わせながら、ゆっくりとくじを引いていく姿は、不思議な光景だった。
そして板壁の向こうでは、裸の男たちが意味不明の言葉を叫んでいる。時々、長靴を履いた神官がお札をばら撒いていく。男たちはわっと叫んで、まるで獣のようにお札を奪い合っていく。
まるで、夢でも見ているようだった。とても現実のものとは思えなかった。
だが、祭りとは、すべて夢のようなものなのである。今回見た「裸押合大祭」は、まさにその祭りの基本を守り、宇宙の根源まで迫った、感動的な祭りだった気がする。
太鼓が鳴り響いた。祭りが終わった。僕が外に出ると、まだ雪は降り続いていた。雪の中にほのかに光る神社は、僕にはまるで、輝ける「子宮」のように見えた。それは雪の中に、世界の混沌と創造を守りかくまう母体のように見えたのである。
輝ける子宮に、雪は静かに降り込んでいた。

出典
やどぐる 日本全国温泉宿グルメ http://www.yadogurume.com/
日本お祭り紀行 http://www.yadogurume.com/maturi/

ライタープロフィール
杉岡 幸徳(すぎおか こうとく) http://www.sugikoto.com/

兵庫県生まれ。フリーライター。
東京外国語大学ドイツ語学科に在学中からアジア、ヨーロッパを放浪、加えてなぜか池袋の路上でギター片手に歌いながら華麗な生活を送る。
だが、1999年にオーストリアの特異な詩人ゲオルク・トラークルついて書いた修士論文『ゲオルク・トラークル、詩人の誕生』が教授たちの怒りをかい大学から追放、この論文を鳥影社から出版して文筆活動に入る。
2000年、旅行雑誌『のまど』に送った旅行エッセイ「ラオスの女性は美しいか?」で優秀賞を獲得、以後『旅行人』『旅日記』『Rojin』『のまど』などに旅行記を発表する。好きな音楽はジャズとワーグナー、あとダリやブニュエルを愛する。

このページは、(株)インターメディアシステム様の承諾をいただいて掲載しております。

トップページへ戻る

Copyright (C)2003 Inter Media System Inc. All rights reserved.